寺院の境内に神社が存在する理由と「昔は神社の境内にも寺院が存在した??」

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お寺の境内に神社があったり、反対に神社の境内にちょっとした仏像が祀られている、あるいは寺院があるというようなことを目撃したことはありませんか?

現代では「まれに見る」この状態、昔は当たり前のことだったのです。

今回は、寺院の境内の神社、その真相についてご紹介します。

「寺院の境内の神社」を始めたのは最澄

寺院の境内に神が祀られはじめた、その最初は最澄であると言われています。

最澄は、天台宗の開祖として平安時代に大活躍した僧侶です。

最澄が788年、一乗止観院と呼ばれた庵を結んだのが、比叡山延暦寺の始まりですが、そのとき既に比叡山には、日吉信仰(比叡山の自然神を崇拝する自然神信仰)が息づいていました。

そこで最澄は比叡山に寺院を建てる際、比叡の神を祀り、寺院の守護神として参拝しました。

これが、寺院の中の神社の、いわば「はしり」であると言われているのです。

最澄が神社を祀ったことで、その後神仏習合の動きはますます加速し、平安時代には寺院の中の神社、あるいは反対に、神社の中の寺院は、当たり前のように存在するようになりました。

「神宮寺」とは神社の中のお寺

地名や苗字などでよく知られている「神宮寺」。

これは、元々は「神社の中にあるお寺」という意味の言葉でした。

またこの時代には、そもそも神社の管理を行うためにわざわざ寺を置くということも行われており、この場合、寺院のほうは「別当寺」と呼ばれることもありました。

八幡宮はお寺だった!?

現在は有力な神社として知られる、石清水八幡宮や鶴岡八幡宮。

神仏分離、廃仏毀釈が行われる前までの正式名称は、「石清水八幡宮寺」「鶴岡八幡宮寺」と言いました。

その土地の有力な神社は、護国寺と結びついて協力しあい、地域を統治することに一役買っていたのです。

現在では祇園社として知られている、京都府の八坂神社も、古くは「祇園感神院」と呼ばれていました。つまり、ほとんど「寺院」がメインだったのです。

祇園社は今も牛頭天王をお祀りしていますが、牛頭天王は釈迦のゆかりの地、祇園精舎の守護を担う仏教の守護神。純粋な日本の神様というわけではありません。




神仏判然令によって神社と寺院に分離

このように、神社とお寺は強い結びつきを持ち、神社の境内にお寺があり、お寺の境内に神社がある、といった関係性を長い間維持してきました。

しかし、明治時代に政府によって、神道を国教化しようという動きが強まったことに伴い、「神仏判然令」(俗に言う神仏分離令)が出されたために、神社と寺院との分離が行われたのです。

最初、神仏判然令を出した明治政府には、仏教を虐げる意志はなかったと言われていますが、平田篤胤をはじめとする国学者の一部が、神仏習合の考え方に非常に難色を示していたため、国学の浸透度合いによっては、寺院部分が跡形もなく壊されるなどの被害が出ました。

例えば石上神宮と表裏一体の関係にあった内山永久寺などは、残るものもなく廃寺となっています。

分離できなかった寺社もある

これほどの廃仏毀釈にあっても、きちんと分離できなかった寺社もあります。

代表格が日光東照宮。日光東照宮は「宮」と付くとおり神社のひとつですが、敷地内に「二荒山神社」もお祀りされています。

一方、日光東照宮の一角、かなりの広範囲を占めるのが、日光山輪王寺です。東照宮の境内には薬師堂があり、完全なる神仏分離が不可能であったことを物語っているのです。

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