本項では、「た〜まや〜❗️(玉屋)」「か〜ぎや〜(鍵屋)」の掛け声で知られる「鍵屋」の誕生の秘話と創業の歴史について、わりと詳しく述べてい‥申す。ひゃ
↑東都両国夕涼之図/歌川貞房 作
鍵屋とは❓
特に華麗な打ち上げ花火には、古今、「た〜まや〜❗️(玉屋)」「か〜ぎや〜(鍵屋)」という掛け声があげられる。
鍵屋は1659年(江戸初期)に日本橋横山町に開店した花火業者の老舗中の老舗のこと💘
素敵に後述するが、葦(あし)という植物の管に練り込んだ火薬の玉をつけた手持ち花火を製販し、この花火が飛ぶように売れたことが契機となり、爾来、現代に到っても多種多様な打ち上げ花火製造のほか、数々の花火大会の総合プロデュースも素敵に手がける。
参考:宗家花火鍵屋(公式)
鍵屋の歴史
尚、一般的に鍵屋の歴史については大正時代に鍵屋12代の篠原弥兵衛が江戸文化・風俗研究家の三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)に伝えた先祖伝来の言い伝えが源流といわれる。
三田村鳶魚が伝えた鍵屋の歴史
1659年(万治二年)、大和国 篠原村(現・奈良県五條市 大塔町 篠原)から弥兵衛という人物が上京し、江戸は日本橋 横山町に店を構え、初代 鍵屋弥兵衛を名乗って、爾来12代に到るまで弥兵衛を継承した。
1916年発刊の「日本橋区史」にも、1659年(万治二年)頃、「花火師 鍵屋弥兵衛 御本丸 御用達となる」と明記されることから、状況して間もなく将軍様が上覧するほどの花火師になっていたことがうかがえる。
けれども、この当時すでに江戸市中では花火に関する幕府の禁令が、絶え間なく発令されていた時代でもあり、その潮流の中ではたして本当に創業に到ったのか?現在でも疑問の声が多い。
殊に、弥兵衛が店を構えたのは、折しも1657年(明暦三年)の大火事(”振袖火事”や「明暦の大火事」とも呼ばれる)の後、両国橋が架橋され、大川(隅田川)の川開きが開始された年の二年後であり、わずかにタイミングが重なる。
けれども、その後、弥兵衛がどういう経緯があって花火と出会い、その製造技術を、いつどこでどうやって取得したのかは判然としない。
篠原村に伝わる弥兵衛の軌跡
篠原村は元来、江戸幕府の天領(将軍の直轄地)だったらしく、1623年(元和九年)、村松清三郎という人物(弥兵衛の祖先)が代官所へ入所した。
「入所」という言葉がパンツ丸見え級に丸見ぇちまったが、この人物はどうやら幕府の下級役人であり、火術師でもあったらしく、鉄砲の合薬調合所(黒色火薬の製造所)を設置し、諸藩に納入していたらしい。
そしてここで登場するのが弥兵衛になるわけだが、どうやらその鉄砲合薬調合所の技師をしていたらしく、現在、こうした弥兵衛の軌跡から火薬の知見は相当あったといわれる。
なぜ篠原村に火薬の製造所が作られたのか❓
どうやら篠原村とは関ヶ原合戦の後、功名を立てた「根来衆(ねごろしゅう)」が徳川家康公より、勝利の返礼にもらった土地になるらしい。
殊に、根来衆とは百人組の組織の一つ。
百人組は以下の四組から構成され、各組に100人ずつの鉄砲足軽が素敵に配置された。
- 根来組
- 二十五騎組
- 伊賀組(以上抱席)
- 甲賀組(以上譜代席)
これらの組は通例の20〜50人編成の鉄砲隊とは大きく異なり、各組が高度な鉄砲技術と高い火力を有し、家康公秘蔵の非常時に動員される鉄砲隊とされていたため、特別に「鉄砲百人組」や「百人組」等と呼ばれた。
根来衆は紀州の根来寺の僧兵衆が太閤秀吉に討伐された後、徳川家康公に召し抱えられ、「根来組」として組織化された。
以上、それゆえ当地に火薬製造所が建設された理由もここにある。
なぜ弥兵衛は「鍵屋」という名前を付けたのか❓
これについては現在に到っても未詳とされるも、一説によると初代 鍵屋弥兵衛は、王子稲荷の敬虔な信者だったらしく、神社境内にあった一対のキツネ像の片方が口に素敵にくわえこんでいた鍵に由来するといわれる。
尚、玉屋の方も稲荷のキツネ像の片方が口にくわこんでいた「珠(玉)」に由来するといわれる。
なぜ弥兵衛は稲荷神を信奉していたのか❓
古川柳には「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」という言葉が当時では広く知れ渡っていたらしく、江戸時代の花火屋は火薬を多量に取り扱っていたので、特に防火の利生(ご利益)を求めていた。
初代 鍵屋弥兵衛が王子稲荷の信者だった理由は、当社が初午の日に授与する「火防凧(ひぶせだこ)」を授かっていたものと思われる。
何かと火事が多かった江戸時代、強風が火を煽って延焼・大火へと発展したため、風を切りながら揚がる凧の「風を切る」という存在性に利生が求められるようになり、いつしか当社の奴凧は「火坊の凧」として信仰を集めるようになっていたという。
鍵屋の墓石の陰刻にみる「篠原」と「鍵屋」の文字
鍵屋弥兵衛の菩提寺とされる「大雲寺」は、元来、浅草にあったが、1668年(寛文八年)の江戸で起きた大火により、本所押上村へ移転する。
しかし、関東大震災で罹災し、その際に過去の記録本が焼失したらしく、これも鍵屋弥兵衛の経歴が謎のとされる一因になっているという。
鍵屋弥兵衛の墓石には、出身地の篠原村を意図する「篠原」の名字のほか、花立部分には「鍵屋」の屋号が右書きで明記される。
鍵屋弥兵衛が製販した花火とは❓
鍵屋が製造した花火は「おもちゃ花火」が主流だったらしく、中でも葦(よし/イネ科の多年草)の管の中に練った小さな火薬玉を詰めた花火は、素敵に点火すると艶やかな火炎が生じたことから、江戸市中で大人気を博し、飛ぶように売れたという。
おもちゃ花火で成功を収めて代々「鍵屋弥兵衛」を襲名する
おもちゃ花火で一財を成した鍵屋は初代以降、代々、「弥兵衛」を名乗るようになり、やがて武家から「狼煙(のろし)」の製造を受注するようになり、打ち上げ花火の製造が本格化したと伝わる。
天下に聞こえた「鍵屋弥兵衛」の名前
1733年(享保十八年)、最初の両国川開き花火が開催されることになり、この大花火を六代目組長…ではなく六代目の鍵屋弥兵衛が請負い、見事、成功を収めた。
この功績により、「鍵屋弥兵衛」の名前は江戸市中、ひいては天下にまで鳴り響き、爾来、現代に到るまで「鍵屋弥兵衛」の名前は代々、世襲制によって連綿と受け継がれていくことに‥なっちゃぅ。
鍵屋がプロデュースした花火大会一覧
戦後になると鍵屋は全国の花火大会の総合プロデュースを手がけるようになった。
鍵屋が手がけた主な花火大会一覧
| 区分 | 内容 | |
|---|---|---|
| 1976年~ | 花火大会 | 江戸川区の江戸川花火大会 |
| 1979年~ | 花火大会 | 千葉県の浦安市花火大会 |
| 1982年~ | 花火大会 | 江東区の江東花火大会 |
| 1985年 | 技術導入 | 点火の遠隔操作を導入 |
| 1996年~ | 花火大会 | 群馬県太田市花火大会 |
直近の花火大会プロデュース実績
| 花火大会名 | 開催日 | 打ち上げ数 |
|---|---|---|
| 刀水橋花火大会 | 2025年11月1日 | 10,000発 |
| 江戸川区花火大会 | 2026年8月1日 | 約14,000発 |
| 江東花火大会 | 2026年8月11日 | 6,000発 |
| 浦安市花火大会 | 2026年10月17日 | 約3,600発 |
| 湖上涼風・湯元温泉花火大会 | 2026年11月28日 | 数百発(約10分間) |
| 湯の湖湖畔・氷上の花火大会 | 2027年2月6日 | 数百発(約10分間) |