神社について様々な情報を見ていると、社格というものがあることに気付くかもしれません。想像するだに神社の格のことかな? と思うものですが、一体どのように決められているものなのでしょうか。
今回は占い師の筆者が、神社の「社格」について、その歴史やランキングを解説します。
目次
神社の「社格」とは何のこと?
まずはそもそも、社格とは何かを把握しましょう!
社格は神社に関わる制度の中でも、非常に古いものの1つです。読み方から確認していきますね。
「社格」と「一宮」の読み方
「社格」は「しゃかく」と読みます。そのままですが、そのままで大丈夫。
一方、社格のことを把握しようとすると必ず出てくるのが「一宮」という言葉です。「一之宮」と書かれていることもあります。
「一宮」「一之宮」は、どちらも「いちのみや」と呼びます。
それでは、社格、一宮がそれぞれ何なのかを説明します!
「社格」とは?
社格とは、言わば、神社の肩書きです。会社で言えば、CEOとか、部長といったところでしょうか。
気をつけたいことは、社格というものは現行の制度ではない、ということです。
社格の歴史については後述しますが、過去には国家によって決められた正式な格式制度であったものの、戦後のGHQによる政策により、制度としては廃止されました。
したがって、現在、神社の縁起などが書かれた立て看板には「旧○○」という記載がなされているはずです。
社格には時代ごとの変遷があります。
古代、中世、近代の3ブロックに分けられていますので、これに基づいて社格の歴史を説明していきましょう。
社格の歴史①古代における社格…「式内社」とは何か?延喜式との関わりも
社格のことを見る時、最も意識に引っかかること多いのが、「式内社」というワードであるようです。
式内社ってなに?
なんか社格なんだよねえ?
じゃあ、式内社の他にはどんな社格があるの?
と、思うところですが、「式内社」というのは厳密に言うと、社格ではありません。(もちろん社格として認識する向きもありますが。)
ややこしいので、歴史とあわせて1つずつ解説しましょう。
式内社=延喜式の中(内)に記載された神社のこと
式内社の別名を「式社(しきしゃ)」や、「官社(かんしゃ)」と言います。この由来は、そもそも927年(延長5年)醍醐天皇の時代に編纂された、『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)』にまで遡ります。
延喜式神名帳は、延喜式の中の9巻および10巻、計2巻分にあたるもの。
この2巻の書物に、当時の朝廷が「朝廷の管理下にある!」と認定した神社が全て掲載されています。つまり、これは神社の一覧表です。
当時から朝廷に認識されていた神社ということで、一定の歴史や霊験を誇るのが式内社というわけです。
社格制度がなくなった現代でも、「式内社」を名乗る神社は存在しています。これらの神社を「論社(ろんしゃ)」や「比定社(ひていしゃ)」と呼びます。
実際、延喜式があまりにも古いですので(1,000年以上前ですからね……)、延喜式に掲載された式内社と、現在存在する神社が同一かどうかということは、確実な証拠があまりなくわからないところもあるわけです。
それでも、ある程度の資料を揃えることができ、あるいは伝承の存在などによって、どうやらこれは式内社の後裔であろう……! と割と確実みがありそうな気がするところ(……)について、その歴史の深さを主張する意味で式内社を名乗っているというわけなのです。
ちなみに…式外社(しきげしゃ)もある!
延喜当時の朝廷に認定されていた神社が式内社ですが、延喜式に掲載されなかった神社もあり、これを式外社と呼びます。
延喜式に掲載してもらえたかどうかは、神社と、当時の朝廷との関係が密接に関わっていたようです。
こうした式外社には、朝廷の威光が届かなかったり、神社独自の勢力範囲があったりして、延喜式に掲載するに値しないと判断されてしまったわけですね。
式内社は式外社の1/10?
延喜式の作られた当時、神社は全国でおよそ30,000社あったと伝えられています。
このうち、式内社として延喜式に掲載された神社は2,861社。
つまり、式内社は式外社のおよそ1/10の数しかなく、「式外社もあった」というよりも「ほとんどが式外社であった」と言ったほうが適切なくらいの状況でした。
現代に至って、制度的に社格というものが廃止されたにも関わらず、平安時代に「式内社」であったことを主張する神社が存在し続けているのも、うなずけます。
式内社であったということは、それだけの価値があることだと言えるでしょう。
式内社は各社格で分けられる
「式内社」であることも一種の社格ですが、式内社の中にもいくつかの社格があります。
式内社の分類は以下のとおりです。
- 官幣大社
- 官幣小社
- 国幣大社
- 国幣小社
官幣社、国幣社の違いは?
この時代、宮中行事として行われていたことの1つが「祈年祭」です。これは2月に、五穀豊穣を祈る祀りごとであり、各神社の祝部(ほうりべ、と読む。禰宜の次に地位のある神官であった)が国営機関や自治体の機関に呼び出され、幣帛(神の依り代)を授かるということになっていました。
このとき、官(=中央政府の神祇官)から幣帛を受け取る神社が官幣社。
国司から幣帛を受け取る神社を、国幣社として、分類したのです。
官幣社と国幣社の主な分岐点は中央政府からの距離感です。直接、幣帛を受け取るということで、遠方であれば上京が困難であることは想像に難くなく、致し方ないところと言えますね。
ただし、距離が遠かったところで、大手の神社、重要性の高い神社は、官幣社に分類されています。
大社、小社の違いは?
官幣社と国幣社はさらにそれぞれが大社と小社とに分けられています。
この違いは結構単純で、神社が政府にとってどの程度重要であったのか、ということや、神社の規模、影響力などによって決められていました。
古代の社格分類に伴うそれぞれの数と位置
延喜式では各神社がそれぞれ、官幣社か国幣社、大社か小社のいずれかに分類されていましたので、どの社格の神社が何社あったかがはっきりと分かっています。
分類は以下の通りです。
- 官幣大社:198社(畿内が多いものの、畿外もあり)
- 国幣大社:155社(全て畿外)
- 官幣小社:375社(全て畿内)
- 国幣小社:2133社(全て畿外)
「名神大社」は大社の一種
官幣大社、国幣大社の中には「名神大社(みょうじんたいしゃ)」と呼ばれる大社があります。
これは、国家的大ピンチ! の時に、国家行事として平穏無事や事件の解決を祈願するお祭り「名神祭(みょうじんさい)」において祈りを捧げる、神様をお祭りしてある神社のことを指しているものです。
こんな時に国がアテにする神様ですから、霊験あらたか中の霊験あらたか間違いなし。
延喜式において名神大社に指名された神社には、出雲大社などがありますが、現在でも制度は廃されたにしろ、「社格は名神大社」としてその名声が残されています。
古代の社格分類と『六国史』
古代の社格には『延喜式』の他にもう1つ、『六国史』に依拠する分類方法が存在しています。
六国史に特別な神社として掲載されている神社を「国史見在社(こくしけんざいしゃ。別称を国史現在社、国史所載社とも)」と呼びますが、国史見在社のほとんどは式内社と一致します。
中には式内社になっていない神社があり、これらの神社にとっては六国史の記載は大いに自社の由緒を裏付けてくれるものとなったため、後世に注目されることが増えました。
社格の歴史②中世における社格
中世には、いくつかの社格の基準が登場しました。
大きく分類すると、以下の4種類です。
- 一宮、二宮、三宮
- 総社(惣社)
- 国司奉幣社
- 二十二社
それぞれが別の基準で定められた格式であるため、どれが上、どれが下ということはありません。
現代に至るまでよく使われるのが「一宮」の名称で、今でも「○○の国一宮」というフレーズを肩書きにしている神社も多く見られます。
それぞれの社格について解説します。
一宮、二宮、三宮(いちのみや、にのみや、さんのみや)
律令制において国が定められていた時期、平安時代後期以降に、その国で最も格式高い神社が決められました。この神社を「一宮」と言います。
ですから、一宮は各国に1つずつ存在していました。
格式も高く、当然霊験もあらたかで、影響力も大きかった神社が一宮です。
次いで、二番目が二宮、三番手が三宮となりますが、二宮、三宮については存在していた国と、そうでない国とがあるようです。
国司は、その国に赴任した時に一宮へ参拝するのが習わしでしたが、神社の趨勢が衰えた時には別の勢いのある神社が一宮となることもありました。
総社(惣社/そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)
国司が着任したら、最初に国内の神社を巡回して参拝するという仕事がありましたが、国内を巡回して神社に参拝するというのは、かなり大変な仕事です。
そこで、様々な神社の神様を合祀した総合神社を、国府からほど近いところに建てて、そこに参拝すればいっぺんで解決おしまい! と考えました。
この合祀神社が総社、別名を総社宮、総神社、総社神社とも呼びます。
国司奉幣社
国司が奉幣する、つまり、参拝する神社のリストが、全てではないにしろいくらか現存しています。このリストを国内神名帳と呼び、リストに掲載された神社を、国司奉幣社と言います。
しかし現存するリストが少ないことから、国司奉幣社についてはあまり正確なことがわかっていません。
二十二社(明神二十二社)
二十二社制が成立したのが永保元年(1081年)であると言われています。国家の有事にあたって、朝廷が奉幣し祈願を行った22の神社のことを指すものです。
これらの神社は、国家鎮護の霊験あらたかな神社でなくてはなりませんが、いざという時には朝廷から参拝を受けるということで、位置は京都に近い畿内にほぼ限られました。
社格の歴史③近代における社格
近代には近代社格制度が作られました。
これは延喜式に掲載された古代の社格制度を参考に、新たに明治維新後の政府が作成した近代の社格です。
近代社格の分類は主に、以下のとおりです。
- 神宮
- 官社
- 諸社(民社)
- 無格社
このうち、最上位の「神宮」は伊勢神宮のことで、実際には「神宮は社格ではない」とされています。
尊すぎて、社格とはもう別格! という認識です。
官社
国の官職である神祇官によって祀られる「官幣社」と、地方のトップ(今で言う知事)によって祀られる「国幣社」とに別れます。
これらがさらに、大中小の3種に分けられるため、官社は合計6の分類をされていました。
大社、中社、小社の順で格が下がるということにはなりますが、官幣社と国幣社とではどちらが格上という明確なランク付けがありません。
これらの他に「別格官幣社」と呼ばれるものがあります。
別格官幣社は、国家の犠牲となって亡くなった人物を神として祀る神社が該当します。待遇は官幣小社と同じで、例えば湊川神社(主祭神:楠木正成)などが別格官幣社に認定されました。
諸社(民社)
「府県社」「郷社」「村社」の3種類に分類されます。
府や県、郷、村といった、より小さな地方自治体から幣帛を受けている神社のことを指します。
無格社
上のいずれにも該当しない神社のこと。実際にはほとんどの神社がこれに該当します。
それぞれ社格ごとの神社の数
では、それぞれの社格に何社の神社が分類されていたのか、数を見てみましょう。
官国弊社
- 官幣大社 62 社
- 国幣大社 6 社
- 官幣中社 26 社
- 国幣中社 47 社
- 官幣小社 5 社
- 国幣小社 44 社
- 別格官幣社 28 社
民社
- 府社、県社、藩社 1,148 社
- 郷社 3,633 社
- 村社 44,934 社
無格社
- 599,997 社
近代社格制度はGHQによって廃止済!
終戦後、近代社格制度はGHQの方針で、昭和21年(1946年)に廃止となりました。
しかし近代社格制度において、上記のいずれかに列挙された経歴のある神社は、現在も「旧官幣大社」など「旧」の文字をつけて、由緒正しい神社であることをアピールしているのがよく見られます。
気になる!主な神社の社格は?
社格のランキングがわかってくると、身近なあの神社、有名なあの神社は、どの社格なのかな? と気になるのではないでしょうか。
有名な神社につきまして、いくつか社格をご紹介します。
それぞれの社格ランクについては既にご紹介しましたので、「よくわかんなくなっちゃった……」という場合は記事を遡って確認してみてください。
伊勢神宮の社格
- 式内社(大社)
- 二十二社(上七社)
伊勢神宮は古代の社格制度では、式内大社として扱われていました。
一方、近代の社格制度においては、「社格とかそういう問題じゃなく尊い」という理由で、社格を超越した存在、対象外であるとされています。いい意味で。
出雲大社の社格
- 式内社(名神大社)
- 出雲国一宮
- 旧官幣大社
こちらは、近代社格制度においても官幣大社とされています。
富士山本宮浅間大社(駿河国、浅間神社)の社格
- 式内社(名神大社)
- 駿河国一宮
- 旧官幣大社
富士山の浅間神社は非常に歴史が古く、垂仁天皇の時代(古墳時代!)には既に存在したと考えられています。
熱田神宮の社格
- 式内社(名神大)
- 尾張国三宮
- 旧官幣大社
ここにきて、熱田神宮が「三宮」であったことに驚く人もいるかもしれません。
実は、尾張国一宮は「真清田神社(ますみだじんじゃ)」で、愛知県の一宮市に存在しています。
真清田神社の旧社格(近代社格)は国幣中社であり、熱田神宮は官幣大社であることから、中世から近代に至る中でランクの上下が起こったことがわかりますね。
太宰府天満宮の社格
- 旧官幣中社
近代社格制度において、「国家のために亡くなった霊を神として祀った神社」は本来「別格官幣社」という社格になる……ということを既にお話しました。
これは本来の神の序列である天皇家に対して、国家鎮護のために亡くなった霊は臣下であり、格下であると判断されたためです。
ただ、天満宮の神として祀られた菅原道真は、元はたしかに臣下ではあったものの、死して雷神と同一視され、天皇よりも格上の存在として認められるに至りました。
その結果「太宰府天満宮」と「北野天満宮」の2箇所は、近代社格制度のもとで別格官幣社ではなく、官幣中社として分類されています。
寒川神社の社格
- 式内社(名神大社)
- 相模国一宮
- 旧国幣中社
社格、特に中世における社格が間違われやすいのが、神奈川県(相模国)の神社です。
相模国一宮は現在ちょっと田舎のところにある寒川神社。
実は全国的な知名度はないものの、寒川神社は雄略天皇の時代(古墳時代!)には既に、国家からはるばる参拝されるほどの存在だったようです。創建時期は記録がなく不詳となっており、御祭神も「寒川比古命&寒川比女命」の2柱となっていますが神々についての記録がなく詳細がわかっていません。とにかく古く歴史があり、そして霊験もあらたかであるようです。
では、神奈川県で有名なあの神社は……? 次項目もあわせてご覧ください。
鶴岡八幡宮の社格
- 旧国幣中社
鎌倉幕府における活躍で全国的に比較的有名な、鶴岡八幡宮ですが、近代社格のみ。
一部、鶴岡八幡宮を「相模国一宮」とする向きもあるようですが、正式には寒川神社が一宮です。
『延喜式神名帳』の成立した頃(927年)は、実は、鶴岡八幡宮はまだ無かったんです……!(鶴岡八幡宮は1063年創建と伝えられる)
お寺にも社格(みたいなランク)はある?
長らく神社の社格について解説してきましたが、それでは、お寺にも神社で言うところの社格は……あるのでしょうか?
実は、お寺のランク付けは国家によって管理されていたものではないので、社格のような明確なものがありません。
しかし仏教界の中でも、大本山、総本山など、一応のランクのようなものは存在しています。とはいえ画一化していないので、ランクの上下は非常に分かりにくいでしょう。
日本は腐っても神道の国!
お寺のランクの状況を見ると、日本は腐っても神道の国なのだな……と思わされます。
思えば天皇は神の子孫。神話につながりのある首領が、国を治めているわけではないにしろ現存しているということは、世界的にも非常に珍しい、先進国では唯一と言って良い状況でしょう。
それも良し悪しの側面があるのかもしれませんが、いずれにしても日本が大切にしてきた文化の1つとして、社格というものを通して歴史の長さと深みを感じられればと思います。
Writer:陰陽の末裔/占い師・パワーストーンアドバイザー
あん茉莉安(ホームページ)