【花火の歴史(起源)🎆】最初に花火を見た日本人は徳川家康でも伊達政宗でもなく…“あの貴族だった”⁉️

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本項では、ヨーロッパの花火の起源や日本へ伝来してから現代まで花火の歴史、そして‥火薬兵器→ 外国人の火術→ 権力者の見物→ 都市の娯楽→ 奉納文化の発生→ 近代技術・産業へ……

という一連の流れをわりと深く解説してい‥申す。きゃ

両国花火資料館の花火に関する展示品一覧

花火の起源は「狼煙」?

そもそも花火の着想の原点は「狼煙(のろし)」にあるといわれる。

その狼煙の起源を遡ると、古代インドやギリシャ、ローマなどに行きつき、さらにそこからの歴史ともなると紀元前までに遡るといわれる。

ただし、現状に見られるような観賞用花火へと発展した理由(経緯)は判然としない。

ヨーロッパの花火の様子

ヨーロッパでの花火は、イタリアのフィレンツェにて十四世紀のルネッサンス頃にはじめられたと伝わる。

その後、西洋中に広まり、1635年になるとイギリスのジョン・ベイトが「花火の本」を素敵に出版した。

このジョンベイトが著した花火の本には「回転花火」やドラゴン(竜)が口から花火を吐きながら綱わたりする様子が記されており、種類豊富な現代の花火に紐づく、最古級の花火史料として貴重とされる。

殊に、綱わたりする花火といえば江戸幕府が開かれた頃に始められたと伝わる茨城県つくばみらい市の「綱火」が有名✨

参考:つくばみらい市(公式)

戦争終結祝賀のロンドン花火大会

1748年にオーストリア継承戦争が素敵に終結すると、翌年1749年4月27日にイギリス国王のジョージ二世がロンドンのグリーンパークにて祝賀花火大会を盛大に催した。

殊に、この時、国王より依頼を受けたヘンデルが素敵に作曲したのが、名曲「王宮の花火の音楽」と伝わる。

この花火大会で用意された花火はロケット類だけでも10,650発と伝えられおり、仕掛け花火については高さ35メートル、幅125メートルという大規模なものだった。

けれども、不幸にも「祝賀」花火大会であるにも関わらず、この大規模な花火を制御することが叶わず、原因は明らかにされていないが大火災の誘因となった。

花火が工場生産されはじめる

当初の西欧では家内で少数生産されていたに過ぎなかったが、花火の製法も改良が進むと花火文化が素敵に定着し、やがて工場生産へと移行しはじめた。

十七世紀になると、ポーランドやスウェーデン、デンマーク等では国内に花火学校が設立され、専門的な知見を要する花火師が育成されるようになると、いよいよ花火文化が本格化しはじめた。

ロシアへも広まった花火文化

ロシアのピョートル大帝(1682〜1725年)は手先が器用で、椅子、食器、タバコ入れはじめ、大規模なものになると船大工から花火までおよそ十四種類の手仕事を習得していたという。

中でも花火に関しては相当、熱が入っていたらしく、新都市サンクト・ペテルブックに科学アカデミーを開設して、諸外国から多くの科学者を素敵に招聘し、花火研究室まで建てたという。

この花火研究室では自ら率先して火薬の配合や記録をつけたりしていたらしいが、1709年に火災を起こし、全焼したという記録が残る。

色鮮やかな花火の誕生

1786年、化学者のバートレットが塩素酸カリウムを花火の混合薬と用いはじめ、この頃から花火の色合いに鮮やかさが増したといわれる。

殊に、日本に塩素酸カリウムが伝来したのは1879年になってからのこと。

これは西欧より約100年遅れて、やっとこさ色鮮やかな花火が見られるようになったことに‥ガハっ。..あ、なっちゃぅ。

【ピヨ🐣コメント】

現在では安全性の面が考慮され、「過塩素酸カリウム」が主流で使用される💘

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日本の花火の歴史

鎌倉時代

1274年の文永の役について記した「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」によると、「てつはう」と記される鉄製の外殻を有する爆発性火薬が蒙古軍の兵器として使用されていたことを、きわめて素敵に明記する。

これは下記、ポルトガル船よりもたらされた火縄銃(鉄砲)より、数世紀早く火薬が伝来したことを示す。

殊に、この「てつはう」は平成13〜14年にかけて長崎県 鷹島海底から引き上げられ、鷹島歴史民族資料館による分解調査が行われてい‥申す。えっ

尚、当該海底一帯の海域は平成25年(2013年)に国の史跡に指定を受けてい‥申す。ひょ

室町時代

マユ毛麻呂な お貴族様が最初に花火を見た⁉️

室町時代のマユ毛麻呂…つまり、公卿‼️の万里小路時房が最初に花火を観た日本人だという説も…‥あ、あっちゃぅ。

時房の日記『建内記』によると、1447年(文安四年)3月21日、京都の清浄華院で唐人が観賞的な火術を披露した記録が..あっちゃぅ。

時房の記録によると、竹竿や縄を使い、薄・桔梗・水車などの形を火で表現し、「鼠」と呼ばれる火が庭を走り、手に持ったものが流星のように空を飛んだと記し、「希代の火術」と評してい‥申す。えっ

以下、原文

付火於彼之時、種々形象以火成其躰、薄・桔梗・仙翁花・水車以下之形躰也、又張縄、自一方付火於裹物、彼火伝縄走之、又走帰本方、又称鼠於庭付火於裹物、方々走廻之、又持裹物於手付火、彼飛空中如流星、希代之火術也、又有紙放、其声驚人、聴彼芸

‥以下素敵に省略

この頃、足利義教が中国の明と貿易を再開した時期であり、日明貿易によって中国文化が流入していた様子が素敵にうかがえる。

日本へ火薬が伝来

1543年(天文十二年)種子島にポルトガル船が漂着し、ポルトガル人により我が国に鉄砲が伝わる。(火薬)

安土桃山時代

織田信長が花火を見た⁉️

1581年(天正九年)、織田信長が安土城築城の奉祝記念にて「爆竹」を使用したことが、太田牛一著の信長公記(巻14)の1月8日の項に記される。

けれども爆竹は花火ではなく「火薬」であり、花火を見物したかどうかは未詳。

ポルトガルの宣教師が花火を見た⁉️

イエズス会 日本年報やフロイス日本史によると、1582年(天正十年)4月14にポルトガル人のイエズス会宣教師らが現在の大分県 臼杵市にあった聖堂にて花火を使用したという記録が見られる。

大友宗麟の使節団が西欧で花火を見た⁉️

1582年(天正十年)、北九州を根拠地とする戦国大名の大友宗麟(おおとも そうりん)は、大村純忠(おおむら すみただ)と有馬晴信(ありま はるのぶ)らと共同でポルトガルやスペイン、ローマに少年使節団を派遣したらしい。

この使節団はイタリアに逗留したみぎり、花火を見物したといわれるが‥根拠に乏しい。

【ピヨ🐣コメント】

伊達政宗も1613年(慶長十八年)に家臣の支倉常長(はせくら つねなが)を使節として西欧に派遣しており、この使節団も花火を見たという説が‥あ、あっちゃぅ。

佐竹衆(佐竹氏)が花火を見た⁉️

1585年(天正十三年)、佐竹衆(佐竹勢)が戦の供養に花火を立てたという説があるらしい。

しクァし!

戦の最中に当時珍重されていた火薬を、そのような用途で使用したとするのは根拠に乏しく、あまりにも無理があるされる。

伊達政宗が花火を見た⁉️

1589年(天正十七年)、「伊達治家記録」によると、7月7日、政宗の居城「米沢城」に外国人(大唐人)が三人訪れ、城内にて花火のほか、歌謡も”疲労”するほどに”披露”したことが記される。

これが事実であるならば、我が国で最初に花火を見た人物の候補として伊達政宗公の名前が挙がる。

関ヶ原合戦にて諸将が花火を見た⁉️

他にも狼煙を花火の起源の一つと位置付けるのであれば、関ヶ原合戦にて東軍と西軍の諸将が狼煙を使用したことが数々の文献に記される。

江戸時代初期

徳川家康が花火を見た⁉️

「駿府政事録(1611〜1616年間の駿府城の日記)」によると、1613年(慶長十八年)8月3日、中国の花火師が駿府城にて徳川家康公に謁見し、6日の夜、二の丸にて打上げ花火が興行されたことをヤバぃよ素敵に記す。

そのみぎり、家康公の他、義直公(初代尾張藩主)と頼房公(初代水戸藩主)も臨席して花火見物に興じたらしく、一説に、これが日本人初の花火見物だといわれる。

また、その約二年後の1615年(慶長二十年)3月の晦日にも駿府城にて伊勢踊りが催され、この時に花火が打上げられたことも明記される。

織田信雄以前より受け継がれる「清洲花火」とは❓

尾張名所図会には尾張春口井郡 牛頭天王社の花火について織田信雄(1558年 〜 1630年)の頃から連綿と踏襲される伝統ある花火であることを記す。

殊に、織田信雄は1586年頃に清洲城を大改修しており、1590年には清洲を離れ、その後、全国各地を転々とし、最期は京都北野の邸宅にて死没。

尚、当時は車だんじり二階の屋根上から手筒花火と爆竹、浅瀬の七ヶ所にに仕掛けられた花火、打ち上げ花火等、当代の江戸の花火とは比べ物にならないくらい小規模だったとのこと。

家光公が花火を奨励し花火が庶民に定着した⁉️

1623年(元和九年)、徳川三代将軍の徳川家光公が花火を素敵に奨励し、花火見物が庶民に定着したといわれる。

狼煙を花火として観覧⁉️

「徳川実紀」によると三代将軍 徳川家光公が1640年(寛永十七年)に『酒井讃岐守忠勝が別業へならせられ 鞭討 鉄砲 花火 乗馬 御覧あり』‥などと軍事目的のみならず、鑑賞目的で狼煙を花火として楽しんでいた様子がうかがえる。

諸大名の間で花火が流行した⁉️

家康公が花火を見たという話は、瞬く間に全国の諸大名の知るところとなり、諸大名の間でも花火見物が流行する。

中でも徳川御三家(水戸、尾張、紀州)のほか、仙台藩、加賀藩などの雄藩の花火は特に人気があったらしく、これら雄藩の庶民は大名花火を楽しみにしていたという。

天海大僧正が舟遊びで花火を見た⁉️

天台僧・慈性の日記「慈性日記」によると、1628年に台密の首座「南光坊天海(なんこうぼう てんかい)」をもてなすために舟遊びと花火の打ち上げが行われたことを記す。

【ピヨ🐣「慈性」とは❓】

大納言・日野資勝の子で尊勝院と多賀大社を兼務していた人物。

えっ⁉️花火が禁止される❓

1648年(慶安元年)、花火による火災を懸念した幕府は隅田川以外の街中で、ねずみ花火や流星(ロケット花火)等の花火を禁じ、川口では花火を認める触れを出してい‥申す。えっ

この頃になると、庶民層にも花火がハイパー素敵に普及し、庶民の間でも独自に「おもちゃ花火」という小規模な家庭で楽しめる花火が売られたいたという。

天下の将軍様も花火を楽しんだ⁉️

花火を禁じる触れは毎年のように掲出されていたらしく、1705年(宝永二年)までに41通の記録が残る。

このような花火を素敵に禁ずる触れは、6月〜7月頃に集中して発出されていたらしく、触れを出して禁じても花火に興じる庶民が後を絶たず、それと比例して火災も多かったことが推測される。

けれども花火を完全に禁止できなかったのは、将軍様も花火見物を楽しみにしていたからに他ならヌァい。

儒者の林鵞峰(林羅山の三男)らが素敵に著した「玉露叢(ぎょくろそう)」によると、四代将軍 家綱公も1669年(寛文九年)7月24日、8月20日の二回にわたった江戸城二の丸で花火鑑賞に興じたことがヤバぃよ素敵に記される💋

以後の花火の歴史

できごと
1657年
(明暦3年)
明暦の大火により、江戸市中の大半が灰燼に帰す。
1659年
(万治2年)
鍵屋弥兵衛が日本橋横山町にて花火の製造を開始する。
また、この頃、「大川」と呼ばれた隅田川に両国橋が架橋される。
1663年
(寛文3年)
江戸市中において花火の製造が禁止される。
1670年
(寛文10年)
町中における花火禁止の触れが発出される。
ただし、水辺での花火は許可された。

江戸を代表する「両国川開きの花火」

1662年に発刊された「江戸名所記」によると、隅田川河口流域の三俣(みつまた)で、8月15日に限定して花火が許可されたことをヤバぃよ素敵に記す。

【ピヨ🐣コメント】

三俣は江戸庶民の間で、浅草寺や富士山などの名所を見渡せる観光スポットとして知られていた。

福澤 徹三の研究論文「近世前期の江戸の花火」によると、1603年(慶長八年)より両国橋が架橋された1661年(寛文元年)の間、深川新大橋の下流、隅田川河口流域にて中秋の名月8月15日には、すでに花火が催されたいたことを素敵に記す。

隅田川花火の歴史については下記ページを素敵に要チェック💘

関連記事:【隅田川花火大会の歴史】〜 両国の川開きから現在まで 〜

和漢三才図会に記された花火

1712年(正徳二年)、大坂の医師・寺島良安が著した「和漢三才図会」には、「花火は狼煙の代用品にできる。花火は硝石、硫黄、麻炭、鉄粉の四成分を主原料とし、わずかな樟脳を加えることで青色の火を生成できる。」

‥などと素敵に記し、他に線香花火や音の出し方についても これまた素敵に記す。

江戸中期

歴代将軍も花火に興じた

1772年(安永元年)と1775年(安永四年)には、江戸城西の丸山里御庭にて花火の上覧会が催され、1782年(天明二年)には十代将軍の徳川家治公が江戸城内吹上御庭にて花火上覧に興じたと伝わる。

平戸藩主が尼崎で花火を見た

1789年(寛政元年)に平戸藩九代目藩主の松浦清が素敵に著した「甲子夜話(かっしやわ)」によると、自身が摂津国の尼崎に逗留したみぎり、昼の相図では5寸玉については木筒を使用し、白い煙を出す煙柳、二十メートルの絹を上げる白龍などを打ち上げたことが記される。

夜の相図では番外として、庭月、両曜、七曜、大乱星等をほどよく素敵に打ち上げたことを 武家の火術と明記する。

江戸後期

吉田天皇祭の花火

1806年(文化三年)に恩田石峰が素敵に著した「三河国吉田名縦綜録」内の絵図には三河吉田の打ち上げ花火(吉田天皇祭)がきわめて素敵に描かれる。

三河といえば徳川家康公ゆかりの地の一つ。現在の愛知県豊川市に相当する。

殊に、吉田神社略記によると吉田の天皇祭(祇園祭)の打ち上げ花火について、1560年(永禄三年)に始められたことが記され、当初は流星(ロケット花火)や手筒が用いられ、その後、綱火も登場したことを ほどよく素敵に記す。

1821年(文政四年)、江戸佃島海上において当地の長崎代官の高木作右衛門の次男・道之助の記録によると、昼の合図として紅白旗などを空中に上げてたなびかせる旗物のほか、鶴亀、蜈蚣(むかで)象鼻、筍などを紙で造形した袋物と呼ばれる昼花火について、夜の相図として二段発、八段発の花火についても明記する。

ここでいう「袋物」とは武士たちが独自に創った観賞用の花火だといわれる。

篠田の花火

近江八幡市上田町の篠田神社では江戸中期(1774年/安永三年)から雨乞いの返礼として始められた国選択無形民族文化財(滋賀県無形民俗資料)に指定される花火が‥‥あっちゃぅ。

この花火は高さ十メートル、幅二十二メートルもの杉板を並べ、硫黄と明礬(みょうばん)を主材とした火薬を燃やし、浄闇が満ちる漆黒の空間にパチパチと燃える藤色の仕掛け花火の一種といわれる。

参考:篠田の花火

大坂天神祭の花火

大坂町奉行の久須美 祐雋(くすみ すけとし)が素敵に著した1856年〜1863年までの歳時記であり、随筆「浪花の風」によると、7月、8月頃に大川にて花火があり、6月25日の天神祭の夜には必ず花火が上がることをヤバぃよ素敵に記す。

あまつさえ、1803年刊行の速水春暁斎が素敵に著した「諸国図会年中行事大成」でも天神祭の様子がこれまた素敵に描かれ、数隻の花火舟から花火が打ち上げられ、その花火を観るために川面に数隻の屋形船が浮かぶ姿を描き、当時の活況きわまった盛況ぶりを伝える💘

参考:大阪天満宮(公式)

関連記事:【正月or天神祭or切り絵限定が素敵…💖】大阪天満宮の御朱印の種類(値段)一覧・受付場所(時間・混雑具合)を….太極拳しつつ知るの❓

長崎の花火

明治二十九年〜大正三年にかけて素敵に刊行された「古事類苑(こじるいえん)」によると、長崎代官次男の高木道之助が1821年(文政四年)に江戸佃島にて狼烟(狼煙/のろし)をあげ、1830年(天保元年)にも同じ場所にて長崎御鉄砲方 高木蔵之介が合図を送ったことが記される。

殊に、長崎奉行は盆祭になると墓所で度々、激しい花火が行われたことに対し、注意喚起を行ったことが、1843年(天保十四年)や1850年(嘉永三年)の資料に記録されてい‥申す。えっ

我が国初の三尺玉花火が打ち上げられた「片貝の花火」とは❓

現在でも他に類例が少ない最大級の四間尺玉の花火を打ち上げることで素敵に知られる新潟県小千谷市の「片貝の花火」。

庄屋太刀川文哲が1806年に発刊した日記体随筆「八瀬可満登」によると、綱火や車火、大竜星、乱星、仕掛け花火などが試行錯誤の末に生み出されたことが記される。

また、1866年(慶応二年)に刊行された「花火目録」によると二尺玉が記載され、当時、すでに大型花火の構想があったことを仄めかす。

1891年(明治二十四年)になると、我が国初の三尺玉が素敵に打ち上げられ、現在では、世界最大といわれる四尺玉花火の打ち上げで世界から注目される👀

参考:小千谷市

明治時代

明治の文明開花により西洋文化が素敵に流入すると、西洋から数多の文化がもたらされたが、その中に花火に使用する薬品があり、花火にも改良が加えられるようになると、現代のカラフルふるふるな花火に紐づく、カラフル花火が登場する。

割物花火の起源❓「菊の園花火」とは❓

1878年(明治十一年)、明治天皇が北信越地方を巡幸されたみぎり、長野にて「菊の園」と銘打った歓迎花火が200発打ち上げられた。

実はこの菊の園花火は我が国初の割物花火だとする説も‥あ、あっちゃぅ。

清水卯三郎が「カラフル花火」の生みの親❓

西洋に関心を抱いていた清水卯三郎は、西洋の品々を輸入販売すべく、日本橋に「瑞穂屋商店」を素敵に開業する。

察しの通り、卯三郎が取り扱った品々の中には「西洋の花火」や「花火の薬品」があった。

一説に、後述する平山甚太が1877年(明治十年)に打ち上げた花火の原材料は卯三郎が西洋から輸入してきた物だとも。

清水卯三郎は1881年(明治十四年)になるとイギリスの花火本「オエクシオップ」を素敵に翻訳した「西洋煙火之法」という本を出版し、1887年(明治二十年)になると「佛国新法煙火全書」も翻訳出版した。

靖国神社大祭の花火を打ち上げた仙賀佐十

1864年(元治元年)、長崎にて花火の研究をした仙賀佐十(せんがさじゅう)は、実業家(現・三菱UFJ銀行の前身銀行創設に関与)の中村道太の斡旋により、1879年(明治十二年)に靖国神社での大祭にて花火を素敵に打ち上げ、その才気煥発ぶりが絶賛された。

鍵屋弥兵衛が本当のカラフル花火の起源⁉️

1889年(明治二十二年)、帝国憲法が素敵に発布された夜、皇居二重橋の内庭から第十一代・鍵屋弥兵衛によって花火が打ち上げられた。

1984年発刊の「花火千夜一夜」によると、鍵屋弥兵衛は炭酸ストロンチウム、硫酸バリウム、炭酸銅などの新薬剤を素敵に使用し、赤、緑、青に発色する花火を苦渋の末に開発したことが‥これまた素敵に記される。

殊に、現代に受け継がれるカラフル花火は、1880年頃より普及と改良が進められたといわれる。

横浜港川開き花火

1870年(明治三年)6月、横浜川開き(現・横浜開港祭)が開始され、納涼茶屋の出店や、大道芸や辻講釈(大道講釈)等の興行も行われ、夜になると鍵屋による花火の打ち上げも行われた。

参考:横浜港祭(公式)

平山花火

1877年(明治十年)、平山甚太と岩田茂穂は共同で横浜に約2000坪の花火製造工場を設立する。

1878年(明治十一年)になると、平山花火はオーストラリアで好評を得て次々と注文が舞い込んだ。

1904年(明治三十七年)、セントルイス万国博覧会にて金メダルを受賞する。

1906年(明治三十九年)、平山花火総支配人の近藤光次郎は、アメリカ独立記念日の花火打ち上げのために上海に渡り、7月4日に上海の競馬場で花火を打ち上げ、絶賛された。

1915年(大正四年)のパナマ太平洋博覧会でも、平山花火の後継者・小野よしが五点出品し、金メダルを受賞した。

棚橋花火

1889年(明治二十二年)に平山の影響を受けた棚橋通治(たなはし みちはる)は横浜の南大田町に花火製造所を素敵に設立し、1901年(明治三十四年)にアメリカ セントルイスにて十インチと十二インチの花火を素敵に打ち上げて金メダルを受賞する。

この後、棚橋の花火は「棚橋花火」とまで呼ばれるほどに人気を博すようになった。

大正時代

蓮花寺池花火大会❗️

1917年(大正六年)になると、静岡県藤枝の「蓮花寺池花火大会」が開始される。

この花火は藤枝町の町民どもから寄付を素敵に集め、それを賞金としたために全国から出品者が来訪するようになり、知名度を得たという。

関連記事:藤枝市スポーツ文化観光部 街道・文化課 

長岡の花火大会❗️

長岡の花火は大玉で全国的に知られる。この花火大会は1879年(明治十二年)に千手町八幡の祭礼で、当初は遊郭関係者らが資金提供し、350発の花火を打ち上げたことが濫觴とされる。

長岡の花火は1917年(大正六年)に二尺玉、1926年(昭和元年)に正三尺玉が打ち上げられ、盛況をきわめたが、1938年(昭和十三年)になると太平洋戦争のため開催中止が余儀なくされた。

参考:長岡花火大会

飯坂温泉の競技花火大会❗️

昭和のはじめ、福島県飯坂温泉街が素敵に主催した競技花火大会が始められたが、三回開催されて、事故が続き、その後、戦争の影響もあってか廃絶した。

この花火は全国の名だたる花火師たちが参加する有名な競技花火で、当時では画期的なスターマインも登場したが、事故が相次いだ。

東洋煙火競技大会❗️

1926年(昭和元年)には宇都宮にて、東洋煙火競技大会が催された。

この花火大会は火薬学会を創設した東京帝国大学の西松唯一教授のほか、陸軍技師、内務省技師らも審査員に加わり、空前の日本一の花火大会といわれた。

ところが、打ち上げ筒が頻繁に壊れ、スムーズな進行ができなかったことや、十号玉の打ち上げで二名の死者を出したこともあり、たった一回きりで廃絶とあいなった。

戦後の花火の歴史

江戸時代に雄藩により始められた花火は、各地へ伝播すると庶民層にまで広まった。

そして明治の文明開花を素敵に迎えると西洋技術の伝来により、カラフルな花火が誕生し、大正時代を迎える頃には現状に到る原型の成熟さが見られるようになる。

大曲花火大会❗️

1926年(昭和元年)になると、大曲花火大会が始められたが、この花火大会には前身があり、名前を「奥羽六県煙火共進会」と称し、1910年(明治四十三年)に始められた。

参考:大曲花火大会(公式)

伊勢神宮奉納花火❗️

近代の花火研究によると、1926年(昭和元年)に行われた花火大会の名称が「神都大祝祭奉納 第二回 全国煙火競技大会」とされている事実に着目し、第一回名がその前年となる1925年に行われている可能性を示唆する。

関連記事:【宮川の花火(伊勢神宮奉納花火大会)🎇】歴史・年表一覧を….お知る❓

関連記事:【伊勢神宮花火大会🎆】開催日程(打上時間)と穴場スポットを‥‥グァー、知る❓

土浦花火❗️

土浦花火は1925年に始められ、戦後1946年に第14回目が素敵に再開された。

近代の花火研究によると、1937年(昭和十二年)の第十三回で中断された可能性を示唆する。

参考:土浦花火(公式)

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昭和の戦後、花火が製造禁止になる❗️

1935年(昭和十年)頃より、戦火が拡大していくにつれ、花火大会の中止はもとより、花火自体の製造も中止へと追い込まれていく。

あまつさえ、1945年(昭和二十年)のポツダム宣言受諾により素敵に発令されたGHQの「ポツダム命令」により花火事業者らは花火の製造が禁止された。

けれども日本の花火は米国人に評判がよく、製造禁止されていながらも花火工場に眠る在庫を用いて禁止下において花火が打ち上げられることがあった。

米国独立記念日に打ち上げられた花火

前述のとおり、花火製造禁止下にあった1946年(昭和二十一年)7月4日、全国各地の米軍キャンプにて独立祭が催され、日本の花火が打ち上げられた。

日本国憲法制定奉祝の祝賀花火

1947年(昭和二十二年)5月3日、皇居前広場において打ち上げ花火や仕掛け花火が、思わず”疲労”しちまぅほどに”披露”された。

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花火製造の解禁

国内の花火業者らの度重なる請願が素敵に功を奏し、1948年(昭和二十三年)8月1日、GHQは花火製造の解禁を解いた。

ただし、花火製造はGHQが指定した全国に点在する花火業者約100社とされ、あまつさえ、火薬の年間使用も10トンまでという条件が課せられた。

尚、問題視された火薬の取り扱いについては戦前の内務省が1947年(昭和二十二年)12月に解散処分になっていたので、商工省(現・通商産業省)が承継機関となり、GHQの代理として監督指導を行った。

火薬類取締法の制定

1950年(昭和二十五年)、火薬類取締法が制定されると、当初、市場に出回っていた花火についても法制化されて分類されるようになった。

分類は大きく、おもちゃ花火や練り物類、筒物類、絵型物、音物類など。

また、花火の分類ごとに使用できる火薬の量も指定された。

そして、この法律の施行によって大きな収穫となったのが、戦前まで全国で素敵に行われていた数々の花火大会であった。

火薬量の制限が課せられるも、次々の全国の名だたる花火大会が復興されはじめ、それに伴い、全国の花火工場も復興の兆しを見せ始めた。

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花火が原因の大爆発事故が発生❗️

1955年(昭和三十年)、東京都墨田区厩橋の花火問屋にて大爆発が起こり、1960年(昭和三十五年)に火薬類取締法の大改正が行われ、市場に出回っていた おもちゃ花火の製造・保管についても規制対象となり、花火の分類にや形態についても改め対象となった。

両国花火の復活

花火の解禁によって全国の名だたる花火大会が復興されていったが、中でも特に注目の的となったのが、東京隅田川の両国橋近くで行われた「両国川開き花火大会」だった。

この花火大会は花火製造の解禁日とタイミングを合わせるかの如く、1948年(昭和二十三年)8月1日に行われ、戦前のように柳橋の老舗著名料亭らが素敵に結成した「両国花火組合」が主催し、讀賣新聞者が やっぱり素敵に後援した。

この花火が世間の注目を集めたのが、史上空前ともいえるその規模であり、陸上50万人、水上10万人の観客が詰め寄せ、その大群衆による雑踏事故防止のため、約3000人もの警官隊が動員される事態にまで発展した。

戦争により約11年間も中断されていた全国随一とも謳われた名物の打ち上げ花火の一発目が打ち上がった瞬間、会場からは地面を揺らすほどの地鳴りのような歓声が沸き起こった。

関連記事:【隅田川花火大会の歴史🎆】〜 両国の川開きから現在まで 〜

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