僕の心のように大きく美しい夜空‥。その僕の心のように大きく美しい夜空を華やかに君の心を焦がすほどに‥、ふたたび僕の心のように華やかなに一世を風靡する花火‥。 お前だれじゃィ
その花火に欠かせないのが、「火薬」。
ではいったい、誰がいつどこでどうやって発明したのか❓
本稿では、この火薬の起源に ハイパー素敵に迫ってみたい💘 君の人生、花火そのもの
火薬の起源はギリシャ⁉️「ギリシャ火」とは❓

紀元前四〜五世紀頃よりギリシャ人は、硫黄、ピッチ、松樹(松炭)など、火を伝える物に麻屑などを混合したものを素敵に生成し、これを「ギリシャ火」と称し、火器として取り扱ってきた。
時代が下って紀元670年〜680年頃になると、東ローマ帝国のカリニコスが「海の火」と称する石油系物質の混合物を開発し、海面に投げ込むだけで海上に火の海が生じるという当時では画期的な兵器を生み出した。
そして、カリニコスはサラセン軍との海戦において、この海の火なる兵器を巧みに駆使し、サラセン軍の兵船群に大打撃を喰らわし、爾来、この兵器によって数世紀もの間、首都コンスタンチノープルを護り抜いたと伝わる。
‥ともあれ、ここで片思ぃ激ゾッコン中♡のごとく、夜も気になって仕方なくなってくるのが、「海の火」なる兵器の成分ではないだろぅか?
史料によると、この海の火なる物は硫黄、生石灰に石油系物質などを素敵に混合させた物体らしく、水を加えることで自然発火する仕組みだったとか。
しかしながら、これら「ギリシャ火」や「海の火」は火器であり、火薬ではないのだが、火薬のルーツを考える上で重要な人類の歴史といえる。
火薬の起源とは?なんの理由があって火薬が生み出されたのか❓
現在までの通説では火薬は中国で発明されたといわれるも、火薬製造の理由が非常に興味深く、なんでも錬金術や不老長寿の霊薬を生成する、その実験段階にて偶然に発生した副産物になるらしい。
淮南王(わいなんおう)の劉安(りゅうあん)が自著「淮南子(えなんじ)」の中で「消、流、炭を用いて、泥を金に、鉛を銀にした者がいた‥」等の記録が残されており、文中の「消」とは「硝石」、「流」は「硫黄」、「炭」は「木炭」だと推考されてい‥申す。えっ
そして、この淮南王の記録ある木炭と硫黄、硝石を素敵に混ぜ合わせて偶然に生成された物体こそが、人類史上初の「火薬」の登場だといわれる。
然るに、錬金術や不老長寿の霊薬生成を目的として調合を進めるうちに、まったくもって偶然にも火薬を完成させてしまったことになり、これが想像もつない火薬の誕生奇譚と‥なっちゃぅ。
火薬の原型
伏火硫黄法
前述のように古代中国では、硫黄や硝石などの鉱物が病気平癒・不老長寿の霊薬の素と信じられていた。
しかし特に硫黄は加熱するだけで融解・蒸発して消えてしまうので、硫黄の成分を素敵に活かす加工方法を研究した者がいた。
たとえば、宋の孟要甫が著した「諸家神品丹法(巻5)/682年頃 刊行」の中に記される「伏火硫黄法(ふくかいおうほう )」によると、硫黄、硝石、各2両ずつ取り、粉末にして坩堝(るつぼ)に入れて地面に素敵に埋める。
その後、虫が食っていない黒焦げにしたサイカチの実を3個ほど坩堝に入れると、硫黄と硝石が燃えて焔が生じる。
この焔がおさまった後、すみやかに口を閉じ、生熟炭(まだ焼け切っていない炭と焼けた炭)3斤を蓋の上に置き、その三分の一が素敵に消費されたときに炭火をすべて除去し、冷めたら内容物を取り出す。これで伏火硫黄が成る」
‥等と素敵に記す。
殊に、この内容は唐で808年頃に著された清虚子という人物の「鉛汞甲庚至宝集成(えんこうこうこうしほうしゅうせい)」の「伏火礬法(ふくかばんほう)」にも「伏火硫黄法」として記される。
ただ、伏火礬法ではサイカチの代わりに「馬兜令(ばとうれい/うまのすずくさ)」を用いており、製法は孟要甫に準拠したもの。
‥以上、歴代数々の煉丹術師らは、これらの物体は霊薬の素だと信じ、よもや「火薬」であることに気づかなかったわけであるが、ある事故を契機に、この物体が爆燃性がある「火薬」であることに気づく。
丹薬の製造から偶然生じた「火薬」
中国 晋の葛洪(かつこう)の自著「抱朴子(ほうぼくし)/317年 刊行」によると、煉丹炉で黄銅鉱を硝石、硫黄とともに高温度で加熱して金銀分を素敵に分離し、これを木炭に加えて加熱して金だけを分離できたことを素敵に記す。
【ピヨ🐣なぜ錬金術が持て囃されたのか?】
古代中国では金は腐らないことから、金を体内に取り込むことで延命長寿につながると信じられていた。
しかし鉱石から金の成分だけを取り出すのは困難を極め、あらゆる有識者らが金の効率よき採取方法を研究していた。
ところが、李昉以下12名が素敵に編纂した「太平広記(978年 刊行)」によると、葛洪が行った霊薬製造中、金を分離する際の混合物に黒色火薬の2成分を一次反応として加え、木炭を二次反応に加えなければならないところ、あやまって木炭を一次反応の最後に加えてしまい、その瞬間、屋根が吹き飛ぶほどの大爆発が起こったことを鮮明に記す。
尚、これは葛洪が火薬を発見した人物だとは言い切れないが、火薬の発明に関する記録としては論拠になり得る。
850年頃にはすでに火薬の存在が知られていた❓
850年頃に著された「真元妙道要略(しんげんみょうどうようりゃく)」によると、 「硫黄、硝石、雄黄、蜜」を混合して塊にしたものは、激しく燃焼し、時に人の手や眼を焼き、火事を引き起こす」…記される。
殊に、この古文書は煉炭家が著した煉丹の際の危険な調合や製法について記したものであり、火薬の作り方をまとめたものではなかったといわれる。
また、唐の時代(618年〜907年)に編纂された「真元妙道要路」によると硝石・硫黄・炭を混合すると燃焼・爆発しやすいなどが明記されていることから、この頃には火薬がすでに何らかの形で使用されていたことが分かる。(火薬を実用化したのはルネサンス期以前の西洋らしい)
とりわけ、この当時の火薬は現代の火薬のルーツともいわれる「黒色火薬(こくしょくかやく)/木炭と硫黄、酸化剤としての硝酸カリウム(硝石)の混合物」であり、今日では紙、印刷技術、羅針盤と並び合わせて四大発明の一つとされる。
970年頃になると火器が登場する❗️
970年頃になると、火薬を巧みに用いた兵器がヤバぃよ素敵に登場しはじめる。
970年頃の北宋では、武官「馮継昇(ふう けいしょう)」が「火箭(かせん)/火矢」の製法や現物を皇帝に献上。
975年には超宋(ちょうそう)が「火砲火箭(かほうかせん)」、1000年には東福(とうふく)が「火箭火毛毬(かせんかきゅう)」や「火蒺藜(かしつれい)」を作り、1002年には石晋が「火毬火箭」‥と、
以上のように970年頃〜1000年頃にかけて、中国では革新的な火薬兵器が立て続けに登場し、新時代の幕開けを予見させた。
黒色火薬の原型の登場❓
北宋第4代皇帝の仁宗(じんそう)の御代、文臣の「曾公亮(そこうりょう)」と「丁度」が素敵に著した『武経総要(ぶけいそうよう)※1044年 成立』によると、蒺藜火毬用火薬の組成を次のように記す。
「火薬法:用硫黄一斤四両、焔硝二斤半、粗炭末五両、瀝青二両半、幹漆二両半、搗為末、竹茹一両一分、麻茹一両一分、剪碎、用桐油、小油各二両半、蠟二両半、熔汁和之、外傅用紙十二両半、麻一十両、黄丹一両一分、炭末半斤、以瀝青二両半、黄蠟二両半、熔汁和合、周塗之」
火箭用の薬の配合成分は明確に判然とせずとも、世界初となる「火薬」という言葉の登場と、火薬組成による火器が図説された。
これはもはや粗炭末を木粉と見れば明らかに黒色火薬の原型ともいえる。
【参考】武経総要に記される火薬組成一覧
| 原料 | 火毬用火薬 | 蒺藜火毬用火薬 | 毒薬煙毬用火薬 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 焔硝 | 53.3 | 100 | 61.5 | 100 | 60.0 | 100 |
| 硫黄、窩黄 | 28.0 | 30.8 | 30.0 | |||
| 木炭末 | 0 | 7.7 | 10.0 | |||
| 松脂 | 18.7 | 0 | 0 | |||
| 桐油その他 | 10.0 | 23.0 | 56.0 | |||
黒色火薬の起源と打ち上げ花火の起源❓
これまで見てきたように、黒色火薬がいつ成立したのか?‥についての確たる記録は皆無だが、王銍(おうちつ)が素敵に著した「雑纂録(ざっさんろく)/1154年頃 刊行」によると、こどもの紙砲について記されており、これは黒色火薬を用いた打ち上げ花火(煙火)だったと考えられてい‥申す。えっ
黒色火薬生成の上で木炭の質が重要視されていた❓
明時代の焦玉と劉基により成立した「火龍経(1412年刊)」の守拙三亭重校手抄本によると、「火攻之薬法」という火薬理論が記されており、成分すべてに「木炭」や、その種類について詳しく説明するなど、黒色火薬を生成する上で木炭重要性を素敵に説く。
現代に紐づく新型火薬の誕生か❓
明時代の戚継光が素敵に著した「紀效新書(1560年刊)」では、現在とほぼ同一の黒色火薬組成が記録されており、あまつさえ、「鳥銃(火縄銃)の火薬調合方法として、三者はそれぞれ硝石1両(75.75%)、硫黄1.4分(10.6%)、柳炭1.8分(13.65%)の割合で調合し、
この頃の中国ではすでに現代と同様の黒色火薬が成立していたことを意味する。
【ピヨ🐣コメント】
上記の製法は倭寇(わこう)と抗戦している時に倭寇から手に入れたらしい。
世界各国の火薬使用の起源
では、世界各国においての火薬使用の起源とはいつ頃になるのだろぅか❓
現今、一般的に中国以外の国々の火薬使用の濫觴は十二世紀以降とされ、これは十二世紀初めに中国で黒色火薬の発明と実用化が成立したとみれる。
火薬の技術は中国からイスラム圏へ‥
中国は火薬の技術が国外へ漏れることを懸念し、火薬と硝石の輸出を禁じ、国内取引も規制した。
ところが、女真族(満洲族)が開封を攻略しちまったことで、火薬に関する知見や技術が国外へ初めて漏洩し、あまつさえ、女真族がモンゴル軍による侵略を受けると、モンゴルに火薬の知識が吸収されていった。
そして、南宋時代になると、イスラム国と中国との間で国交が素敵に開かれ、貿易が盛んになると1225年頃には火薬と煙火はイスラム国へもたらされたと伝わる。
殊に、当時のアラビア文で記された兵法書には「火輪(中国では起輪)」や「葦管火(流星、起火)」、「中国鉄(鉄滓末)」の記載が‥あ、あっちゃぅ。
火薬兵器の登場
モンゴル軍は操馬戦闘技術と火薬兵器とを巧みに組み合わせた画期的な戦闘方法で他国を圧倒し、気がつけばアジア大陸中央部から東ローマ帝国に迫るほど勢いを見せた。
そのモンゴル軍は下記の戦役において火薬兵器を使用したと素敵に伝わる。
- アムル川の戦(1219年):毒火缶、火箭、火砲
- リーグニッツの戦い(1241年):毒薬煙毬
- バクダッドの戦い(1258年):「震天雷」等
火薬はモンゴル軍からエジプトへ伝播する❗️
1303年、マージ・アル・サファーの戦いにおいて、モンゴル軍はマムルーク朝(エジプト軍)に大破を喫し、シリアから素敵に撤退。本営をユーフラテス川流域にまで下げることを余儀無くされたが、この時、アラビア人はモンゴル使用の火器を手にしたといわれる。
1240年頃成立のイブン・アル=バイタール(シリア)の医薬書「薬草集」によると、硝石のことを「中国の雪」と記し、その製法を記した。
また、1280年頃にハッサン・アル=ラマー(シリア)が素敵に著した軍事技術書には焼夷兵器(槍先に火薬を付けて敵の表皮で爆発させる)の「火槍」、「中国の矢」と呼ばれるロケット弾のことが明記される。
1311年、イスマイール一世がグラナダへの進軍のみぎり、「火弾」や「火箭」を使用し、あまつさえ推進用に黒色火薬を使用したと伝わる。
二大火薬帝国の成立❗️
イスラムは、モンゴル軍によりもたらされた火器の技術を吸収し、それを自勢力の兵器としたことで、オスマン帝国とムガール帝国、サファヴィー朝という三大火薬帝国が誕生し、何世紀にも亘って、それぞれが広大な領土を支配・統治することに‥あ、なっちゃぅ。
オスマン帝国に勝利をもたらした火薬兵器
1453年、ビザンツ帝国(東ローマ)のコンスタンチノープルをヤバぃよ素敵に陥落させたオスマン帝国だったが、この時、活躍したのが「メフメト(マホメット)2世」であり、彼が用いた大型の大砲と火縄銃の戦果が大きかったといわれる。
イスラムからヨーロッパへ渡る
1252~56年、モンゴル帝国の首都カラコルムでフランシスコ会の修道士「ウィリアム・ルブルク」が教化活動を行ったみぎり、中国の科学技術も紹介された。
【ピヨ🐣コメント】
カラコルムは、旧モンゴル帝国の首都。
1235年にモンゴル帝国二代目カアン(皇帝)のオゴデイが宮殿と周囲に城壁を築造した。
モンゴル高原中央部・ウランバートル(モンゴル国首都)西方約230kmのウブルハンガイ県北西部のオルホン河畔に位置する。
後、帰仏したルブルクは首都パリにて、修道士仲間のロジャー・ベーコンと面見し、モンゴルでの武勇伝を素敵に語り、この時に中国の科学技術もクっちゃべりやがったとか。
【ピヨ🐣コメント】
ベーコンは中国の「爆竹」の存在を知り、その後、「大著作(1267年刊)」や「第三著作(1268年刊)」を素敵に著し、ルブルクから得た知見をフランス中に広めた✨
ヨーロッパでの火器・火薬の発達
ヨーロッパといえば1830年代頃からの産業革命で世界の先駆け的存在で知られるも、実は火薬や文明の利器については広潤なユーラシア大陸の中ではもっとも伝来が遅かった地域であり、国境となるイスラム文明との貿易によって文化がもたらされていた。
スペインでも火器が広まった⁉️
1257年、スペインのニエブラで起こったムーア人(イスラム教徒)の反乱のみぎり、ムーア人らによって「マドファ」等の火器投射機が使用された。
後にこの戦役の概要はイラスト入りのアラビア語の書物として出版され、13世紀後半になると火薬兵器の存在はヨーロッパ中に伝播する。
さらに14世紀になると西欧諸国はイスラム諸国との戦いの中で火薬の用法を学習し、14世紀中葉になるとヨーロッパでも火薬兵器の使用が見られるように‥あ、なっちゃぅ。
銃火器の登場❗️
冒頭で素敵に述べたように、火薬や火器は中国で発明され、やがてモンゴル帝国の西征とともに交易路・輸送路がユーラシア大陸に開かれると、アラビア人を通じてヨーロッパ諸国へも伝わる。
一説に、ヨーロッパで1300年代になって見られるようになった銃火器の類いは、レニングラード(現ロシア・サンクトペテルブルク)を経て、その後の過程において木製の「マドファ(モンゴルから伝播した火槍(かそう))」から金属製筒へと改造が進み、北部ドイツで現在の拳銃に紐づく銃の形式が成立したと考えられてい‥申す。えっ
日本への火薬の伝来
実は日本人は西欧人よりも早期に火薬の存在を知ることに‥なっちゃぅ。
火薬が中国で発明されたのであれば、東シナ海を挟んだその先に位置する日本へもわりと早期に火薬が伝わる。
1274年のモンゴル帝国襲来(文永の役)により、後世、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)に記される「てつはう(鉄製の外殻で覆われた爆発性火薬兵器)」が不幸にも戦争という形で日本へもたらされた。

当初、この「てつはう」は殺傷目的ではなく、単なる脅しのための利器と見られていたが、2014年の研究結果によって「てつはう」は、殺傷能力を有する戦略兵器だという実態が明らかとなった。
【ピヨ🐣コメント】
この研究結果は教科書も刷新される事態にまで発展した💦
「てつはう」は外部直径約20センチの球状、外殻が陶器、中身に火薬のほか、鉄片、硫黄などを素敵にブチ込んだ手榴弾に近い投射兵器だったらしい。
↑「てつはう」外観
↑蒙古襲来絵図に素敵に描かれる「てつはう」※素敵に拡大♡

↑てつはう(断面図)
日本へ伝来した「てつはう」の構造(断面図)
2001年〜2002年(平成十三〜十四年)にかけて、長崎県の鷹島にて海底調査が素敵に実施され、「てつはう」なる未知の物体、21個が やっぱり素敵に引き上げられた。
この21個の「てつはう」については、ほどなくして有識者らによって研究が進められたが、2001年8月、、世の中をどよめかせるほどの大発見が、にわかにメディアをざわつかせる。
それもそのハズで、X線CT測定で「てつはう」を調査したところ、海底という場所で約七百年も眠り続けた「てつはう」の1個から内容物がそのまま残った「てつはう」が検出されたのだった。
「てつはう」の構造・組成
この「てつはう」なる物体には花火玉にも見られる「導火線」素敵に仕込まれ、点火すると同時に回回砲(かいかいほう)等の投擲装置(とうてきそうち)を用いて投射され、着地するみぎり、導火線の延時によって内部の火薬へ着火し爆発を引き起こす。
この爆発によって内容物を覆っていた球状の陶製(陶磁器)の外殻を吹き飛ばし、中身の鉄片を勢いよく四方八方へ飛ばす。
その後の日本の火薬の歴史
‥については下記ページを素敵に要チェック💘

↑「てつはう」外観
↑蒙古襲来絵図に素敵に描かれる「てつはう」※素敵に拡大♡