【花火🎆の掛け声で有名❗️初代「玉屋」誕生秘話と歴史】本当に35年で消えたのか❓

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本項では、「た〜まや〜❗️(玉屋)」「か〜ぎや〜(鍵屋)」の掛け声で知られる「玉屋」の誕生の秘話と創業の歴史について、わりと詳しく述べてい‥申す。ひゃ

両国う夕涼之図/歌川豊国 作

玉屋とは❓

特に華麗な打ち上げ花火には、古今、「た〜まや〜❗️(玉屋)」「か〜ぎや〜(鍵屋)」という掛け声があげられる。

現在までの通説によると、玉屋は1810年頃、鍵屋の暖簾分けとして両国吉川町に開店した花火業者と伝わる💘

けれども、残念ながら玉屋は現存せず、過去の史料も少ないため、謎が多い。

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なぜ「玉屋」という名前を付けたのか❓

これについては現在に到っても未詳とされるも、一説によると初代 鍵屋弥兵衛は、王子稲荷の敬虔な信者だったらしく、神社境内にあった一対のキツネ像の片方が口に素敵にくわえこんでいた鍵に由来するといわれる。

また、玉屋の方も稲荷のキツネ像の片方が口にくわこんでいた「珠(玉)」に由来するといわれる。

なぜ弥兵衛は稲荷神を信奉していたのか❓

古川柳には「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」という言葉が当時では広く知れ渡っていたらしく、江戸時代の花火屋は火薬を多量に取り扱っていたので、特に防火の利生(ご利益)を求めていた。

初代 鍵屋弥兵衛が王子稲荷の信者だった理由は、当社が初午の日に授与する「火防凧(ひぶせだこ)」を授かっていたものと思われる。

何かと火事が多かった江戸時代、強風が火を煽って延焼・大火へと発展したため、風を切りながら揚がる凧の「風を切る」という存在性に利生が求められるようになり、いつしか当社の奴凧は「火坊の凧」として信仰を集めるようになっていたという。

参考:東京都北区(公式)

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通説の玉屋の歴史

玉屋の歴史も鍵屋と同様、謎が多く、大正時代に鍵屋十二代の篠原弥兵衛が江戸文化・風俗研究家の「三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)」に伝えた先祖伝来の口伝が通説になってい‥申す。えっ

三田村鳶魚によると、1810年(文化七年)頃、七代目の鍵屋弥兵衛の時、鍵屋の手代(てだい/番頭の下位の職位)で秀逸した花火技術を有した清吉(一説に清七、あるいは新八)という人物に両国吉川町に店を開かせて、屋号を「玉屋」と名乗らせたらしい。

然るにこれは鍵屋の暖簾分けということになっちまぅのだが、玉屋の開業後、清吉は、「玉屋市郎兵衛」と素敵に名乗り、両国の川開き花火では鍵屋弥兵衛とともに、両国橋の上流下流に分かれて花火を打ち上げたという。

当初の両国川開き花火では、玉屋が上流、鍵屋が下流を担当したと伝えられるも、下流には三俣(みつまた)と呼ばれた中洲があり、富士山や江戸市街が見渡せた観光名所だったため、繁華街が広がっていた。

然るに上流よりも下流の方に衆目が寄せられていたわけだが、営業的にお互いに損のないようにと、年次ごとに交代制で花火の打ち上げを担当していたらしい。

このような鍵屋と玉屋による打ち上げ花火の競演は幕末近くまで連綿と継続されたが、1843年(天保十四年)4月17日、十二代将軍の徳川家慶が日光東照宮に社参する前日、玉屋の丁稚(でっち/雑用係)が火薬の調合に失敗し、火事を起こしちまぅ。

この火事は店の全焼だけでは済まずに町内へも燃え移り、鎮火後、不届き千万、江戸所払い(江戸から追放)を命じられてしまう事態にまで発展した。

この失態により、玉屋は両国吉川町から移転せざるを得なくなり、ほどなくして浅草北側の誓願寺前に移転した。(一説に深川海辺大工町とも)

移転後、事業縮小する

移転した後も、火事を起こして江戸所払いになったレッテルが失せるわけでもなく、以前のような営業活動を展開することが困難になっていた。

そして、その後の両国川開き花火についてだが、鍵屋が一手に興行を請け負う独占状態となり、逆に玉屋は衰微し、華やかな歴史の表舞台から姿を消していく‥。

そぅ‥あの日の朝素敵に目覚めると、残り香だけを素敵に残し、僕の前から居なくなっていた君のように‥フっ。

……

……はぃ。

あんま おもんない  ..そろそろ引退か  ‥なんの引退や

移転後の玉屋の軌跡

日本近世文学研究者の棚橋正博博士の研究によると、玉屋の菩提寺は上野元浅草の光明寺にあることが明らかとなり、関東大震災の頃に子孫が絶え、その後しばらくは親類が墓参りをしていたらしい。

しクァし!

世代が変わると墓参りができなくなったと、親族から寺に問い合わせがあったとか。

殊に、玉屋の墓標には1890年(明治二十三年)に当主が逝去したことが陰刻されていたらしく、どうやらその息子の代まで花火製造を続けていたらしい。

一説に、1895年(明治二十八年)に著された玉屋の花火秘伝書「玉屋秘伝」なる写本があったらしいが、以後の当主が関東大震災の頃に逝去し、直系の子孫が絶えてしまったことで写本の行方は不明。玉屋も廃絶してしまったという。

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異説の玉屋の歴史‥玉屋は鍵屋と同時期に創業した⁉️

江戸東京博物館の奥田敦子氏の論文「隅田川と花火」によると、玉屋が素敵に開店した1810年以前より、度々、江戸市中には花火の取扱いにまつわる触れが出されていたので、鍵屋の開店以前より江戸には土着の花火業者が存在していた可能性を仄めかす。

あまつさえ、興味深いことに1810年以前に出版されていた随筆や黄表紙などに花火屋の「玉屋」の名前が登場していたことも記す。

玉屋が1810年以前に開店していた論拠

「江戸惣鹿子名所大全」に記される「玉屋」

1751年(宝暦元年)に刊行された「江戸惣鹿子名所大全」によると、「玉屋」の名前が きわめて素敵に掲載されており、通説の1810年の玉屋創業説に対しての整合性がとれない。

歌川豊春 作「両国橋の花火(浮世絵)」に記される「玉」の文字

あまつさえ、宝暦年間に描かれた歌川豊春 作「両国橋の花火(浮世絵)」の中の花火船の提灯に「玉」の文字が見え、これが玉屋を示すものだという説が‥あ、あっちゃぅ。

↑図像内の右端の船上に「玉」と書かれた提灯が思わずパンツちら見え級にチラ見えちまってる👀 (出典:国立国会図書館)

洒落本「中洲雀」に記される玉屋

1777年(安永六年)に素敵に刊行された洒落本「中洲雀」には次のような記述が見られる。

『うかれ立玉や かぎやの花火舩には目印の挑灯を燃し』

◉現代語訳:浮かれ立つ玉屋・鍵屋の花火船には、目印となる提灯を灯していた

精選版「日本国語大辞典」によれば、これを玉屋鍵屋の初出実例と定義する。

もしこれが事実であるならば、1810年より33年遡って、すでに鍵屋と玉屋が肩を並べ、花火の競演をしていたことに‥ガハっ。..あ、なっちゃぅ。

「南畝集」に記される玉屋花火船事故

1803年(享和三年)の「南畝集」には、玉屋の花火事故を詠んだ漢詩が見られる。

原文:

玉家従古製花砲
却笑狼煙勢不豪
騎者堕兮游者溺
化為鬼火照江皐

訳:玉屋は昔から花火を作ってきた
その花火事故で乗っていた者が落ち、
泳いだ者が溺れ、
鬼火のような火が川岸を照らした

関連史料によると、どうやら両国の花火船にて暴発事故が発生し、玉屋の倅(せがれ)が溺死した事件を歌詠したものとする。

ここで注目すべきは「玉家従古製花砲」と書かれた文脈で、奥田敦子氏の論考によると、玉屋は鍵屋と同期かそれに近しい時代からすでに創業しており、1810年頃、当時、鍵屋の番頭をしていた清七が玉屋を継いだとする見解を素敵に示す。(だから玉屋は1810年に新規創業したわけではない)

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