本稿では、多種多様な用途に用いられる「火薬」の歴史を神話時代(紀元前)から現代まで追ってみた。
少々、長いがわずかな笑いを混じえつつ、可能なかぎり分かりやすくまとめたので、ぜひ、ご覧いただきたい✨

💣神話・先史時代(紀元前)💥
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 紀元前2000年頃 | 古代中国では硫黄が薬用・防腐・冶金などに使われ、のちの火薬材料に関する知識の土台が築かれていく。 殷・周の冶金では木炭が用いられ、鉱物を加熱・精製する技術も積み重なる。 火薬そのものはまだ先でも、材料を知る長い助走はしっかりカリカリかりんとう……の甘さほど素敵に続いていたらしい。 どんな継続や |
| 紀元前8世紀頃 | インドの古代文献に硝石と解される物質の記述があるとする資料があり、薬用や冷却への利用可能性が語られる。 |
| 紀元前315〜300年頃 | テオフラストスの著作に硫黄や硝石に関係する記述があるとされるが、黒色火薬の製法を示すものではない。 薬を探した先で、火薬の芽まで育てていたらしい。 |
| 紀元前200年頃 | 中国では硝石が薬物として認識され、錬丹術へ素敵に取り込まれていく。 |
| 紀元前141年〜87年頃 | 前漢の武帝は不老長寿の霊薬を求め、方士による錬丹術を保護していく。 仙薬づくりの試行錯誤が、鉱物・硫黄・硝石・木炭の性質を知る長い助走になったと考えられる。 仙薬を求めた試行錯誤が、まったく別の技術へつながっていく。 |
🧨弥生時代(紀元前十世紀頃〜三世紀頃)💥
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1世紀頃 | 中国では硝石が医薬や錬丹に用いられ、燃焼時に特徴的な炎を示す物質として知られるようになる。 火薬へ近づく道筋が、このあたりからじわりと見えてくる。 |
| 2世紀頃 | 魏伯陽の『周易参同契』には、錬丹の失敗時に「飛亀舞蛇」と表現される激しい反応が記される。 黒色火薬の完成を直接証明する記録ではないものの、仙薬づくりの途中で亀が飛び、蛇が舞うほどの反応まで‥あっちゃぅ。 |
| 220〜240年頃 | ユリウス・アフリカヌスはナフサなどを使う燃焼性兵器を記したとされる。 ただし、硝石系黒色火薬とは別系統の火攻技術に‥なっちゃぅ。 |
💣古墳時代(三世紀頃〜七世紀頃)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 4世紀前半 | 葛洪の錬丹書には硝石・硫黄などの加熱反応に関わる知識が見え、火薬前史の一段階として位置づけられる。 不老長寿を目指した研究が、燃焼化学を育てることに‥なっちゃぅ。 |
| 492年 | 陶弘景は硝石が紫色の炎を上げる性質を記し、硝石を他の塩類から見分ける実用的な知識が示される。 |
| 6世紀前半 | 陶弘景は硝石の産地や性質を論じたとされ、錬丹家による硝石の識別・精製知識が深まっていく。 不老長寿の薬を追ううち、火薬の芽まで育っていたらしい。 |
🧨飛鳥時代(七世紀〜八世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 600〜700年頃 | インドやビザンツでは石油・ナフサ系の燃焼兵器が発達し、「インドの火」「ギリシャの火」と呼ばれる火攻技術が知られる。 これらは黒色火薬とは組成も系譜も異なる。 火薬兵器の姿が、ここからいよいよ具体的になっていく…… ‥そぅ‥アタイがスッカリとアンタ色に染めらちまってくよぅに‥💋 |
| 678年 | コンスタンティノープル防衛で「ギリシャの火」が用いられたとされ、水上でも燃え続ける火攻兵器として威力を示す。 水をかけても消えにくい火となれば、守る側も攻める側も困った困った小松菜奈‥な状態に‥なっちゃぅ。 |
| 7世紀頃 | 孫思邈に関係する錬丹資料には、硫黄・硝石・木炭質を混ぜた際の激しい燃焼を警戒する記述がある。 この頃までに中国の錬丹家は、火薬へ近づく混合物の危険性を経験的に知っていたらしい。 |
| 7世紀後半〜8世紀初頭 | 張鷟の文学作品に「火薬丸」と訳される表現があるとする資料もあるが、娯楽用火薬を示すかは慎重な確認が要る。 そのあたりにも、火薬史らしい時代の動きが見えてくる。 |
💣奈良時代(八世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 8世紀頃 | 中国では竹を焼いて破裂音を出す古い「爆竹」の習俗が続き、のちに紙筒へ火薬を詰める爆仗へ姿を変えていく。 音で邪気を払う竹の爆竹が、火薬を使う祝祭の道具へ素敵に‥あ、なっちゃぅ。 |
🧨平安時代(八世紀〜十二世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 808年 | 『太上聖祖金丹秘訣』に硫黄・硝石・白芷を用いる処方が記される。 完全な黒色火薬とは言い切れないものの、現存する初期の火薬系処方として重視される。 まだ火薬そのものではないが、その輪郭は少しずつ見えてくる。 |
| 9世紀中頃 | 道教文献『真元妙道要略』は、硫黄・鶏冠石・硝石・蜜を加熱して煙と炎が上がり、手や顔を焼いて家まで燃えた事故を警告している。 不老不死を求めていたはずが、家屋まで丸ごと燃えることに‥あ、あっちゃぅ。 |
| 9世紀末 | 唐末には火薬系燃焼剤を投石機で放つ「飛ぶ火」が焼夷用途に用いられたと言われる。 |
| 904年 | 中国で火薬系焼夷剤が軍事に使用された最初期の記録がある。 |
| 970年 | 北宋の馮継昇が火箭を献上し、火薬系火器の開発が相次ぐ時代へ入っていく。 |
| 975年 | 北宋で「火砲火箭」と呼ばれる火器が現れたと記録される。 その記録からも、戦場を変える火薬の力が見えてくる。 |
| 1000年 | 唐福が火箭・火毬・火蒺藜を献上し、焼夷・投射火器が多様化していく。 |
| 1002年 | 石普が火毬・火箭を献上したとされ、北宋で火薬兵器の開発が続いていく。 |
| 1040〜1044年 | 曾公亮らが編纂した『武経総要』に、火箭・蒺藜火毬・毒薬煙毬・霹靂火毬などの製法と火薬組成が記される。 一〇四四年の完成本には「火薬」の語と具体的な配合が図説され、現存する最古級の体系的火薬資料となる。 焼夷・煙・破片・爆音を組み合わせる火器が、びっしりシリシリ尻モチどすこぃ級に並んでい‥申す。ひょ …どんな並びや |
| 1067年 | 北宋朝廷は民間の火薬取引を規制し、軍事技術として管理を強めたとする記録も伝わる。 |
| 1083年 | 宋朝廷は守備隊向けに大量の火箭を生産し、火薬兵器が組織的軍需品へ移っていく。 火薬の知識が海を渡る、その足取りまで伝わってくる。 |
| 1100年頃 | 中国では黒色火薬が実用段階に達し、軍事利用から爆仗・煙火・流星などの娯楽利用へ広がったとみられる。 爆竹・仕掛花火・ロケット状花火が分化し、花火の世界が輪郭を持ち始める。 |
| 1132年 | 徳安包囲戦で宋軍が金軍に火槍を使用した記録があり、筒から炎を噴く火器の実戦例として知られる。 |
| 1147年 | 孟元老の『東京夢華録』は、北宋宮廷の演技で爆仗の大音響に続いて煙火が盛大に始まる様子を記す。 爆音から煙火までワンサカふンガほっホ‥なほど広がり、祝祭の火薬文化が見えてくる。 |
| 1154年頃 | 王銍の『雑纂録』に、黒色火薬を用いた子どもの紙砲と解される記述がある。 火薬が戦場の仕組みを変えていく、その片鱗まで見えてくる。 |
💣鎌倉時代(十二世紀〜十四世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1201年 | 南宋の『会稽志』は除夜の爆竹と硫黄を用いる爆仗を記し、火薬爆竹が都市生活へ浸透していたことが伝わってくる。 そのあたりから、火薬へ続く細い道まで見えてくる。 |
| 1219年 | モンゴル軍が中央アジア方面の戦いで毒火缶・火箭・火砲を使ったとする資料も伝わる。 |
| 1221年 | 金軍が鉄製容器へ火薬を詰めた「鉄火砲」「震天雷」を用いたとされ、密閉容器による破壊力が高まっていく。 |
| 1225年頃 | 中国とイスラム圏の海上交通を通じ、火薬・煙火の知識がイスラム世界へ入り始めたと言われる。 |
| 1232年 | 開封攻防で金軍が震天雷と飛火槍をモンゴル軍に用いた。 鉄製容器の爆弾と炎を噴く槍は、初期火薬兵器の威力を示す代表例となる。 海を隔てても、火器技術の流れは止まらなかったらしい。 |
| 1240年頃 | シリアのイブン・アル=バイタールの医薬書に硝石が「中国の雪」として記され、イスラム圏で中国由来の知識が吸収された。 |
| 1241年 | モンゴル軍が欧州遠征で火薬兵器を使った可能性が論じられるが、具体的証拠には異論がある。 |
| 1252〜1256年 | 修道士ウィリアム・ルブルクがカラコルムで東方の科学技術に接し、帰国後にロジャー・ベーコンと交流した。 |
| 1257年 | イベリア半島でムーア人が投射火器を用いたとする記録があり、イスラム圏から欧州への火器伝播を考える材料になる。 |
| 1258年 | モンゴル軍がバグダード攻略で震天雷などを用いたとされ、火薬兵器が西方へ広がっていく。 炎と爆音だけだった火器が、兵器として輪郭を持ち始める。 |
| 1259年 | 南宋で竹筒に火薬と弾丸を収める「突火槍」が作られ、銃へ近づく筒状火器が現れる。 |
| 1267〜1268年 | ロジャー・ベーコンが著書の『大著作』『第三著作』にて火薬に関わる知識へ言及し、西欧の学術文献に火薬が姿を現す。 |
| 1274年(文永十一年) | 文永の役で元軍が爆発性火薬兵器「てつはう」を使用し、日本側は火縄銃より早く火薬兵器と遭遇する。 これは鑑賞花火の始まりではなく、日本列島で火薬兵器が実戦目撃された早期の記録であり、 不幸にも火薬は日本列島へ兵器としてもたらされたことに..あ、なっちゃぅ。 |
| 1280年頃 | ハサン・アル=ラッマーフの軍事技術書に硝石の精製、ロケット、火槍、焼夷兵器など多数の配合と図が記される。 |
| 1281年(弘安四年) | 弘安の役でも「てつはう」が用いられたとみられ、後世の鷹島海底遺跡から陶製球状火器が発見される。 ここにも、従来の戦いを塗り替える火薬の力が現れる。 |
| 1287〜1288年 | 中国では金属製銃身・火門・火薬室を備える手銃が成立し、黒竜江銃は現存する初期の代表例と‥なっちゃぅ。 |
| 1290年頃 | 周密の『武林旧事』に爆仗・起輪花火・流星花火・水爆花火・地老鼠など多彩な煙火が記される。 |
| 1293年 | モンゴル軍のジャワ遠征を通じ、火薬兵器の知識が東南アジアへ広がったと言われる。 |
| 1299〜1303年 | イスラム軍とモンゴル軍の戦闘で火槍が用いられたとする記録があり、筒状火器の運用が続いていく。 |
| 1310年頃 | シャムス・アッディーン・ムハンマドが「マドファ」を記し、硝石十・木炭二・硫黄一・五の配合を説明したとされる。 配合まできっちりチリチリ ちり陰毛なほど素敵に書き残され、イスラム圏の火器技術が具体的に見えてくる。 |
| 1311年 | グラナダ攻撃で火弾が使用され、その後は火箭などの発射・推進に黒色火薬が使われるように‥なっちゃぅ。 |
| 1320〜1350年頃 | アラビア語写本に火薬矢・爆弾・火筒・火槍・ミドファが描かれ、イスラム圏の火器技術が文書化された。 |
| 1324年 | グラナダ方面で大砲が用いられたとする記録があり、欧州・イスラム圏における金属砲 発展期へと入っていく。 |
| 1326年 | フィレンツェで鉄砲・鉄弾の製造が命じられた記録が‥あ、あっちゃぅ。 同年の写本には欧州最古級の大砲図が描かれ、金属砲が確かな姿を見せる。 火力の差が勝敗へ直結する時代へ、ジワジワと冷や汗の如くに近づいてく‥。 |
【ピヨ🐣コメント】
「黒竜江銃」(こくりゅうこうじゅう)」とは、1970年に中国の黒竜江省で出土した、現存する世界最古の金属管製の銃(火銃・ハンドキャノン)のことをいう。
🧨南北朝時代(十四世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1330年代 | 欧州の海戦や都市防衛で小型砲が使われ始め、火器が戦場へ定着していく。 このあたりから、金属砲が戦場の日常へ入り込む流れが見えてくる。 |
| 1342〜1343年 | マムルーク朝やイベリア半島で金属砲が使用された記録が現れ、イスラム圏の火器史が少しずつ見えてくる。 |
| 1346年 | ロンドン塔で火薬が製造されていた記録がある。 クレシーの戦いではイングランド軍が火砲を用いたとされ、欧州戦争で火薬が重要資材になっていく。 |
| 1365〜1376年 | イスラム圏で鉄球を発射する金属製大砲の同時代記録が現れる。 この頃から、火薬兵器が戦場で確かな姿を見せ始める♡ |
| 1368年(応安元年) | 南蛮人が足利義満へ鉄砲を献上したとする伝承があるが、同時代史料による確定には至らない。 |
| 1370〜1380年頃 | 東西で小銃の原型となる銃筒が作られ、携帯火器の発達が加速した。 |
| 1370年(応安三年) | 尾道の旧家に「応安三年渡来」と伝わる鉄砲があるとする資料があるも、由来の検証が必要に‥なっちゃぅ。 |
| 1378年 | 欧州で硝石床による硝石生産が記録され、火薬原料を人工的に得る仕組みが整い始める。 自然任せだった硝石を、人の手でじっくりクリクリ栗激痛…なほど素敵に生産する時代へ入っていく。どんな生産や |
| 1382年 | ロスベークの戦いなどで大砲が城郭破壊に使われたとされ、火砲が攻城戦の形を変えていく。 |
| 14世紀後半 | 欧州で火薬を粒状化するコーニングが進み、燃焼の均一性・保存性・威力が改善される。 |
| 1396年頃 | 欧州でも火槍・ロケット系火器が知られるようになったと言われる。 火薬の技術は国境を越え、別の戦場へ入り込んでいく。 |
💣室町時代(十四世紀〜十五世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1412年 | 明の『火龍経』に火攻理論と木炭を明記した配合が記され、火箭は弓を使わないロケットへ発展した。 火薬へ向かう流れが、おもむろに姿を見せ始める。 |
| 1413年 | ジャワ島で手砲が使用されたとする記録があり、東南アジアへ携帯火器が広がっていく。 |
| 1418年 | 欧州で手銃が城壁防御に用いられた記録があり、携帯火器の実用化が素敵に進む。 |
| 1424年頃 | 火縄式点火機構の初期例とする説があるも、成立年代には幅があり、断定はできない。 確定できない部分を含みつつ、時代の動きはうっすらと見えてくる。 |
| 1445年(文安二年) | 『壒嚢鈔』に「鉄砲と解される記述が見られる」と紹介する資料があり、日本での火器知識の早期例として検討される。 |
| 1447年(文安四年) | 『建内記』に清浄華院で行われた火術の記録があり、見世物・鑑賞性を備えた火術の最古級記録として重視される。 武器に用いられた火薬が、見世物・鑑賞目的とした火術への変貌を垣間見せる。 |
| 1449年 | ブルゴーニュで大型射石砲モンス・メグが製造され、巨大砲の時代到来を告げた。 |
| 1453年 | オスマン帝国が大型砲を投入してコンスタンティノープルを攻略し、堅固な城壁も火砲で破られる時代へ移っていく。 海の向こうから届いた火器の足跡が、ここにも残る。 |
| 1461年 | ロンドン塔に火薬庫が置かれ、国家管理の火薬備蓄が制度化していく。 |
| 1465年頃 | オスマン帝国でマスケット銃が登場し、歩兵火器が帝国拡張を支える。 |
| 1466年(文正元年) | 琉球人が朝廷で鉄砲を発射して人々を驚かせたとする記録も伝わる。 火器技術は人と船に乗り、海まで越えていく。 |
🧨戦国時代(十五世紀〜十六世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1467〜1477年(応仁元年〜文明九年) | 応仁の乱で鉄砲が用いられたとする説があるも、兵器の同定や史料解釈には慎重さが必要💘 火薬兵器は試作の段階を抜け、実戦の道具へ取り込まれてく‥。 |
| 1486年 | イングランドでヘンリー七世の婚礼に花火が使われたらしく、欧州の宮廷祝祭へ花火が広がっていく。 婚礼の夜空まで火薬が彩り、殺傷兵器として生み出された火薬が祝宴を彩っちゃぅ。 |
| 1499年 | オスマン帝国がレパントを攻略し、火砲・火縄銃を備えた「火薬帝国」の軍事力が拡大していく。 |
| 1500年頃 | レオナルド・ダ・ヴィンチの図案などにホイールロック式点火機構の発想が見られるも、発明者と年代には諸説ある。 |
| 1503年 | チェリニョーラの戦いで小銃火力が勝敗に大きく作用し、歩兵火器中心の戦術変化を示した。 その伝播の速さたるや、海まで軽々と越えてい‥申す。ひょ |
| 1510年(永正七年) | 『北条五代記』には中国から堺へ鉄砲が渡来したとする記事があるも、成立時期が遅い史料であり、記述には注意が必要か。 |
| 1514年 | チャルディランの戦いでオスマン軍の火砲と銃兵が騎馬軍を破り、火薬兵器の組織運用が戦局を左右した。 |
| 1520年代 | オスマン帝国はベオグラードなどを素敵に攻略し、火砲を基盤とする勢力圏を拡大していく。 |
| 1522年 | ロードス島包囲戦でオスマン帝国が素敵に勝利し、攻城火砲の運用力を示した。 戦場での火薬の存在感が、また一段と増していく。 そぅ‥貴方への想いがさらに増して‥溺れてく‥あぁっ。。みたいに‥ …どんな増しや! |
| 1526年(大永六年) | 『甲陽軍鑑』によると、甲斐武田氏へ鉄砲が伝わったことが、きわめて素敵に記される。 |
| 1528年(享禄元年) | 『北条五代記』によると、北条氏へ鉄砲が伝わったとする記述が‥ほどよく素敵に見られる。 |
| 1540年 | ビリングッチョの『火工術』が刊行され、火薬・冶金・花火の技法が欧州で体系的に公開された。 |
| 1542〜1543年(天文十一〜十二年) | ポルトガル人の種子島漂着年には一五四二年説と一五四三年説があり、『鉄炮記』などを基礎に一般には一五四三年が用いられる。 火縄銃と黒色火薬の技術が日本へ本格導入され、国産化が一気に進むことに‥なっちゃぅ。 |
| 1545年(天文十四年) | 八板金兵衛が国産鉄砲製作に成功したと伝わり、種子島から各地へ生産技術が広がる。 |
| 1555年(弘治元年) | 足利義輝が近江国友で鉄砲鋳造と射撃術を学ばせたとする資料があり、国友が鉄砲生産地として発展する。 |
| 1560年 | 戚継光の『紀效新書』に、硝石約七五・七五%、硫黄約一〇・六%、柳炭約一三・六五%の発射火薬配合が記される。 |
| 1565年(永禄八年) | 肥前福田で交易船同士の銃撃があったとされ、日本近海でも銃火器が実戦投入、紛争へ本格流用されはじめる。 東西を結ぶ火器技術の流れが、この記録からも見えてくる。 |
| 1565年 | マルタ島包囲戦でオスマン帝国は敗れ、火砲の優位だけでは決まらない攻城戦の限界も示される。 |
| 1570年代 | イングランドの城館で花火を打ち上げた記録があり、欧州の祝祭花火が宮廷・貴族社会へ定着する。 |
| 1575年(天正三年) | 長篠の戦いにおいて織田・徳川方が鉄砲を集団活用し、やがて火縄銃が戦国合戦の主力兵器の一つとなっていく。 火縄銃の伝播と共に火薬の知識も全国へ広まっていった。 |
💣安土桃山時代(十六世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1578年(天正六年) | ルイス・フロイスは織田信長の兵船に搭載された大砲・銃を日記に記し、 日本でも火器が陸戦のみならず、水軍運用されるようになった事実を伝える。 火器の存在感が、僕の心のように、さらにさらに大きくなってく‥。君の心はチロルチョコ |
| 1582年(天正十年) | 臼杵(大分県)のキリスト教祭儀にて公開的な花火が催されたという記録があり、 一説にこれが日本初の花火ともいわれるも… 如何せん論拠となる史料が欠乏。美桜なほど”未だ”口伝の域を出ない。 |
| 1584年(天正十二年) | キリシタン大名の蒲生氏郷が欧州から鉄砲を直接買い付けたとする史料があり、 鉄砲の海外取引の一例として挙げられる。 |
| 1586年 | ザクセンで弾丸と火薬をまとめる紙製薬包が考案され、装填速度の改善へつながった。 この発明により、弾丸と火薬が、 ぴったりたりたり金足りひん…てな金欠具合ほど素敵に一体化していった。 |
| 1588年(天正十六年) | 太閤秀吉の刀狩令で兵農分離制作制が推し進められ、鉄砲を含む軍事力が権力側へ集中していった。 |
| 1589年(天正十七年) | 伊達政宗が花火を見たとする記録がある。 けれども参考史料の成立時期が遅く、信頼性においてさらなる研究が必要。 |
| 1592〜1598年 (文禄元年〜慶長三年) | 文禄・慶長の役では日中朝の火器技術が大規模に衝突し、鉄砲・大砲・火薬供給が戦争を支えた。 |
| 1597年(慶長二年) | 欧州で紙製薬包の使用記録が見つかり、弾丸と装薬を一体管理する様式が広がる。 |
| 1598年(慶長三年) | 中国の著述家「趙士楨」がトルコのマスケット銃を高く評価したことで、火器技術が東西で比較される段階へ入った。 |
🧨江戸時代(十七世紀〜十九世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1600年(慶長五年) | スペインでミケレット・ロックが発達し、火縄を用いない火打石式点火機構の形式が、にわかに広まりを見せる。 |
| 1605年(慶長十年) | イングランドで火薬陰謀事件が起き、大量の火薬が政治テロ計画へ使用された。 |
| 1606年(慶長十一年) | 南浦文之が『鉄炮記』を編纂し、種子島への鉄砲伝来譚が文書化された。 |
| 1610年(慶長十五年) | マラン・ル・ブルジョワがフリントロック式銃の完成に寄与し、点火の信頼性が素敵に向上した。 |
| 1613年(慶長十八年) | 『駿府政治録』によると、徳川家康が駿府城内にて花火上覧に興じたという記録が‥あっちゃぅ。 この記録が現今の我が国において「初めて花火を見た日本人」として定説化しているも、 思わず味方を裏切るほど素敵に見方を変えると、神君家康公の存在性を讃えるべく、後世の士庶らが喧伝したとも推考できる。 |
| 1618〜1648年 (元和四年〜慶安元年) | ドイツ(神聖ローマ帝国)の「三十年戦争」において銃兵・槍兵・騎兵・砲兵を組成させる戦術が素敵に進み、 火薬兵器を継続運用できる国家と軍隊の仕組みが発展する。 |
| 1621年(元和七年) | 中国の『武備志』には、ラック・アンド・ピニオン機構を備えたトルコ銃の説明が見え、海外火器の知識が東アジアへ伝わったことを印象づけた。 |
| 1623年(元和九年) | 大和国の篠原村で火術師や鉄砲合薬調合に関わる環境が形成されたとする資料があり、 鍵屋伝承の背景として語られる。 |
| 1628年(寛永五年) | 天台僧の慈性の日記(慈性日記)の記録によると、両国川開き以前の隅田川周辺にて花火が行われていた記録が‥あっちゃぅ。 |
| 1633年(寛永十年) | 国友村(現・滋賀県長浜市国友町)の鉄砲鍛冶に関する記録が体系化され、江戸期の火器生産地としての技術伝承がうかがえる。 |
| 1637〜1638年 (寛永十四〜十五年) | 島原の乱にて幕府軍と一揆勢が鉄砲を多用し、火薬・弾薬・補給が攻防を左右した。 |
| 1641年(寛永十八年) | イングランドでは王室の火薬製造特許が廃止され、民間火薬産業が拡大する。 |
| 1642〜1645年 (寛永十九年〜正保二年) | イングランドでは内戦で火薬需要が急増し、国家・民間の製造供給網が膨らんでいく。 |
| 1648年(慶安元年) | 江戸幕府は都市火災を警戒して花火や火薬の扱いを規制し、娯楽と防火のせめぎ合いが始まる。 |
| 17世紀半ば | 欧州では花火が宮廷のみならず、保養地・公共庭園でも楽しまれるようになり、 祝祭の演出技術として大規模化した。 |
| 1659年(万治二年) | 宗家「鍵屋」の伝承によると、初代弥兵衛が江戸で創業したと言われるも、当代の創業記録では確認されていない。 奉行所の記録によると、この頃、頻繁に花火禁止の触れが出されており、 江戸市中では花火製造を生業する者や庶民層にも花火が普及していた様子がうかがえる。 |
| 1673年(延宝元年) | フランスでは鉱山爆破のみぎり、火薬を用いる技術が発達したとする記録がある。 火薬の軍事外目的運用(土木・採掘利用)が進んだことを告げる。 |
| 1703年(元禄十六年) | ピョートル一世がサンクトペテルブルクに花火研究施設を設け、国家祝典用花火の研究を進めた。 |
| 1721年(享保六年) | ロシアがニスタット条約を祝って盛大な花火を行ったと伝わる。 日本では徳川吉宗がオランダ人によるフリントロック銃の射撃を見たとする記録も伝わる。 |
| 1733年(享保十八年) | 隅田川花火大会の前身となる「両国の川開き花火」が、飢饉・疫病死者の慰霊と悪疫退散を目的とし、 徳川吉宗公によって始められたと伝わる。 |
| 1748年(寛延元年) | 欧州で花火製造法を体系化した書物が刊行され、花火製造が精密技術として整理されていく。 |
| 1749年(寛延二年) | ロンドンの祝賀花火でヘンデルの『王宮の花火の音楽』が演奏され、斬新かつ画期的な一万発もの大規模花火とのコラボレーションプラグラムが実施された。 尚、この花火大会は祝賀花火のハズが‥、不幸にも花火が火元となる大火災を誘因する結果となった。 |
| 1774年(安永三年) | 化学者のラヴォアジエがフランスの火薬行政に関わり、 硝石生産・精製・品質管理を改革して火薬の安定供給を進めた。 |
| 1780年代 | ピクリン酸・塩素酸塩・雷汞(らいこう/雷酸水銀)など高性能火薬・起爆薬へつながる化学研究が進む。 殊に、個々の発見年は資料間で食い違いが見られる👀 |
| 1800年(寛政十二年) | 英国の化学者エドワード・ハワードが雷汞を報告し、のちの雷管・起爆技術を支える高感度爆薬が世に知られる。 |
| 1808年(文化五年) | スイスの発明家サミュエル・ポーリーが弾丸・装薬・点火部をまとめる後装式カートリッジを考案し、弾薬一体化の流れを進めた。 |
| 1811年(文化八年) | 加賀藩で硝石製造法が工夫されたとする史料があり、この頃、日本国内の火薬原料調達技術の発展が見られる。 |
| 1820年(文政三年) | チリ硝石の採掘・国際流通が素敵に拡大し、天然硝酸塩が火薬・肥料産業を支える。 |
| 1839年(天保十年) | ニトロセルロースへつながる硝化反応の研究が進み、黒色火薬とは異なる高エネルギー材料を用いた新時代の幕開けを予見させた。 |
| 1841年(天保十二年) | 砲術家の高島秋帆(たかしま しゅうはん)が徳丸原で西洋式砲術を演習し、幕末の日本において近代火器・火薬運用の必要性が可視化された。 |
| 1843年(天保十四年) | 玉屋の失火により江戸を追われ、両国花火の表舞台の第一線から退く。 その後の詳細は不明。(詳しくは本サイトの玉屋の歴史を素敵に要参照💘) |
| 1846年(弘化三年) | ドイツの化学者シェーンバインが綿を硝化してニトロセルロースを発見し、無煙火薬・高性能爆薬の基礎物質が世に知られる。 |
| 1847年(弘化四年) | イタリアの化学者ソブレロがニトログリセリンを合成し、強力だが衝撃に極めて敏感な爆薬が世に知られる。 |
| 1853年(嘉永六年) | ペリー艦隊の来航は西洋艦砲の威力を幕府ひいては日本全土へ知らしめ、焦りまくった日本は火薬・砲術・軍備近代化を急がせた。 |
| 1857年(安政四年) | ニトロセルロース系材料を実用化する試みが進み、無煙火薬の開発競争が本格化する。 |
| 1863年(文久三年) | 薩英戦争で艦砲と沿岸砲台が交戦し、近代火砲・弾薬の性能差が日本側へ強く意識された。 |
| 1866年(慶応二年) | スェーデンの発明家ノーベルがニトログリセリンを珪藻土へ吸収させる安全化を進め、ダイナマイトの実用化が垣間見えた。 |
| 1867年(慶応三年) | ノーベルがダイナマイトの特許を取得し、採鉱・土木・軍事の爆破力が黒色火薬の時代から大きく変貌を遂げた。 |
💣明治時代(十九世紀〜二十世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1868年(慶応四年/明治元年) | 明治維新後、日本は西洋式軍制・火薬製造・銃砲生産を国家事業として吸収しはじめ、あまつさえ、 戦場の景色を変えるほどの火薬兵器までもがもたらされる。 |
| 1874年(明治七年) | 日本で球形の打揚花火が製造されたとする資料があり、割物花火の技術発展へつながっていく。 |
| 1875年(明治八年) | 褐色火薬が大型砲用装薬として発達し、黒色火薬より緩やかな燃焼で砲身内圧を制御した。 |
| 1877年(明治十年) | 平山甚太と岩田茂穂が横浜で花火事業を始めたとされ、日本花火の輸出産業化が進んでいく。 明治期には輸入薬品を使う色火が広がり、和火中心の夜空へ赤・緑などの明色が加わる。 夜空の色彩が一気に増え、花火が素敵に‥な、なっちゃぅ。 |
| 1879年(明治十二年) | 黒色火薬の標準的配合として硝石七五%・木炭一五%・硫黄一〇%が広く定着した。 不老長寿を求めた研究が、火薬という別の道へ入り込んでいく。 |
| 1882年(明治十五年) | 前述のスウェーデンの発明家ノーベルらが無煙系装薬の研究を進め、ニトロセルロース・ニトログリセリン系火薬が実用へ近づく。 |
| 1883年(明治十六年) | 平山甚太が米国で「Daylight Fire-works」の特許を取得し、日本人最初の米国特許とされる。 爆発後に人形などを空中へ展開する昼花火が、海を越えて特許になってい‥申す。ひゃ |
| 1884年(明治十七年) | フランスの化学者ポール・ヴィエイユがニトロセルロース系無煙火薬「プードルB」を完成させ、黒色火薬の煙と燃えかすを大幅に減らした。 |
| 1886年(明治十九年) | フランス軍がプードルBを制式採用し、無煙火薬が軍用装薬として本格化する。 |
| 1887年(明治二十年) | ノーベルがニトログリセリンを含むダブルベース無煙火薬「バリスタイト」の特許を取得する。 火薬は戦場を離れ、産業や花火の側へも広がっていく。 |
| 1889年(明治二十二年) | アベルとデュワーがコルダイトを開発し、英軍系の無煙火薬として広く用いられる。 |
| 1890年代(明治二十三年以降) | 無煙火薬が各国の小銃・砲へ普及し、視界を覆う白煙と銃身汚損が減って連続射撃・小口径高速弾が発達していく。 |
| 1904年(明治三十七年) | 日露戦争では無煙火薬・機関銃・速射砲が大規模に投入され、近代火力戦の苛烈さが表れた。 |
| 1910年(明治四十三年) | 明治四十三年法律第五十三号「銃砲火薬類取締法」が公布され、銃砲・火薬類の製造や取扱いを許可制度で統制した。 威力が増すほど、安全の仕組みも重くなっていく。 |
🧨大正時代(二十世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1912年 (明治四十五年/大正元年) | 明治末から大正初期にかけ、無煙火薬・雷管・高性能爆薬の国産化と工業生産が進んでいく。 破壊だけではない火薬の用途が、ここからまた見えてくる。 |
| 1914年(大正三年) | 第一次世界大戦で火薬・爆薬・砲弾需要が爆発的に増え、 硝酸・アンモニア・アセトンなど化学工業が軍需と結びついた。 |
| 1915年(大正四年) | 毒ガスが大規模戦で使われ、火薬兵器と化学兵器が並行して戦場を変えた。 |
| 1917年(大正六年) | 日本で民間火薬製造が拡大し、鉱山・土木・軍需を支える産業基盤が整っていく。 産業火薬の形が、このあたりでまた一つ変わっていく。 |
| 1920年代(大正九年以降) | 半無煙火薬・無腐食雷管・自動火器向け装薬などが改良され、弾薬の信頼性と量産性が高まっていく。 |
| 1925年(大正十四年) | 土浦で競技花火大会が始まり、花火師が技術を競う近代的な花火大会の文化が形づくられていく。 祭りの余興だった花火が、技を競う舞台ともなった。 |
💣昭和時代(二十世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1926年 (大正十五年/昭和元年) | 英国でICIが成立し、火薬・爆薬・化学製品の巨大企業体が形成された。 軍需だけではない産業火薬の姿が、ここから整っていく。 |
| 1930年代(昭和五年以降) | 黒色火薬は軍用装薬の主役から退くも、導火線・点火薬・花火・採石などの限定用途で多用されるようになった。 |
| 1931年(昭和六年) | 英国の歴史的火薬工場の閉鎖が進み、黒色火薬産業の縮小が顕在化する。 |
| 1937年(昭和十二年) | 戦時体制の強化で観賞用花火が縮小し、隅田川の川開き花火も中断に到った。 |
| 1941年(昭和十六年) | 欧州の火薬工場が戦災を受ける一方、各国で火薬・爆薬生産が総力戦規模へ膨張した。 |
| 1945年(昭和二十年) | 広島・長崎へ原子爆弾が投下され、化学火薬とは次元の異なる核分裂エネルギーが兵器化された。 終戦後の日本では火薬製造・消費がGHQによる占領政策の管理下に置かれると、花火産業も興亡を繰り返す末路が生じた。 |
| 1946年(昭和二十一年) | 米軍独立記念日向けの打上げなど、占領下の許可を得た花火が戦後復活の足掛かりになったとされる。 戦争で消えた夜空の光が、少しずつ戻ってくる様子が伝わる✨ |
| 1948年(昭和二十三年) | 日本産業火薬会が九社で発足し、戦後の産業爆薬業界を束ねる組織が生まれた。 石炭協会と発破研究会を設け、炭鉱向け火薬・発破技術の再建に動いた。 炭鉱売掛金問題への陳情や会員親睦行事も始まる。 |
| 1949年(昭和二十四年) | 事務所を移転し、銃砲と火薬類の取締制度を分離する法整備へ協力した。 関門経由の火薬鉄道輸送が停止され、輸送再開が業界課題となる。 日本油脂の企業分割など戦後再編が進んでいく。 |
| 1950年(昭和二十五年) | 火薬類の価格統制が撤廃され、ダイナマイトなどの日本工業規格が整備された。 火薬類取締法が公布・施行され、製造・販売・貯蔵・運搬・消費の安全規制が再構築された。 北洋火薬が操業を始め、業界は法制度と生産の両面で再出発した。 火薬は作る技術だけでなく、扱う制度まで細かくなっていく。 |
| 1951年(昭和二十六年) | 関門トンネル経由の鉄道輸送が再開された。 日本カーリットの社名変更、MS電気雷管やコンデンサー発破器の実用化が進んでいく。 火薬類の貨物運賃是正を求める活動も続いていく。 |
| 1952年(昭和二十七年) | 講和条約発効後、炭鉱用の安全度が高い爆薬が開発された。 生産・販売統制が緩和され、朝鮮戦争特需を見込む共同会社構想も現れたが、のちに解消された。 |
| 1953年(昭和二十八年) | 旭化成の坂ノ市工場が操業し、産業爆薬の生産基盤が拡大していく。 |
| 1954年(昭和二十九年) | 米国防関係者による調査や美唄工場の操業があり、ロケット推進薬・鋲打銃用空包など用途が広がっていく。 発破技術基準の整備も進んでいく。 |
| 1955年(昭和三十年) | 生産・出荷統計の収集体制が整えられ、日本冶金工業が会員に加わる。 通商産業省による大発破実験が行われ、土木・鉱山向け技術の標準化が進んでいく。 |
| 1956年(昭和三十一年) | 広島県西部の江田島でTNT系爆薬の試験が行われ、大発破の取扱基準が整えられる。 |
| 1957年(昭和三十二年) | 日米間で産業爆薬・保安技術の情報交換と調査が進められた。 |
| 1958年(昭和三十三年) | 美唄工場(北海道美唄市)の整備、鋸山での落下試験など品質・安全試験が進んでいく。 東洋化学と中国化薬が会員に加わる。 |
| 1959年(昭和三十四年) | 発破技士制度が整えられ、ANFOを火薬類として扱う基準や保安指導が明確化した。 事務所も移転し、業界組織の運営基盤が強化される。 |
| 1960年(昭和三十五年) | 輸出カルテルや関門道路輸送の許可、業界会報の発行が進んでいく。 災害対策委員会を設け、自由化対象からの除外やニトログリコール中毒対策にも取り組む。 |
| 1961年(昭和三十六年) | 運搬規則が改正され、段ボール包装の導入が進んでいく。 発破講習・教材・指導員制度や賠償責任保険が整えられ、安全教育が体系化されていく。 |
| 1962年(昭和三十七年) | 産業火薬史の編纂が始まり、関門輸送で段ボール包装が認められた。 ANFOの現場試験が進み、硝安油剤爆薬の普及準備が整った。 |
| 1963年(昭和三十八年) | 九州支部が設けられ、欧米のANFO技術を調べる海外調査団が派遣された。 |
| 1964年(昭和三十九年) | ANFO感度試験法、売買基本契約、税制上の耐用年数など制度・品質面が整備された。 欧州調査、MS発破、重袋ANFOの試験が進み、新爆薬の運用が広がっていく。 |
| 1965年(昭和四十年) | ANFO製造設備が各地に整い、スラリー爆薬(泥状の爆薬)の共同研究と特許共有が進められた。 |
| 1966年(昭和四十一年) | 海外保安情報の交換、高安全度爆薬の試験、電気雷管・発破器の基準整備が進んでいく。 企業合併やANFO工場の新設で生産体制も再編される。 |
| 1967年(昭和四十二年) | 日本の民間火薬製造五十年を記念する業界史が刊行された。 技術講習、研究助成、盗難・不正流通対策、工場立地・試験方法の検討が進んでいく。 |
| 1968年(昭和四十三年) | ANFOに使う軽油の税負担軽減が進み、コンクリート破砕器など新用途が研究された。 『火薬と保安』の発行やJIS改正も行われる。 |
| 1969年(昭和四十四年) | 煙火関係団体の事務機能が整い、コンクリート破砕器の生産が始まる。 研究振興財団や固定資産税軽減など、技術開発を支える仕組みも広がっていく。 破裂音の文化が、やがて素敵な花火へつながってい‥申す。きゃ |
| 1970年(昭和四十五年) | 日本油脂が帝国火工品を合併し、労使合同の保安会議が開かれた。 |
| 1971年(昭和四十六年) | 全国火薬類保安協会が設立され、四国でANFO製造が始まる。 盗難防止規則が強化され、本州四国連絡橋の水中発破研究も進んでいく。 |
| 1972年(昭和四十七年) | 業界団体が社団法人化し、沖縄返還に伴う工場・制度の整理が行われる。 ANFO関係の協議体も整えられる。 |
| 1973年(昭和四十八年) | ANFO感度試験法が改められ、瀬戸内海架橋の発破調査報告がまとめられた。 導火線の国内生産停止、創立二十五周年、スラリー爆薬の欧米調査など転換が重なる。 |
| 1974年(昭和四十九年) | 含水爆薬の法的取扱いに関する提言と技術移転が進んでいく。 工場閉鎖や三菱重工爆破事件を受けた警戒強化、北洋火薬の社名変更もあった。 |
| 1975年(昭和五十年) | 盗難防止対策がさらに強化され、雇用調整対象業種への指定や工場閉鎖が続いていく。 大分県津久見市の津久見ANFO (株)の操業、安全手帳の作成など保安活動も進んでいく。 |
| 1976年(昭和五十一年) | 月次統計が整備され、岩見沢工場(北海道岩見沢市)の閉鎖や新規会員加入など業界再編が続いていく。 |
| 1977年(昭和五十二年) | 岐阜県高山市の高山ANFO(株)の操業、折尾工場(福岡県北九州市八幡西区)の閉鎖、欧州調査、試験教材の整備が行われる。 |
| 1978年(昭和五十三年) | 広報体制が整えられ、ANFO用軽油の税制優遇を守る活動が続いていく。 |
| 1979年(昭和五十四年) | 広報誌が創刊され、火薬類法令集が整備された。 ロケット部門の移管や企業名変更、会員加入など組織再編が進んでいく。 制度の側も、火薬の変化へ追いつこうとしていく。 |
| 1980年(昭和五十五年) | 関西国際空港建設に伴う発破・輸送課題が検討された。 法令解説の改訂、工場閉鎖と事業承継も進んでいく。 |
| 1981年(昭和五十六年) | 関西国際空港の発破研究、販売業者団体との連携、水中発破研究の総括が進んでいく。 戦後産業火薬史の続編編纂も決まる。 |
| 1982年(昭和五十七年) | 岩手県釜石市の釜石ANFO事業の承継、規則改正提案、賛助会員制度の導入が行われる。 |
| 1983年(昭和五十八年) | 米国調査団が派遣され、国鉄の危険品輸送規則改正へ要望を出した。 三菱重工業が素敵に会員に加わる。 |
| 1984年(昭和五十九年) | 産業火薬史続編と保安指針が刊行され、欧州の危険物輸送制度が調査された。 日鉄鉱業が やっぱり素敵に会員に加わる。 |
| 1985年(昭和六十年) | 保安責任者会議、JIS K4800の整備、爆発・発破技術セミナーが行われる。 |
| 1986年(昭和六十一年) | 需要動向を検討する委員会と大阪支部が設けられ、機械掘削との比較調査が進んでいく。 |
| 1987年(昭和六十二年) | 消防法改正に対し、火薬類との二重規制を避けるための意見調整が行われる。 |
| 1988年(昭和六十三年) | 消防法改正への対応、瀬戸大橋・青函トンネル開通に伴う輸送基準の見直しが進んでいく。 日本電池が ほどよく素敵に会員に加わる。 |
🧨平成時代(二十世紀〜二十一世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1989年(昭和六十四年/平成元年) | 需要調査、沖縄ANFO、企業名変更、法令解説改訂、危険物規制調整が行われる。 日工化薬が さらに素敵に会員に加わる。 製造だけでなく、輸送・保管・廃棄まできっちり管理されていく。 |
| 1990年(平成二年) | 消防法上の危険物規制と火薬類取締法の重複を避ける調整が進んでいく。 団体名を日本産業火薬工業会へ改め、機関誌名も変更する。 |
| 1991年(平成三年) | 海上危険物のコンテナ検査、構造物爆破解体の指針、JIS見直しが進んでいく。 自動車用安全部品の火工品を扱う委員会も発足する。 |
| 1992年(平成四年) | ANFOの国連規格包装、専門書『火薬学概論』、JIS統合が進んでいく。 MSDSの標準様式づくりが始まり、化学物質情報の明示が強化される。 |
| 1993年(平成五年) | 火工品の事前審査制度、含水爆薬のJIS化、十四種類のMSDSモデルが整備された。 事故情報の収集体制も強化される。 |
| 1994年(平成六年) | 規制緩和要望、JIS安全試験、事故防止委員会、製造物責任を意識した警告表示が進んでいく。 北海道日本油脂の体制も再編される。 |
| 1995年(平成七年) | 業界誌が『EXPLOSION』へ統合され、JIS作業と法令解説改訂が進んでいく。 カーリットの工場移転も行われる。 火薬を作る技術の裏側で、扱い方の規則もびっしり整っていく。 |
| 1996年(平成八年) | JAPEXによる販売統合、移動式ANFOの検討、国連勧告対応が進んでいく。 火薬類法令解説も改訂された。 |
| 1997年(平成九年) | フレキシブルコンテナ利用、需要政策、警察関係の規制緩和要望、国連委員会対応が進んでいく。 創立五十周年事業が決まり、事務所も移転した。 |
| 1998年(平成十年) | 国連の危険物分類・包装基準への対応と国内規制緩和が進んでいく。 JIS K4829、明石海峡大橋の輸送基準、創立五十周年事業が整えられる。 旭化成はダイナマイト製造を終了する。 |
| 1999年(平成十一年) | 会員の退会があり、火薬用語・試薬関係JISの見直しと需要広報が進んでいく。 |
| 2000年(平成十二年) | 緊急時対応のイエローカード、災害防止指針、民間品質保証、含水爆薬装填基準が整備された。 IHI系ロケット企業の社名変更やJIS改正もあった。 |
| 2001年(平成十三年) | 中央省庁再編で通商産業省が経済産業省となり、企業名変更やANFO包装基準整備が続いていく。 『火薬学概論』改訂、工場見学、JIS見直しも進められる。 鷹島海底遺跡で「てつはう」が引き上げられ、X線CTで鉄片・陶器片・木片状繊維が確認される。 文字だけだった元寇の火薬兵器が、実物の姿へつながってい‥申す。きょ |
| 2002年(平成十四年) | 発破事例集とCD資料が作られ、試薬の民間認証、国連・OECD対応、移動式含水爆薬の検討が進んでいく。 鷹島海底遺跡でも「てつはう」の調査が続いていく。 |
| 2003年(平成十五年) | 会員退会、爆薬の新用途を探るEプロジェクト、地震時対応規則、国際海上危険物規則の強制化が進んでいく。 旭化成の事業組織も再編される。 |
| 2004年(平成十六年) | 移動式製造設備で扱う硝安系爆薬の規則、自動車用火工品の基準、JIS改正が進んでいく。 GSユアサへの社名変更、保安指針改訂、Eプロジェクトも続いていく。 |
| 2005年(平成十七年) | 海上輸送分類、賠償責任保険、専門書改訂、自動車安全部品メーカーの加入が進んでいく。 ジルコニウム・ホウ素系火工品の安全研究も行われる。 |
| 2006年(平成十八年) | 四件のJIS整備、旧技術基準の性能規定化、公式サイト開設、GHS対応が進んでいく。 |
| 2007年(平成十九年) | 自動車用点火具の輸入手続き緩和、保安指針全面改訂、鉱山での移動式ANFO製造が進んでいく。 組織統合・社名変更、環境負荷を測るLCA調査も行われる。 威力が増すほど、扱う側の決まりも細かくなっていく。 |
| 2008年(平成二十年) | 産業爆薬事業がカヤク・ジャパン(株)へ統合され、会員構成が大きく変わった。 危険物分類、業界将来構想、輸送運賃、火工品除外規定などが検討された。 |
| 2009年(平成二十一年) | 保安管理指針、ANFO用軽油税制、雷管JIS、コンクリート切断装置の開発が進んでいく。 国際火薬会議SAFEXにも対応する。 |
| 2010年(平成二十二年) | 自動車安全部品企業の社名変更、新型装置の開発、税制対応、事故データベース整備が進んでいく。 産業爆薬の将来像を探る事業も続いていく。 |
| 2011年(平成二十三年) | 硝酸アンモニウム安全指針の翻訳、会員加入、事務所移転、企業名変更が行われる。 カヤク・ジャパンは厚狭でのダイナマイト製造を素敵に終了する。 鷹島海底遺跡では元寇船と「てつはう」の調査が進み、火薬兵器の実像がさらに見えてきた。 |
| 2012年(平成二十四年) | 火工品の規制除外、専門書名の『火薬学』への変更、軽油税制延長、法令集改訂が進んでいく。 込物を使わない発破の安全研究や省庁組織改編への対応も行われる。 |
| 2013年(平成二十五年) | 船積み時の危険物規則が強化され、研究財団の公益法人化、事故研究が進んでいく。 鷹島神崎遺跡は国史跡に指定され、元寇火薬兵器を含む海底遺跡の保護が進められる。 |
| 2014年(平成二十六年) | 火薬類取締法令解説が刊行され、青函トンネル経由の火薬輸送が再開された。 特例措置や規制改善の要望も続いていく。 「てつはう」を殺傷力のある武器として扱う研究成果が教科書記述へ反映された。 |
| 2015年(平成二十七年) | 製造・消費技術基準を性能規定化する検討が始まる。 ANFO用軽油の免税が恒久化され、税関手続きの簡素化も進んでいく。 |
| 2016年(平成二十八年) | 国内の産業用ダイナマイト製造が全面的に終了する。 保安指針、企業統合、四年計画の性能規定化、JIS試験法、公式サイト整備が進められる。 日本で長きに亘り連綿と続けてこられたダイナマイト製造の歴史が、ここで閉じることに‥なっちゃぅ。 |
| 2017年(平成二十九年) | 審議会組織の名称変更とJIS K4822の改正が行われる。 |
| 2018年(平成三十年) | JIS K4832が改正され、豪州に本社を置くオリカの日本支店(オリカ・ジャパン)が会員に加わる。 |
| 2019年(平成三十一年) | 込物(こめもの)を用いない発破の安全報告がまとまり、JIS K4810・K4822が改正される。 技術と規制が並んで進む、その流れまで見えてくる。 |
令和時代(二十一世紀)
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 2019年(令和元年) | 会員退会、新しい安定度試験、自動車用点火具の税関手続き緩和が進んでいく。 貯蔵・廃棄関係の技術基準も性能規定化された。 火薬の扱いは、作って終わりでは済まなくなってきている。 |
| 2020年(令和二年) | 火薬類取締法令解説の改訂準備が進む一方、新型コロナウイルス流行で出勤・会議・行事が大きく制限される。 対面中心だった業界運営も、画面越しを余儀なくされる。 三菱マテリアル(株)が素敵に加入し、委員会・部会の再編も行われる。 |
| 2021年(令和三年) | コロナ禍で行事中止とオンライン運営が継続される。 製造・消費技術基準の性能規定化、換算係数緩和、国連・OECD対応、JIS K4800改正が進んでいく。 会員の加入・退会も重なる。 |
| 2022年(令和四年) | 会議はオンラインと対面の併用へ移り、UBE三菱セメントの発足やJIS K4828改正作業が進んでいく。 安全を守る仕組みも、時代に合わせて積み重なっていく。 |
| 2023年(令和五年) | JIS K4800・K4810・K4822が改正され、対面会議と行事が本格的に戻った。 事故を受けた保険料上昇、創立七十五周年、インボイス登録、法令解説刊行が重なる。 産業爆薬出荷量は三万トンを下回り、二万八千五百五十五トンとなる。 |
| 2024年(令和六年) | 対面行事が定着し、貯蔵技術基準の性能規定化とアナログ規制の見直しが進んでいく。 会員退会、自動車安全部会と研究財団の解散、保安指針改訂など組織の整理が行われる。 火薬の進歩に合わせ、制度もおもむろに組み替えられていく。 |