【七夕で願い事をする理由を簡単に子供に話せる?】七夕伝説の由来(起源)・歴史まで徹底解説!

スポンサードリンク

七夕には、願い事を書いた短冊を笹の葉につけてお願い事をします。

1年に1度、彦星と織姫が会えると言われている七夕は、日本の行事の中でも、ひと際ロマンチックな行事です。

では、「なんで七夕でお願い事をするの?」とお子さんに質問されたら、どう答えますか?

七夕には、由来となった伝説や、願い事をする事にもきちんとした理由があります。

今回は、実は詳しく知らなかった七夕の伝説や由来、歴史など色々な七夕の疑問にお答えします!

今年の七夕は、お子さんにきちんと七夕のお話をしてあげましょう!

七夕っていつ?

 七夕の日は7月7日です。

東京などでは、7月7日ですが、関西では1月おくれの8月7日に行うことが多いそうです。

それというのも、元々、七夕の行事は、太陰太陽暦(いわゆる旧暦)で行われていたため、現在の新暦と呼ばれる太陽暦とは違った日付なのです。

旧暦は、明治6年に新暦が採用される前に使われてきた暦なので、一般的に現在では使われていません。

【豆知識】ご存知ですか?「伝統的七夕」

七夕には、伝説でもあるように、星にちなんだ行事であるイメージが強く、いつもより夜空を見上げる機会が多いかもしれません。

しかしながら、現在の暦で七夕の日となる7月7日は、梅雨の最中であることが多く、なかなか星も見られないため、天体観測には向いていません。

また、実際に旧暦の7日は、上弦の月(半月)くらいと決まっているのですが、現在の7月7日では満月になる可能性が多く、月の明かりが邪魔で天の川は見づらくなってしまいます。

そこで、国立天文台は2001年に「伝統的七夕」の日を発表しました。

「伝統的七夕の日」では、旧暦の7月7日に近い日として、定義を設けました。

二十四節気の処暑(しょしょ)にあたる日を含む日か、それよりも前の日で処暑に最も近い新月の瞬間を含む日から数えて7日目が「伝統的七夕」の日です。

この日が「伝統的七夕」の日と定義された理由は、梅雨明けで晴天率は高く、月は夜半前に沈むので、月が沈んだ後の天の川は、くっきりと見えるためです。

また、国立天台は、多くの人が天の川を楽しめるようにするため、街の明かりを消して、星空に目を向けることを呼びかけています。

自分では、なかなか算出しずらい「伝統的七夕」の日ですが、国立天文台では、2030年まで発表しています。

今年は「伝統的七夕」の日に、夜空を見上げて見るのはいかがでしょうか?

国立天文台https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BCB7CDBC.html

七夕伝説はどんなお話?

ほとんどの方が知っている七夕伝説も、詳しく話ができる方は少ないのではないでしょうか?

まずは、ここで七夕伝説を確認しておきましょう。

★七夕伝説★

昔々、天の神様の娘で機織りの上手な織姫(おりひめ)と、働き者である牛使いの彦星(ひこぼし)が結婚しました。

ところが、2人は仲良く遊んでばかりで働かなくなります。

そのことに怒った天の神様は、2人を天の川の両岸に引き離すことにしました。

すると、今度は悲しみのあまり2人はまた働くなってしまったのです。

そこで、仕事に励むことを条件に、年に1度、天の川を渡って再会できることを約束したのです。

こうして2人は、年に1度七夕の日に、カササギにのって再会を楽しむようになりました

七夕と星座の関係

この季節の夜空に見られる、有名な星座と言えば、夏の大三角形です。

夏の大三角形と呼ばれる星座と天の川は、七夕伝説を表しています。

こと座(織女星:しょくじょせい)のベガという星が織姫

わし座(牽牛星:けんぎゅうせい)のアルタイルという星が彦星

白鳥座のデネブという星が2人を運ぶ、かささぎ(カチガラス、コウライガラス)

夏の大三角形は、ベガ、アルタイル、デネブを結び、織姫と彦星が1年に1度再会する様子を表しているのです。

比較的探しやすい星座なので、七夕の夜は親子で夜空を見上げてみましょう。

ちなみに、織姫星のベガは、太陽からの距離が25.3光年です。
また、彦星のアルタイルは、太陽系から16.7光年の位置にあります。

1光年が9兆4600億キロメートルなので、織姫と彦星は、気が遠くなりそうな離れた距離にいることが分かります。

【豆知識】雨の日はガッカリ七夕?

せっかく楽しみにしていた七夕も、雨だったらガッカリだと思います。

雨では、天の川が見えませんし、織姫と彦星も会えないのでは?と思われる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、日本では七夕の日に雨が降った方が良いとされています。

その理由は、天からの清らかな水が、この世の全ての罪穢れを流してくれるという考え方があるためです。

織姫と彦星も雨雲の上で会えているかもしれませんね。




なぜ「七夕(たなばた)」と呼ばれるのか?

 七夕(たなばた)」は、「棚機女(たなばため)」からついた名前

「七夕(たなばた)」と呼ばれる理由は、古くから日本にあった「棚機女(たなばため:はたを織る女性)」についての信仰が影響しています。

棚機津女(たなばたつめ)と呼ばれる女性は、水の神に捧げるための神聖な神御衣(かみこ:神様の着る服)を織ることを司る乙女です。

その乙女は、穢(けが)れを知らない処女で、俗界から身を隔離して、清浄な棚づくりの籠り屋に忌み籠って織るとされていました。

そして、この乙女を神女として神格化し、神の御心を慰めてもらうと同時に、送り神として穢れを持ち去ってもらい、また禊をおこなって厄災と厄霊を祓うという風習に発展したと言われています。

また、この棚機津女が機織りの上手な織姫と結びつき、日本ならではの七夕行事に発展したことから、「たなばた」と呼ぶようになったと考えられています。

「七夕」という漢字は、その日付からくる当て字にすぎず、本当の漢字は「棚機」であったとも言われています。

ちなみに、乙女が籠るとされる「棚」は、俗界と離れて清浄に籠るためのもので、土地に密着させないで、高い柱で支えた構造の懸作り(かけづくり)と呼ばれる手法で作られている場所です。

神棚や新霊(あらたま)をまつる盆棚(7月の魂祭に作る棚)には、これと同じ目的を持ちます。

七夕ってどんな行事?

 七夕は、願いを込めた短冊や飾りを笹の葉に吊るして飾ったり、「そうめん」を食べる行事

七夕は、「竹の節句」とも呼ばれています。

七夕と言えば、色とりどりの飾りがついた笹飾りです。

笹の葉がつく竹は、とても強い根を持ち、非常に早く成長することから生命力の象徴とされています。

また、葉は、殺菌力が強く、古くから魔除けとして利用されていた神聖な植物です。

さらに、空洞になっている中に神が宿るとされていて、ご先祖様が地上に降りてくるときの目印になると考えられてきました。

このように神聖な植物である竹に、人々は願いごとやお供えをするようになったのです。

七夕には、願い事を書いた短冊や飾りを笹の葉につるします。

実は、飾る時間も決まりがあり、古来では、「1日の始まりは日没である」という説から、七夕飾りは6日の夕方に飾る物とされています。

また、あまり知られていませんが、七夕には行事にちなんだ食べ物があります。

それは、「七夕素麺(そうめん)」と呼ばれる食べ物です。

中国から、遣唐使によって奈良時代に日本に伝わった唐菓子の1つに、索餅(さくべい)と呼ばれるお菓子があります。

この索餅は、素麺の元祖とも言われていて、 小麦粉と米粉を練り、縄のように細長くねじって揚げているもので、麦縄(むぎなわ)とも呼ばれています。

索餅は、七夕に食べると熱病にかからないと言われていました。

それから、索餅は時代を経て、現在の細い糸状の素麺の形になっていきます。

江戸時代には、細く長い麺を糸に見立てて、裁縫の上達を祈願したことから、七夕に素麺を供え、暑気払いに食べるという風習が広まりました。

全国に広がる七夕の風習

全国には、様々な七夕の風習が残されています。

一部をご紹介します。

七夕馬(たなばたうま):関東の一部・新潟・東北など

「七夕馬」は、藁(わら)や茅(かや)、イネ科の植物である真菰(まこも)で作った馬の人形です。

「七夕馬」が、一般的な呼び名ですが、「草刈馬(くさかりうま)」や、「茅」を使う農業が盛んな地域、主に東北では、「カヤカヤ馬」という愛称もあります。

祖先や、恵みを与えて下さる神様を指す、「七夕様」が乗る馬として七夕の行事に用いります。

なぜ「七夕様」が乗る馬を作るのかというと、「七夕」は、旧暦だと先祖の帰ってくる「お盆」の時期と重なるため、帰ってくるご祖先や、天の神様を迎えるための乗り物として作られたのです。

その「お盆」の習慣が、七夕の行事の1つとして取り入れられたのですが、現在では、屋根に藁や茅を使う家も少なくなった為、この習慣は失われつつあります。

この馬の使い方も地域によって様々です。

七夕馬を、草刈りの時に連れていき、草を食べさせたり、屋根や戸口に置いたりする地域や、馬だけではなく、牛の形も作り、七夕の竹に通した横木の両方の端に乗せておく風習もあります。

また、農業が盛んな地区では、作った馬を、七夕飾りの側に置いて、御供え物をするところもあるそうです。

七夕流し(たなばたながし):長崎県・岐阜県・長野県・新潟県の一部など

お盆の燈籠(とうろう)流しに似た行事で、精霊船(しょうろうぶね)に似た藁船や人形を流したり、松明を焚いたりして七夕様を送ります。

これは、七夕様を農業の神様とする信仰から生まれた風習だとされています。

また、七夕の晩に飾っていた七夕飾りを下ろして、川や海に流すことを「七夕送り」といい、神様に穢れを持ち去ってもらう行事でした。

水浴:近畿地方の一部

子供が海に入ったり、飼牛を泳がせたりする行事です。

水の神にまつわる禊の風習として考えられています。

七夕に水に関わる行事が多いのはなぜ?

七夕は、水に関わる行事を催する地域が多い事でも知られています。

その理由は、七夕がお盆の行事の一部と習合しているからです。

お盆を迎える前に川で禊(みそぎ)をして、心身を祓い清めるという意味があったのだと言われています。

つまり、七夕は、お盆行事の準備を始めるという側面があったと考えられます。

【豆知識】七夕と髪洗いの関係

水に関わる行事の1つとして、現在では失われてしまった七夕行事に、「七夕の髪洗い」、「七夕洗い」があります。

「七夕の髪洗い」は、七夕の日に合わせて、女性が川で髪を洗う行事です。

平安時代に書かれた日本文学史上最古の長編物語である『うつほ物語』にもその様子が書かれています。

現代では、川で髪を洗うのはなかなか難しいかもしれませんが、普通の洗髪でも七夕の日に髪を洗うと髪が美しくなると言い伝えられています。

この言い伝えは、七夕の呼び方の由来ともなった「棚機津女(たなばたつめ)」の伝説が元になっています。

水の神に捧げるための神聖な織物を織る乙女の綺麗な髪が目に浮かびます。

七夕の日にいつもより丁寧に髪の毛を洗うのはいかがでしょうか?

知ってますか?「七夕の里」

福岡県小郡市は、「七夕の里」と呼ばれています。

その名が付いたのは、「七夕の里」と呼ばれるにふさわしい要因がいくつか確認できるからです。

まず、日本で最も早く七夕行事が始まったからだと言われていることが挙げられます。

福岡県小郡市の大崎は、古くから国内外の流通の拠点として栄えていた港です。

中国との外交も例外ではなく、日本の玄関口としての役割があったことから、七夕が日本でもっとも早い時期に、この地方に伝わり、根づいていったことが想像されます。

そして、このような風習が伝わるだけではなく、根いたのは、受け入れるための文化がこの地にあったからです。

『延喜式(えんぎしき)』という、平安時代中期の決まり事を記した書物に、各地から朝廷に差し出される献上品の一覧表が残っています。

その書物によると、小郡や小郡を含む筑後の国の献上品は、「米と織物」と書かれています。

この地区では、織物業が盛んだったのです。

そのため、織物産業に携わっていた人々は、七夕の由来ともなった、古来から伝わる「棚機津女(たなばたつめ)」の伝説を信じ、機織りの女神として信仰をしていました。

この織物産業に携わっていた人々が、七夕伝説の担い手となったことも考えられ、日本で最も早く七夕行事が始まったという要因の1つだとも言えます。

次に、挙げられるのが、この地形が、中国で七夕伝説発祥の地とされる「漢水(かんすい)」周辺の地形に似ていることです。

中国では、七夕伝説に登場する「天の川」を、中国の大地に流れる「漢水(かんすい)」という川になぞらえています。

その理由は、「漢水」が「天の川」と同じように、北から南に流れ、その水源が天の川に達していると考えられているためです。

また、中国には「天の川が地上に流れると漢水になり、逆に、漢水をさかのぼれば天の川に登れる」という言い伝えもあります。

小郡に流れる宝満川(ほうまんがわ)は、漢水に比べると大変小さな川ではありますが、北から南に流れる川であり、地理的な位相や、歴史的な役割で考えると似たようなか性質を持つ川です。

そのことから、「七夕の里」と呼ぶ一要素としての理由を担っています。

さらに、この地区には七夕神社(たなばたじんじゃ)や牽牛社(けんぎゅうしゃ)といった七夕に縁のある神社があります。

奈良時代初期に書かれた『肥前風土記(ひぜんのくにふどき)』には、小郡の大崎に七夕の神様が祀られるようになった経緯と、その昔話が載っています。

「その昔、郷の中にある川に、荒ぶる神がいました。

そのため、多くの人が殺害され、被害が多発したのです。

そこで、この神がなぜ祟る(たたる)のかを占ってみると、「筑前の宗像(むなかた)郡に住む、珂是古(かぜこ)にわが社を祭らせなさい。もし、この願いが叶えられば、祟りはしないない」というお告げがありました。

そこで、珂是古は幡を捧げて、「私に祀ってほしいなら、この幡よ、神の辺りに落ちよ」と祈祷して、幡を飛ばします。

すると、御原の郡(みはらぐん:現在の福岡県にあった郡)にある、姫社の杜(七夕神社)に落ち、さらに還り飛んで、山道の辺りに落ちました。

この山道の辺りが、姫古曽神社(ひめこそじんじゃ)の建立のきっかけになったとも言われています。

また、ちょうどその夜、珂是古の夢に、機織り道具が回りながら出てきたことから、そこで祟る神様が、女神様で有ることが分かり、神社を建てて祀った」と書かれています。

現在、七夕神社(題額は棚機神社)には、日本出てくる女神の1人で織姫だとも考えられている、織姫栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)、織姫の長男とされる、天火明命(あめのほあかりのみこと)、織姫の父とされる、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、道の神様とされる、宗像神 (むなかたのかみ) が祭神として祀られています。

そして、「七夕神社」と宝満川を挟んだ対岸に「牽牛社」が建立されています。

織姫をお祀りする七夕神社と、七夕伝説を繋ぐ故事にちなんで建立されたと思われており、一説には1200年〜1300年頃の鎌倉時代の建立という話もあります。

しかし、この「牽牛社」は、水害と周辺整備のために、大正12年に別地区にある、老松宮(おいまつぐう)に移され、合祀(ごうし)されました。

この老松宮からは、「織女神」と「犬飼神」の木像が発見されています。

高さ41センチ、横幅24.5センチの青い中国風の服を着て、牛を連れている人物像です。

「犬飼神」には、神と牛が立体的に彫られています。

牽牛星(けんぎゅうせい)とも呼ばれる彦星と重なる部分があります。

しかし、牛を連れているのになぜ「犬飼神」なのか?と思いますが、1000年以上前の社会では、動物を飼う職業が分業でした。

犬は、狩猟用の家畜として飼われていたことから、牛や馬などの家畜と繋がりがあると推測できます。

このように、福岡県小郡市の地区では、神社や御神体を、昔から「七夕さん」「犬飼(いんかい)さん」と、親しみを込めて呼んでいます。

ちなみに、この辺りでは、七夕飾りを単に飾るだけではない七夕の風習が残されています。

  • 野菜や果物、饅頭等などを供えて、芋や蓮の葉の露をとり、この露で墨をすって、短冊に願い事を書いたり、七夕に縁のある歌や言葉を書いて笹に飾る。
  • 小学校に入学した子供のいる家で、「初七夕」と称してお祝いをし、果物や饅頭などを親戚や近隣に配る。また、「初七夕」は、親戚から西瓜が贈られたり、近親者からお祝いがきたりする。
  • 果物や野菜と一緒に、床の間に天の川等の字を書いた掛け軸を飾る。
  • 8月7日早朝に、若い人数人が宝満川で、「たご」と呼ばれる桶に、お汐井(しおい)と呼ぶ水をくみに行き、そのお汐井の水を、朝から夕方まで獅子舞をしながら、七夕神社の近所を1戸1戸周りながら撒く。

また、すでに失われてしまった七夕の風習もあります。

  • 紙製の人形や折り紙などを笹につけ、茅や草花と一緒に立てる。
  • 女性は髪が美しく、黒くなるようにと、七夕の朝に早く起きて川に髪を洗いに行く。
  • 女の子は、「手が上がる」と言われていて、裁縫や習字の練習を一生懸命した。
  • 七夕が終わった翌日に、七夕笹は屋敷内の梨や柿などの果樹にくくりつけていた。

これだけ多くの風習があったのですから、故事や地理を問わず、「七夕の里」と呼ぶのにふさわしい地区だと言えるでしょう。

各地の独特な七夕行事

今では、夏のお祭りの筆頭となっている、あのお祭りも、実は七夕に関係するお祭りです。

各地に残る、独特な七夕行事を見てみましょう。

ねぶた祭:青森県青森市

その名は、夏の睡魔を祓う「眠流し(なぶながし)」からきていて、七夕の燈籠流しの燈籠が人形や扇ねぶたになったと考えられています。

弘前ねぷたも同じように七夕に由来するそうです。

竿灯祭り(かんとうまつり):秋田県秋田市

元は、願い事を書いた短冊を笹竹に吊るして、街を練り歩いたのち、それを川に流す行事でした。

やがて、長い竿を十文字にして灯火をつける現在の形になりました。

柱松神事(はしらまつしんじ):長野県長野市

7月7日(現在は8月15日)、木や竹で出来た3本の柱を三神として、柱の上端につけた柴に火をつけて吉凶を占うというお祭りです。

同じ市内の戸隠神社(とがくしじんじゃ)の祭礼でもあります。

七夕人形:長野県松本市

紙製や木製の人形に着物を着せた「七夕人形」を、七夕の日に家の軒に吊るす行事です。

厄除けを祈願するものだと言われています。

七夕は節句の1つ

旧暦の7月7日は、七夕の節句です。

では、そもそも節句とは何なのでしょうか?

中国では、「季節の変わり目や奇数の重なる日は、邪気が多い」と考えられており、そんな季節の変わり目や奇数の重なる日に「邪気を祓うために行う行事」が、七夕の原型です。

邪気とは、人の身に病気やケガなど悪いことを起こすと信じられた悪い気のことを言います。

同じような行事で分かりやすいのは、「節分」かもしれません。

「節分」も季節の変わり目に、鬼を邪気に見立てて、豆をぶつけて追い払う行事です。

その季節の変わり目の邪気に加え、中国で奇数の重なる日は邪気が多いという考え方から、3月3日、5月5日のように、奇数の重なる月日を「節句」と呼びました。

「五節句」は1年に5回あります。

  • 1月7日  人日(じんじつ) 七種(ななくさ)の節供
  • 3月3日  上巳(じょうし) 桃の節供
  • 5月5日  端午(たんご)  菖蒲の節供
  • 7月7日  七夕(たなばた)
  • 9月9日  重陽(ちょうよう)菊の節句 

なぜ七夕でお願い事をするの?

 中国の「技芸が巧みになるように乞う祭り」である「乞巧奠(きっこうでん)」が由来になっているから

七夕は、奈良時代に中国から貴族社会に伝わった「乞巧奠(きっこうでん)」という行事が日本の文化と結びついたと言われています。

「乞巧奠」は、陰暦の7月7日の夜に牽牛星と織女星を祭る儀式です。

巧みな技を持つ織姫と彦星にあやかり、「技芸が巧みになるように乞う祭り」という意味もあります。

では、どのような事をする行事なのでしょうか?

「乞巧奠」は、7月7日の夕方に、お酒、料理、果物、瓜を供え、金、銀、真鍮(しんちゅう)の針を用意し、月に向かって5色の糸を針に通すという行事です。

そして、天の川に白や5色の光が見えれば願いが叶い、雲が瓜の上に網を張れば裁縫が上達するとも言われています。

日本では、755年(天平勝宝7年)に、宮中でこの「乞巧奠」が執り行われ、その後宮中行事として定着しました。

七夕の願い事の一例

7月は文月(ふづき)とも呼ばれています。

なぜ、「文月」になったかは、諸説ありますが、七夕には、サトイモの葉についた露で墨をすり書道をすると習字が上達すると言われていて、書道の上達を祈る行事でもありました。

また、この時期に行われていた、詩歌を献(けん)じたり、書物を夜風にあてる「文披月(ふみひらづき)」の風習が転じたことも、「文月」になった要因だと言われています。

このように、七夕は、書道の上達を祈る行事であったり、「文」に関係のある月であることから、

「文章が上手に書けますように」

「字が上手くなりますように」

といったお願い事をするのはいかがでしょうか?

七夕の願い事が叶う方法

皆さん、せっかく願い事をするのですから、是非とも叶えたいとお思いでしょう。

ここでは、七夕の願いが叶う方法をこっそりお教えします。

断言形で書く

通常、七夕の短冊には「~が叶いますように」と書くことが一般的です。

しかし、願い事を本気で叶えたいのであれば「~をする!」と断言形で書きましょう。

具体的な数字を書く

単に、「お金を貯める」と書くよりも、「お金を100万円貯める!」の方が、より具体的ですし、ゴールも明確になると思います。

曖昧な願い事をすると、願い事が叶っているのかが分かりづらいですし、ゴールが確認しづらいので、願い事を叶えようとする意欲も減ってしまいます。

期限を書く

期限がないお願い事は、意識も低くなってしまいます。

お願いごとには期限を書いて、自分自身にも期日を課すようにしましょう。

短冊の色を意識して願い事を書く

五色の短冊には、意味があると言われています。

願い事や七夕にちなんだ事を書く短冊は、本来5色とされ、青(緑)、赤、黄、白、黒(紫)を用います。

これは、中国に古くから伝わる陰陽五行説に基づいています。

五行説の考え方では、世の中は、木・火・土・金・水から構成されていて、この5つの要素が影響を及ぼし合い、循環しているとされています。

この木・火・土・金・水にそれぞれ、色を振り分けて、青(または、緑)は「木」、赤は「火」、黄は「土」、白は「金」、黒(または、紫)は「水」と表されているのです。

世の中を循環させる5色を使うことで、邪気を祓うという意味があります。

こいのぼりの吹き流しや薬玉に結ぶ糸もこの考えに基づいたものです。

七夕の短冊は、5色あるだけではなく、それぞれの色に相応しい願い事があるとされています。

願い事に沿った色の短冊に書きましょう。

  • 青色:人との接し方の願い事
  • 赤色:恋愛などの人間関係の願い事
  • 黄色:家族や親戚関係の願い事
  • 白色:学業の願い事
  • 黒色:仕事の願い事

ちなみに、嬉しいことに、5色の短冊を5枚1セットと考えて、願い事を書くと効果が高まるとも言われています。

5つも願い事が書けるのに、効果が高まるとは、なんとも嬉しい行事です。

今年の七夕は、5つのお願いを用意しましょう。




七夕の由来・起源

 七夕は、七夕伝説棚機津女の話、乞巧奠などが、日本の風習と合わさってできた行事

七夕の字は、「七」の日の「夕」と書きます。

これは7月7日の夜のこと指しています。

十五夜は、15日の夜で満月になることを意味していますが、一方で、7月7日は満月の手前の半月である「上弦の月」の頃です。

古くから、「上弦の月」の頃には、「あの世」と「この世」が半分ずつになる日で、両方の世界の境目が曖昧になると信じられてきました。

つまり、境目が曖昧である、上弦の月から十五夜までの期間は、ご先祖様達がこの世に存在する日とされていたのです。

このように、七夕の日は、本来、ご先祖様を供養する盆行事でした。

ちなみに、五節句の1つである、1月7日の「尽日(じんじつ)の節句」は、同じように上弦の月の頃にあたります。

この日も、七夕と同じように先祖供養をする日にあたります。

当初、盆行事であった七夕が、なぜ現在のような行事となったのでしょうか?

日本の七夕は、古くから伝わる「七夕伝説」や、「棚機津女」の話、中国のお祭りである「乞巧奠(きっこうでん)」が合わさり出来上がった行事だとされています。

七夕の由来となった、中国のお祭り「乞巧奠(きっこうでん)」は、女性の技芸(織物、書、笛など)の上達を祈るお祭りでした。

このお祭りには、技芸の上達を願って梶(かじ:神道では古くから神聖な樹木とされ、祭具として使われてきました)の葉に歌を書くという習わしがあります。

この習わしが、短冊の起源とも言われいてます。

しかしながら、短冊を笹に吊るして楽しむことは、江戸時代以降に庶民に広まった習わしです。

短冊に願いを託す風習は、中国では見られない日本特有の文化だと言われています。

七夕が日本に入ってきた奈良時代当初は、七夕行事は、庶民の行事ではなく、宮中の貴族達の雅な行事でした。

また、宮中では、清涼殿の庭に机を4脚並べ、果物などを供えたり、ヒサギの葉を1枚用意して金銀の針を、ヒサギの葉にそれぞれ7本刺し、五色の糸をより合わせて針の穴を貫いたとされています。

また、一晩中、透明香を焚き続け、灯火を捧げて、天皇は庭の倚子で、牽牛(彦星)と織女(織姫)が出会うことを祈ったとされています。

なんともロマンチックですよね。

このように、牛(彦星)と織女(織姫)が出会うことを祈っていたのは、天皇のみならず、他の貴族たちも祈りを捧げていたようです。

また、『平家物語』によると、貴族達は、他にも、七夕をお盆の行事の1つと考え、川へ笹や先祖へのお供物、願いを書いた紙を流して体についたケガレを洗い流し願い事をしていたといいます。

このように、七夕伝説や棚機津女の話、乞巧奠などが、日本の風習と合わさって、現代に続く七夕の形になっていったのです。

織姫とは?

織姫(おりひめ)とは、こと座のベガの和名を指します。

織姫(のモデルとなったのは、中国の神話伝説の1つである、七夕の伝説『牛郎織女(ぎゅうろうしょくじょ)』に登場する女性の仙人だとされています。

この『牛郎織女』には、日本の七夕伝説に似ている内容が書かれています。

まず、登場する織女は、天上界の織物をするのが上手だったこと。

牽牛郎と出会い、愛し合いましたが、引き離されてしまうこと。

そして、年に1度、7月7日にだけ出会えるという点です。

織姫は、中国の『牛郎織女』のお話や、日本に古くから伝わる「七夕伝説」、「棚機津女」の伝説など、いくつかの話が合わさり、現在の織姫が出来上がったと考えられます。

【豆知識】織姫のモデルとなった『牛郎織女』のお話

『牛郎織女』の物語の中でも有名なのが、京劇などでも演じられる『天河配(てんかはい)』です。

天の川の東岸で暮らしていた織女は、天の女帝である王母娘娘(おうぼにゃんにゃん)の孫娘です。

織姫は、仙界の織物をするのが上手だったため、朝から晩まで「天衣」を織って仕事をしていました。

ある日、姉妹たちと共に、人間界の川に降り、水浴をしていました。

すると、人間界の青年である牽牛郎(けんぎゅうろう)が飼い牛(金牛星(きんぎゅうせい)の化身、おうし座)の助言から、川で水浴びをしていた天女の羽衣を盗みます。

一説では、織女を見たとたんに一目惚れをした牽牛郎が、彼女の羽衣を盗んで隠したとも言われています。

羽衣を失った織女は、天上界へ帰れなかったため、地上に残り、牽牛郎の求婚を受け入れ、妻となり、1人の男の子と1人の女の子を生み、幸福な生活を送っていました。

しかし、以前から人と神の恋情を禁じていた王母娘娘は、このことを知り激怒します。

そして、王母娘娘は、天にある軍隊を遣わして、織女を捕らえて天に連れ帰ります。

牽牛郎は、天に昇るあてもなく困り果てていると、飼い牛が、「私の死後、私の皮で靴を作りなさい。その靴を履けば天上界に上ることができるでしょう」と再び助言をします。

牽牛郎は、飼い牛が死んだ後、助言の通りに牛の皮で靴を作って履き、子供達と共に天上界に上って織女を探しました。

そのことを知った王母娘娘は、「牽牛郎を、自らの姪孫婿として認めない」と、容姿を隠した7人の天女の中で織女を見つけられたら会うことを許すという条件を出しました。

牽牛郎は、困り果てましたが、子供達は自分達の母親を見出し、織女と出会うことが出来ました。

しかしながら、王母娘娘の怒りは収まらず、織女が再び人間界に戻ることを反対し、部下に命じて織女を天牢に閉じ込めてしまいます。

織女を追った牽牛郎は、あと一歩で織女の所に辿り着きそうになりますが、王母娘娘が頭につけた金簪(きんのかんざし)を抜いて、ひと振りすると、2人の目の前の天の川が輝き、大波が起こります。

そして、2人は再び両岸に引き離されてしまいます。

その後、毎年、1年に1度、7月7日にだけカササギ(カチガラス、コウライガラス)が天の川に橋を架け、牽牛郎がその橋を渡って織女に会うことが許さることとなりました。

織姫と豊受大神の関係

豊受大神(とようけのおおかみ)は、伊勢神宮外宮に奉祀されて神様です。

名前にある「うけ」とは、食物のことで、食物や穀物を司る女神です。

伊勢神宮外宮に残されている『止由気宮儀式帳(とよけぐうぎしきちょう)』という社伝には、豊受大神が伊勢神宮にお祀りされるようになった由来が記されています。

そこには、「日本の第21代天皇である雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の夢枕に、日本の万物の神とされる天照大神(あまてらすのおおかみ)が現れて、「自分は、一人で食事の用意が出来ないので、丹波国(現在の山陰地方)の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌(みけ:神様に献上するお食事)の神である、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼びなさい」と言われたので、伊勢神宮の外宮に祀るようになった」とされています。

この由気太神(とゆけおおかみ)が、現在お祀りされている豊受の大神(とようけのおおかみ)のことです。

ここまで読むと、織姫とは全く接点の内容ですが、豊受大神の出身地とも言える、丹波の国の風土記を記した『丹後国風土記(たんごのくにふどき)』には、奈具神社(なぐじんじゃ)の縁起としてこのような事が書かれています。

「丹波郡比治里にそびえる、比治山頂にある真奈井では、天女8人が水浴をしていたが、そのうち1人が、老夫婦に羽衣を隠されてしまったため、天に帰れなくなった。

しばらくその老夫婦の家に住み、万病に効く酒を造って、老夫婦を豊かにしましたが、10年余りたつと家を追い出されてしまい、さまよったあげく、奈具村に着き、そこに鎮まることにしました。」

この天女こそ、豊受大神であるというお話です。

つまり、元々は天女だった豊受の大神ですが、羽衣を隠されたために、天上界に帰ることができなくなり、丹後に鎮まっているところを、天照大御神から食事の用意をしてくれと頼まれたのが豊受大神ということになり、この羽衣を隠された天女が七夕伝説の織姫に通じるのではないかということになります。

七夕伝説の織姫は、織物が上手でありますが、お料理上手かどうかは出てきません。

しかしながら、織姫には、裁縫の上達を願うともされているので、家事全般が得意だったのかもしれません。

かぐや姫と織姫って同一人物?

もう1人、織姫と同一人物ではないか?と考えられている人がいます。

それは、人ではないかもしれない「かぐや姫」です。

7月7日は、七夕であると同時に、「竹・タケノコの日」でもあるそうです。

1986年(昭和61年)に、全日本竹産業連合会が定めたものですが、その理由がなんとも朗らかです。

農産物関係者の会議の席で、「かぐや姫はいつ生まれたのだろう?」という話になった時、出席者の中で「7月7日じゃないだろうか」と発言した人がいたそうです。そのことが発端はなり、「竹・タケノコの日」は7月7日に制定されました。

竹から生まれた、かぐや姫は、おじいさんとおばあさんに育てられ、美しく成長すると、多くの貴族から求婚されたにもかかわらず、最後は天に帰ってしまいます。

一方で、織姫は、こと座のベガという星だとされている天女です。

この2つのお話を結び付けるような古い説話に羽衣伝説(牛郎織女)があります。

では、ここで織姫のモデルとなったと言われている『牛郎織女』のお話を見て見ましょう。

中国の古い説話である『牛郎織女』の物語の中で有名なのが、京劇などでも演じられる『天河配(てんかはい)』です。

【天の川の東岸で暮らしていた織女は、天の女帝である王母娘娘(おうぼにゃんにゃん)の孫娘です。

織姫は、仙界の織物をするのが上手だったため、朝から晩まで「天衣」を織って仕事をしていました。

ある日、姉妹たちと共に、人間界の川に降り、水浴をしていました。

すると、人間界の青年である牽牛郎(けんぎゅうろう)が飼い牛(金牛星(きんぎゅうせい)の化身、おうし座)の助言から、川で水浴びをしていた天女の羽衣を盗みます。

一説では、織女を見たとたんに一目惚れをした牽牛郎が、彼女の羽衣を盗んで隠したとも言われています。

羽衣を失った織女は、天上界へ帰れなかったため、地上に残り、牽牛郎の求婚を受け入れ、妻となり、1人の男の子と1人の女の子を生み、幸福な生活を送っていました。

しかし、以前から人と神の恋情を禁じていた王母娘娘は、このことを知り激怒します。

そして、王母娘娘は、天にある軍隊を遣わして、織女を捕らえて天に連れ帰ります。

牽牛郎は、天に昇るあてもなく困り果てていると、飼い牛が、「私の死後、私の皮で靴を作りなさい。その靴を履けば天上界に上ることができるでしょう」と再び助言をします。

牽牛郎は、飼い牛が死んだ後、助言の通りに牛の皮で靴を作って履き、子供達と共に天上界に上って織女を探しました。

そのことを知った王母娘娘は、「牽牛郎を、自らの姪孫婿として認めない」と、容姿を隠した7人の天女の中で織女を見つけられたら会うことを許すという条件を出しました。

牽牛郎は、困り果てましたが、子供達は自分達の母親を見出し、織女と出会うことが出来ました。

しかしながら、王母娘娘の怒りは収まらず、織女が再び人間界に戻ることを反対し、部下に命じて織女を天牢に閉じ込めてしまいます。

織女を追った牽牛郎は、あと一歩で織女の所に辿り着きそうになりますが、王母娘娘が頭につけた金簪(きんのかんざし)を抜いて、ひと振りすると、2人の目の前の天の川が輝き、大波が起こります。

そして、2人は再び両岸に引き離されてしまいます。

その後、毎年、1年に1度、7月7日にだけカササギ(カチガラス、コウライガラス)が天の川に橋を架け、牽牛郎がその橋を渡って織女に会うことが許さることとなりました。】

このお話は、中国に伝わるものですが、日本にも似たようなお話が残っています。

8世頃書かれたとされる、『丹後国風土記』は現代の京都府北部の風土記を載せた本です。

ここに、載っている「羽衣伝説」は、このようなお話です。

【水浴びのために地上から人間界に降りてきた天女は、人間の男により羽衣を隠され、天に帰れなくなってしまいます。天女は仕方なく、その男と夫婦になりますが、やがて羽衣を取り返して天に帰ってしまいます。この天女は、後に豊受大神(とようけのおおかみ)という女神だともされています。】

このような、お話は、日本だけではなく、中国にもいくつか存在します。

中には、「羽衣を取ってしまったのは、老夫婦であり、天女はその養女になる」というお話や、「天女に去られた男は、後を追って昇天して、七夕の星(彦星)になる」という話もあります。

かぐや姫と織姫の共通点は、

・竹に関係している

・二人とも天女である

・星や月など、天体が関係している

ことでしょうか?そして、かぐや姫は、沢山の貴族たちから求婚されても素敵な恋に陥ることはありませんでした。天に帰ってからひょっとすると素敵なお相手を見つけたかもしれませんが、それは不明です。一方で、織姫は、彦星という最愛の相手がいながらも、1年に1度しか会うことが出来ません。また、2つを繋ぐ羽衣伝説では、天に帰れないため、仕方なく夫婦となるのです。どのお話の姫も、境遇はハッピーエンドとは言えないかもしれません。

このように、共通点の多い、かぐや姫と織姫のことを、同一視する考え方も中にはあるようです。

彦星とは?

彦星のモデルになったのは、上記に記載した『牛郎織女』のお話に出てくる牽牛郎です。

星の名前では牽牛星と呼ばれ、この星は牛飼い星、犬飼い星とも呼ばれています。

彦星という名は、わし座のアルタイルの和名を指します。

日本の七夕と中国の七夕の関係

先ほどからお話しているように、日本の七夕は中国の影響を大きく受けています。

しかしながら、現代の日本の「七夕」と中国の七夕にあたる「七夕節」は少し違います。

まず、日本の「七夕」は7月7日に行われますが、中国では、旧暦で行うため、8月7日近くを指します。

また、日本では笹の葉に願いごとを書いた短冊を結びつける行事ですが、中国ではそのようなことは行いません。

中国において「七夕節」は、古くからある節句行事ではあるものの、近年は廃れてしまっているようです。

しかしながら、ここ数年、新たな形での「七夕節」に注目が集まっています。

それは、西洋から入ってきたバレンタインデーに「七夕節」を重ねるイベントです。

昨今、中国で七夕節は、「七夕情人節」と呼ばれます。

これは、「七夕のバレンタインデー」を意味する言葉です。

もちろん、2月14日にも「情人節(バレンタインデー)」は行われますが、七夕もバレンタインデーとして同じように重要な日とされています。

「七夕のバレンタインデー」は、「男性から女性にプレゼントを贈る日」とされています。

この日に、男性は女性に花束などのプレゼントをします。

中国の七夕は、日本の七夕とは、かなり違った形で注目されているイベントのようです。




七夕の歴史

 中国の南北時代から始まり、日本に伝わったのは奈良時代当初は、お盆と合わさった行事だった

七夕の起源とされる中国で、七夕に関する最も古い資料は、漢の時代に、古くからの言い伝えに文人が手を加えて編集された、『古詩十九首(こしじゅうきゅうしゅ)』です。

ここには、織女と牽牛の伝説が記されていますが、7月7日という日付については明記されていません。

一方、『西京雑記(せいけいざっき)』という逸話集では、「乞巧奠(きこうでん)」についてのという記載があります。

こちらには、7月7日に女性が裁縫仕事の上達を願って7本の針に糸を通したことが明記されていますが、織女と牽牛については記載されていません。

その後、南北朝時代になると、年中行事を記した『荊楚歳時記(けいそさいじき)』の中に、織女と牽牛が登場する伝説と「乞巧奠」が関連づけて記載されています。

この『荊楚歳時記(けいそさいじき)』が、現在の七夕の形に一番近いものが記されていると言えるでしょう。

日本に七夕の風習が入ってきたのは、奈良時代です。

中国の行事や風習に、日本古来の伝説である「棚機津女(たなばたつめ)」の話も加わり「七夕」は生まれました。

宮中では、当初、お盆と合わさった行事でもあったため、竹を立て、山や海の幸を供えました。

奈良時代以降は、相撲御覧、七夕の詩賦(しふ:中国の韻文)、乞巧奠などが七夕行事として行われていました。

しかし、平城天皇が7月7日に崩御されると、826年(天長3年)に相撲御覧は別の日に移されます。

平安時代になると、七夕行事は正式な宮中の行事の1つとして行われるようになります。

宮中の人々は果物や野菜、海産物などを供えて星を眺めました。

その際には、香を焚いて、音楽を奏で、さらに詩歌も楽しみました。

サトイモの葉に溜まった夜露を「天の川のしずく」と考え、それで墨を溶かし、梶の葉に和歌を書いて、詩歌や習いごとの上達も願うことは、寺子屋の行事として始まりました。

七夕の行事が、現在のように庶民の行事として、笹飾りなどを行うようになったのは、江戸時代に入ってからです。

その頃の短冊には、「字が上手になりますように」「習い事が上達しますように」という願いが込められていることが多かったようです。

短冊は6日の夜に、笹竹につけて飾り、野菜や果物をお供えし、7日の晩に軒下より下ろして川や海に流しました。

この風習は、「七夕送り」と言って、神様に穢れなどを持ち去ってもらう行事です。

また、現代では、折り紙で作っている、ひし形つなぎやあみ飾りも、元々は布や飾り糸で作られていて、そのような飾りには、「裁縫(さいほう)が上手になりますように」という願いが込められていました。

初めからあった、ご先祖様への供養という考え方もこの頃はまだ残っていて、ちょうちんや野菜などの飾りは、神様への豊作祈願と同時に、ご先祖様へのお供え物でした。

民間では、七夕の日に行う、水に関する諸行事が残っています。

雨が多い時期だということから、藁人形を川に流したり、この日を「七日盆」と呼んで、藁などで作った馬や牛などを軒下に飾りました。

この馬や牛にはご先祖さまや田の神様が乗ってくると考えられていて、盆が終わると川へ送り流されました。

これらの行事は、祖先祭りの前段階として穢れを祓う禊(みそぎ)のための行事であったとも考えられています。

あまり知られていない!「七夕とお盆との意外な関係」

 七夕が全国に広まった背景は、お盆の1行事として考えられていたから

いくつものお話や風習が合わさり、出来あがった七夕ですが、日本に広まった背景には、旧暦の7月7日頃に行われていた民俗行事との習合があります。

その1つに考えられているのが、お盆です。

7日はお盆が始まる日とされていて、地域によっては笹竹を2本ないし4本立てて、祖霊を祀るための棚が作られました。

一説では、この笹竹に盆棚の幡が下げられたことが「たなばた」の語源とも言われています。

現在では、新暦の7月7日に七夕を行うのが一般的になってしまったため、かつての季節感とは違ってしまいましたが、笹竹を立てるという形で先祖供養の民族は今に伝えられています。

七夕は「ゆかたの日」

 7月7日は、「ゆかたの日

七夕である、7月7日は、実は「ゆかたの日」です。

日本ゆかた連合会が、昭和56年7月7日に「ゆかたの日」と制定しました。

日本の七夕の元となった、中国のお祭りである「乞巧奠」は、手芸や裁縫の上達を祈願すると共に、衣類に感謝する日でした。

また、もう1つ、七夕に登場する織姫の由来ともいえる、棚機津女(たなばたつめ)は、水の神に捧げるための神聖な衣を織る乙女です。

このような要因から、七夕である7月7日を「ゆかたの日」として制定しました。

ちなみに、織姫は、製糸業や絹織物産業では神様として祀られています。

その証に、全国各地に点在する絹織物や生糸の産地には、「織姫神社」や「棚機(たなばた)神社」、「倭文(しどり)神社」があります。

この「ゆかたの日」には、日本伝統の衣類である「ゆかた」が世代や男女を問わず、多くの方に着てもらいたいという願いが込められています。

夏の風物詩として、目を惹く「ゆかた」を着た方がお祭りに来ていると雰囲気も盛り上がります。

七夕は「ゆかたの日」だからと、浴衣に挑戦してみるのはいかがでしょうか?

七夕祭りに出掛けよう!全国のお祭り一覧

「七夕祭り」の中でも、「日本三大七夕祭り」と呼ばれているのが以下の3つです。

宮城県仙台市 「仙台七夕まつり」

毎年、8月6日〜8日の3日間、開催される「仙台七夕まつり」は大変知名度の高い七夕祭りです。

現在、国内の大きな七夕祭りの原型とも言われているお祭りで、歴史も古く、江戸時代の頃から行われていました。

しかし、当初は現在ほど盛大ではなく、現在のようになったのは1928年(昭和3年)からです。

「仙台七夕まつり」の見所は、和紙や竹をふんだんに使った豪華な「くす玉」と呼ばれる七夕飾りです。

大きな七夕飾りの下を歩くと、竹と和紙がこすれて奏でる音を聞きくことが出来ます。

神奈川県平塚市「 湘南ひらつか七夕まつり」

関東で有名なのは、神奈川県の平塚市で開催される、「湘南ひらつか七夕まつり」です。

毎年、7月7日を挟む前後数日間に開催されるお祭りで、1951年(昭和26年)から行われています。

平塚市は、戦争中に大空襲(1945年7月)に見舞われ、市内の70%の場所が焼け野原になってしまいました。

その後、戦後復興事業の1つとして、第1回目の湘南ひらつか七夕まつりが行われることになったのです。

市内を約2キロにわたって賑わうぎわうお祭りで、装飾やイベントも毎年違う楽しみもあり、期間中に300万人もの人が集まるお祭りです。

愛知県安城市「安城七夕まつり」

愛知県の安城市で行われる「安城七夕まつり」は、毎年、8月の第1週の週末に3日間開催されます。

安城市が誕生した2年後の1954年(昭和29年)に、JR安城駅周辺の商店街の方々が考案して始まったお祭りです。

「市民発信のまつり」として有名で、特徴ある竹飾りも美しい、温かみのあるお祭りです。




世界の国々でも七夕ってあるの?

世界でも「七夕」のような行事は行われています。

台湾

台湾では、7月7日は織姫(七娘媽)の誕生日とされています。

七娘媽は子供の守護神であり、特に、幼児の守護神である「床母」を祀る風習が残っています。

また、一部の地方では、成人式をこの日に行います。

中国と同様に、近年では、バレンタインデーとして男女がプレゼントを交換する日になっています。

大韓民国

大韓民国では、七夕を「7月七夕」と呼び、この日に彦星と織姫が1年ぶりに出会って、嬉し涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられています。

七夕当日の晩に雨が降れば、彦星と織姫が流す嬉し涙だとされ、2日間、夜に雨が続けば、2人が別れを惜しむ涙だと言われています。

その日は、伝統的に各家庭で小麦粉で作った煎餅と季節の果物を供えて、女性らは、高台の上に水を供え、家族の長寿と平安を祈願します。

また、少女らは牽牛星と織女星を見上げ、針仕事が上手くなるように願い、少年らは学問に秀でるために夜空に星を描いて祈ります。

ちなみに、針仕事の上達を願うため、高台に供えた水の上に、灰を平らな盆にのせて、翌日そこに何かが通り過ぎた跡があれば、霊感が宿り、針仕事が上手くなると信じられています。

ブラジル

ブラジルでは、日系の人を中心として日にちに拘らず七夕が行われます。

仙台市の協力で、現地の宮城県人会を中心として1979年から始まった「サンパウロ仙台七夕祭り」は、7月の週末にサンパウロ市にて開催されています。

南半球であることから、夏ではなく、冬の風物詩として七夕は定着しています。

アメリカ

こちらも、仙台市の協力の元で、現地の宮城県人会を中心として、2009年から始まりました。

「ロサンゼルス七夕祭り」の時期は、8月中旬頃で、ロサンゼルスのリトルトーキョーにおいて、「2世週日本祭(二世ウイーク)」に合わせ、開催されています。

中国の七夕

日本の七夕のきっかけともなった中国の七夕も、地区によっては若干習わしが違うようです。

中華圏

昔の中国では、女性の自由がなかなか難しかったので、女性は牽牛(彦星)と織女(織姫)の伝説を信じて、織女に憧れを抱いていました。

そのため、毎年、織女の誕生日とされる7月7日が来るたびに、彼女たちは織女を祭って、細やかな心と器用な手先で、良縁が得られるようと祈りました。

このことが「乞巧(器用になることを願う)」という名称の由来であるようです。

現在の中国の七夕は、「愛情節」と呼ばれ、バレンタインデーと同様のイベントです。

伝統習俗は廃れてしまい、ほとんど残っていません。

江南

江南の少女は、月明かりの下で刺繍をし、1本の刺繍針を椀の水面にそっと置いて、表面張力で針を浮かべます。

そして、1番複雑な波紋が出来た針が、1番良い刺繍が出来る針として、針に赤い糸を透し、器用になることを願います。

西南

西南では、七夕の風習として、爪を染めます。

また、若い娘はこの日に樹液で髪を洗い、若く美しくあることを願います。

そして、未婚女性は想い人と巡り会うことを願います。

膠東

膠東では、七夕に「七神姐」を拝みます。

少女達は、牡丹や蓮、梅や蘭や菊などの花の形をした「巧餅」という小麦のお菓子を作り、織女を祭ります。

広東

広東では、少女の手によって「拜七姐」が行われます。

この祭りには、男性や老女は参加できません。

6月から準備を開始しし、稲や麦、緑豆の粒を椀に浸して発芽させます。

また、七夕が近づくとハリボテの鵲橋や様々な手の込んだ手芸品を作ります。

七夕の夜には、果物や花、発芽させた穀物の芽、人形や紙細工など、さらに、女性が作った手芸品や彫刻した果物、化粧品、お菓子など様々な物を置いてお供えします。

女性たちは七夕の前に髪を洗って着飾り、ホウセンカで爪を染めます。

そして、針に糸を通して器用になることを願したり、織女の姉妹であるとされていた星(北斗七星)や2つの星を拝みます。

各家々では、乞巧卓を設けて、人々をもてなします。

深夜の0時に、織女が下界に降りてくるとされているため、全ての灯りに火を灯して、針に糸を通し、織女を出迎えます。

閩南

閩南では、織姫を「七娘媽」と呼んで、子供の守り神とします。

また、七夕の日に、ザクロとシクンシで煮た卵と肉、黒砂糖の入ったもち米を食べて、虫除けと病気除けとしました。

香港

香港では、現在も、少数ながら、家庭で昔の伝統的な風習を維持しています。

七姐誕(七夕)になると、紙紮店(しさつてん:祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜の七姐(織姫)を祭るのに使用します。

まとめ

七夕は、日本と中国の風習が合わさって出来上がった行事だということが分かりました。

また、当初は、技術や芸事の上達を祈願するお祭りだったことも意外でした。

年に1度夜空を見上げ、短冊にお願い事をするのも日本ならではの良い風習です。

それにしても、日本の七夕の由来でもある中国で、残念ながら、古来の風習は既に廃れていて、バレンタインデーになっているとは驚きです。

日本の七夕の風習が今後も残って行くように、今年の七夕は皆さんも是非行ってみて下さい!

Writing:YUKIKO-加藤

七夕の関連記事

スポンサードリンク -Sponsored Link-



当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。万が一、内容に誤りがございましたらお問い合わせにて承っております。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。