今回は、後々の神社信仰にもつながっていくことが予想される、縄文時代の信仰や遺跡について、抑えていきたいと思います。縄文時代と言えば土偶が有名ですが、土偶だけではありませんよ! 縄文時代に特徴的な習俗についてもあわせて見ていきましょう。
縄文時代は西暦何年?
縄文時代は一般的に現在の日本史上、
- 紀元前13000年~紀元前300年頃
と言われています。あくまでも2020年現在の通説であり、この年代は今後変わっていく可能性が多いにあると考えておいてください。というのは、縄文土器の放射性炭素年代測定を行った結果、紀元前16500年前のものではないかという鑑定結果の例があるのです。ですから、今後「縄文時代」の西暦定義は変化する可能性があるものとして捉えておくと良いでしょう。
縄文時代の遺跡は全国にある!
縄文時代の遺跡と言われて思い浮かべるのは何遺跡でしょうか?
大学受験の場合、最も覚えておきたいのは青森県の三内丸山遺跡でしょう。三内丸山遺跡は縄文時代の遺跡群の中でもかなり特殊性がありますので、その特徴について後述しておきますね。
意外なことに縄文時代の遺跡は、さむ~い北海道にも、南方では種子島のような島にも、ちゃんと残されています。
縄文時代の遺跡で、最もスタンダードなものは「貝塚」です。貝塚には宗教的な意味合いもあったとされますが、これについては後述しますね。
貝塚が集中的に存在しているのが東京、神奈川、千葉のエリア。有名なものでは東京都 大森貝塚(1877年にアメリカのモースによって、日本で最初に発見された縄文遺跡)が挙げられるでしょう。
このほかにも、青森県から三陸地方、宮城県、福島県にかけての太平洋沿岸や、瀬戸内海、北九州、大阪など、海に近いところを中心に至るところで遺跡が発見されています。
三内丸山遺跡の特徴!とにかくデカい&長続き
青森県の三内丸山遺跡が、特に縄文時代の遺跡の中でも重要視され、入試などにも出題確率が高い……その理由は、他の遺跡に比べて特徴的だから。
縄文時代の一般的な集落は、家が5軒前後。人数は多くても30人くらいだったようです。
ところが、三内丸山遺跡は全く規模が違います。人数は500人前後。それだけの人が、実に1700年も、三内丸山遺跡のある場所で暮らしていたと考えられます(紀元前約3900~2200年頃。今から約5900~4200年前)。
縄文時代の一般的な住居である「竪穴式住居」も、かなり空間の広い大規模なものが発掘されていますし、これとは違った、地面に太い柱を建てて屋根を乗せた平地住居という形式の住まいも見つかっています。柱のある建物は、高床式に作られていたものと考えられていますが、柱の直径は柱穴を見ると約2メートル。これが1つの建物に6本使われています。かなりの規模であることがわかりますね。
出土品は住居に関するものだけでなく、土器、石器、琥珀や黒曜石、糸魚川翡翠の大玉。赤色の塗られた漆器、編み物……特に翡翠に関しては糸魚川翡翠であったため、上越エリアの縄文集落との交易の証拠とも考えられているのです。
縄文時代の貝塚は儀式場?
貝塚というと、名前からしていかにも「貝殻のゴミを捨ててあるところ」いわば「ゴミ捨て場!」と考える人も多いようですが、貝塚の機能はゴミ捨て場だけではなかった可能性が指摘されています。
もう1つの貝塚の機能は、儀式場。貝塚ではゴミ捨てと一緒に儀式が行われていたという考え方が、考古学者の間では一般的になってきました(全ての貝塚に痕跡が見られるわけではありません)。
一部の貝塚では、捨てた骨などのゴミを一定の形に並べる等の、儀式的な行為が行われていた痕跡が見られるのです……そして、貝塚で行われていた儀式は、「生命の再生」を祈る儀式だったのではないか、と考えられています。
貝塚は生命が終焉する場所。
そこで、再生を祈願する儀式を行うことで、縄文人たちは豊かな収穫や、集落の繁栄を願ったものと考えられるのです。
縄文時代の信仰は「アニミズム」
縄文時代の信仰は「アニミズム」と呼ばれる自然信仰で、これが後の時代に八百万の神といった自然神信仰につながる神道の基礎になったのではないかと思われます。
アニミズムについて、うっかり「アミニズム」とテストに書いてしまう人がいますので、注意してくださいね。網じゃないですよ!( ̄∇ ̄)
アニミズムは、日本語に訳すると「精霊崇拝」という言葉に直すことができます。
精霊崇拝の主な目的は、
- 子孫繁栄
- 災い除け
- 収穫増
と、いずれも集落の安定と繁栄につながるものばかりです。
当時の人類は、病気や野生動物に簡単に敗北を喫し、風雨によって集落が丸ごと潰れたりすることもあったでしょう。精霊に祈ることによって、これらの不幸を免れたい……というよりも、不幸を避けるためにはほとんど祈るより他になかったことが想像できますね。
豊作と繁栄を願った「土偶」と「石棒」…土偶は何のために使われたのか?
精霊崇拝の中で中心を担うのが、子孫繁栄を祈るための祈りと儀式でした。
これに使われるのが、皆さんご存知の「土偶」です。また土偶の他に「石棒」というアイテムもあります。
土偶は、女性をかたどった土人形で、ほとんどが妊婦の姿をしています。さらに、土偶の多くが破損していることも特徴です。何らかの理由で壊すために作られたという説もあるほどです。
あくまでも推測ですが、壊すために土偶が作られたとすると、それは本来妊娠している集落の女性を守るために、身代わりとして土偶を破損させたという背景はあるように思います。人形の本来の使い道は、子どものおもちゃではなく「身代わり」です。土偶が人をかたどっている、特に妊婦をかたどっている以上、それは妊婦の身代わりである可能性が非常に高いでしょう。子どもを無事に産み、集落を繁栄させるためには、出産までの期間、妊婦に災いが及ばないよう、配慮する必要がありますからね。土偶を破損させ、妊婦の代わりに災いを引き受けさせようと考えても不思議はありません。
一方で、土偶とは別に、石の棒も多く出土していて、これは「石棒」と呼ばれています。アニミズムの目的の1つは子孫繁栄であり、子孫が繁栄するためには妊婦だけが存在していてもしょうがないですね。つまり男性の息子さん崇拝の痕跡も、縄文時代の遺跡に残されているということです。これは単に子孫繁栄を祈るだけではなく、農耕や狩猟の豊かな収穫を祈るものでもあったと考えられています。
現在でも、愛知県の田縣神社や、愛媛県の多賀神社、神奈川県金山神社、あるいは全国各地の民間信仰として、繁栄を祈る信仰の名残は明確に残されています。この事実は、あらためて人類の発展とこうした習俗が無関係ではいられなかったことを感じさせてくれるでしょう。
アニミズムから神道へ発展したのはいつ?
縄文時代には、宗教的な側面はあくまでもアニミズム、精霊崇拝に留まっていました。またこの時代の特徴として、簡単な農耕や、比較的近い周辺集落との交易があったこともわかっています。
しかし一方で、人々の間に貧富の差がなく、集落には複数の家があったかもしれませんが、人類みな兄弟のような感じであったことは確かのようです。集落には首長がいない。富や資産といった概念もありません。これらの概念が発生するのは、弥生時代のことになります。弥生時代には集落同士の争い、つまり富を巡った戦争が始まり、戦いを繰り返して最も権力のある集落の首長がトップに君臨します。
少年漫画で言えば、さしずめ「○○武術会」的なトーナメントが、ノールール全国規模で繰り広げられたというわけです。勝った奴がリーダー
現在、日本各地に浸透している神道(しゃれじゃないっ)の概念を形づくるのが記紀神話ですが、神話とはそもそも、このような集落同士の争いと勝利を、主に勝者の側が神になぞらえて伝承したもの。それが行われた激動の時代は、おそらく弥生時代ということになるのでしょう。
縄文時代は、人類にとって最も大きな敵は同じ人類ではなく、天候や動物といった大自然でした。弥生時代には大自然を制したものが神となりますが、縄文時代はまだそれには早いようです。神道への発展の時代を待ちつつ、縄文時代の解説を終えたいと思います。
Writing:陰陽師の末裔/占い師・パワーストーンアドバイザー
あん茉莉安(ホームページ)