田の神とは?池袋にいる!?山の神との関係性や歴史、お供え物など…鹿児島のタノカンサーも解説!

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田の神は八百万の神様の一種として、様々な歴史や伝承を残してきました。

田の神の伝承は各地にありますが、田の神とは一体何者なのか? 歴史的にはいつから存在するもので、山の神との関係性はどうなってるの?

今回は田の神にスポットを当てて、そのお祭り、山の神との関係性、田の神の歴史などについて解説します。

目次

田の神とは?役割やご利益は何?

「田の神」とは、名前のとおり、田んぼの神様、田畑の神様を指します。

田の神は日本における豊穣神の一種です。つまり、祀ることによって田畑の収穫をより良いものとし、守ってくれる神様であると考えられてきました。

田の神を信仰してきたのは、主に日本の農民たちです。

日本における作物の中心は稲だったので、田の神の役割も、主には「稲作の守護」であり、後世にはその他の様々な作物の出来も左右する神様となりました。

田の神の別名、性格

田の神は、別名「作神」「農神」「百姓神」「野神」等と呼ばれることもあります。

いずれも、農耕の守護神であることを示す名称です。

また、田の神の性格として、ただ農作を守護するだけではなく、村そのもの、田そのものを守る守護神であったり、あるいは田畑に実りをもたらす「水」をつかさどる「水神」、穀物の精霊としての「穀霊神」という側面があります。

一方で、田の神が山の神の性格も持っていることが知られています。これについては後述しますので、あわせてご参照ください。

ちなみに全然知られていない田の神の性格として、ちょっとエッチな意味も……!? 詳しく知りたい方は、後ほど触れる「田の神は池袋にもいる?!「東京にもある!」田の神を祀った神社スポット」の項目に注目してくださいね。

田の神の歴史…田の神信仰はいつから?

日本の神話の中には、「○○○ヒメ」とか「○○○のミコト」などという名前の神様がたくさんいますが、「田の神」はそれらとは一線を画す、なんともアバウトな名称です。

しかし田の神については、日本全土で神話や歴史が残されています。そもそも田の神の歴史はどこから始まったのでしょう?

そして、長い歴史の中でどの様にして田の神と呼ばれるようになったのか解説していきます。

田の神の正体は女神?記紀神話の中の「田の神」

田の神のことは、実は記紀神話(『古事記』と『日本書紀』)の中にも記されています。

その時は「田の神」ではなく、別の固有の名称をもって語られていました。

「田の神」に該当する神は、記紀神話では

  • 「倉稲魂」(うかのみたま)=稲霊(いなだま)
  • 「豊受媛神」(とようけびめのかみ)
  • 「大歳神」(おおとしのかみ)=穀霊神

といった神々であると考えられます。

記紀神話の成立は8世紀ですが、その後10世紀になって『延喜式』が成立しました。

『延喜式』の中には、大殿祭(おおとのほがい)という、宮中で平安を祈って行われる祭礼に関する祝詞が残されています。

この祝詞の中に、

屋船豐宇氣姫命(やふねとようけひめのみことと) 是稲霊(こは いねのみたまにます)

俗の詞(よのことば)、宇賀能美多麻(うがのみたま)

とあります。つまり稲の魂、稲霊は、名前をトヨウケヒメ、俗世ではウガノミタマと呼ばれている旨が書かれているのです。

「ヒメノミコト」という名称は、豊穣神が女神であることを示しています。

これについては、古来、豊穣神を祀る祭礼は巫女が行ったため、この巫女と神がいつしか融合し、「農耕神=女神」であると考えられるようになったのではないかと言われています。

農耕神が民間で「田の神」と呼ばれるようになる

10世紀の時点では宮中祭祀として祀られている「ウガノミタマ」(あるいは、ウカノミタマと呼ばれることも多い)ですが、一方、民間(農民の間)でも、豊穣神を祀る風習は脈々と受け継がれていました。

民間においては、同神が「田の神」と呼称され、全国的に広まっていったと考えられます。

田の神には全国に様々な名称が残されています。例えば……

  • 東北地方→「農神」(のうがみ)
  • 甲信地方(山梨県・長野県)→「作神」(さくがみ)
  • 近畿地方→「作り神」
  • 但馬(兵庫県)・因幡(鳥取県)方面→「亥の神」(いのかみ)
  • 中国・四国地方→「サンバイ(様)」
  • 瀬戸内地方→「地神」

といったような呼称があることがわかっているのです。

これらの他に、さきほど紹介した「百姓神」「野神」といったような名称も様々な地で見ることができ、田の神が漠然とした農耕神の姿をもって、全国的に信仰を受けてきたことがよくわかります。

東日本と西日本で「田の神」の捉え方が違う

長い期間を信仰されてきた神ですので、田の神は他の様々な神々と同一視されてきた側面があります。

特に東日本と西日本で、捉え方に差があるのが面白いところです。

東日本では、田の神を「えびす様」と同じ神であるとし、西日本では「大黒さま」と同じ神であるとする地域が多いことがわかっています。

えびす様と大黒様は、それぞれ七福神の一人として数えられる別々の神様であるだけに、「えっ、どっちなの?」と思ってしまうポイント。

結論として言うと、大黒様は俵に乗っていたり、打ち出の小槌を持っていたりする姿が有名で、えびす様は釣り竿と鯛を持っている姿が有名ですので、農業神として性格が近いのは「大黒様」つまり「西日本の考え方のほうが正解に近い」と言えそうです。

えびす様はその姿からもわかるように、漁業の神様としての性格が強く、田の神と習合するようになったいきさつには深い理由がありそうです(後述)。

これらの他に、元々その土地をおさめていたと言われる土地神(地神)、全国に数多く存在している稲荷神社の神様である稲荷神を「田の神である」と考える地方もあります。

ただし、話が戻るようですが「稲荷神社」にお祀りされている「稲荷神」という神様は、そもそも「ウガノミタマ」であると考えられるため、これは一周回って「田の神=ウガノミタマ」を決定づけているとも言えるでしょう。

田の神の性格はあくまでも「農業神」であり、「漁業神」や「福徳神」ではないことが、理解のポイントの1つです。

関東でえびす様と同一視された理由については、漁業を収穫と考えるのではなく、えびす様が「幸運をもたらす神」であったことから、田畑からの収穫が上がる=幸運=えびす、という繋がりで同一視されたものと考えるのが妥当です。

えびすが釣り竿や鯛を持っているのは、えびすが海からやってきた神であったため。そして古来、日本には、海の向こうにある「常世(とこよ)」から幸運が流れ着くと考えられてきました。したがって、えびすは幸運をもたらす神として、田の神と習合していったと考えることができます。

「田の神祭り」はいつ、どこで行われている?

田の神が全国で祀られている中でも、ひときわ有名な「田の神祭り」は岐阜県、下呂で行われているものです。これは国の重要無形民俗文化財にも指定されている貴重なお祭りで、森水無八幡神社(もりみなしはちまんじんじゃ)の例祭として、2月7日~14日にかけて毎年行われています。

一般的には「下呂の田の神祭」として知られています。

祭りの起源は400~500年前(安土桃山~江戸頃)と伝えられてはいますが、詳細はわかっていません。

新型コロナウイルス対策がなければ、4人の「踊り子」があでやかな花笠舞を披露する荘厳な祭り。しかしそれだけではなく、クライマックスにあたる「笠投げ」では、やぐらから踊り子が花笠やら、団子やら、竹箸といったものを観客に投げてあげるので、これが取り合いになって会場はわちゃわちゃに……。

荘厳なだけではなく、なんとも面白い祭りでもあるわけです。

田の神祭りは「田遊び」を元にした「予祝祭」

踊り子たちの踊りの元になっているのは「田遊び」。

田遊びとは、稲作に関わる所作を踊りにして、遊びや神事として敬ってきた、日本の古典芸能の一種です。

ここで、「田の神祭りは収穫を祝うものだと思うけど、なぜに2月? バレンタインじゃん!」と疑問に思ったあなたは鋭いですね!

下呂の田の神祭りは「予祝(よしゅく)」のお祭りです。

予祝とは、予習と同じで、「まず祝っとこう!」という種類の祭り。すなわち、その年の秋の収穫が間違いなく豊作になるように、前祝いとして神を祀り、讃え、いわば神様の退路を断って

「えっ……もう豊作にするっきゃないじゃん……」

という状態を作るものです。

誰でも、先にチヤホヤされれば「ええ~? もぉ、しょうがないなァ、やってあげるよ……テヘッ★」となるものですが、神様に対してもそんな絶妙な心理を突いて「今年もっ! 豊作っ! 豊作にしてくれるんでしょっ! 神様ありがとっ! 神様ばんざい!」と、まだ2月なのに先にお祝いしてしまう、そうやって豊作を祈ってきた人々の願いがよくわかるお祭りです。

「亥の子の祝い(亥の子祭り)」「十日夜」は田の神のお祭りの一種

関西地方で「亥の子の祝い(亥の子祭り)」、関東以北で「十日夜(とおかんや)」と呼ばれるお祭りは、田の神を祀る神事の1つです。

これらのお祭りは、田の神が冬を迎える前に、山に帰る際に行われる祭りであると伝えられてきました。

亥の子の祝いについては下の記事で詳しく解説していますので、こちらも参照してみてください。

亥の子の祝いとは?「亥の子突き」って何故するの?食べ物や意味、地域や時期など




田の神は池袋にもいる?!「東京にもある!」田の神を祀った神社スポット

田の神は池袋にもいます。……と言うと驚く方も多いかもしれませんが、繁華街と線路の合間の小さな公園「池袋駅前公園」に、ちゃーんと居ます。

小さな鳥居と社があって、そこに「4体の石像」があるのですが、これが全部田の神です。

そもそもこの神社は「池袋四面塔稲荷大明神(いけぶくろしめんとういなりだいみょうじん)」。お隣は水天宮です。

四面塔については、江戸時代に辻斬りが多発し、一晩17人もの犠牲者が出たこともあったため、あまりの状況に供養のために石塔が建てられた、という事件が由来になっていると伝えられています。

ただし「稲荷大明神」と名が付いているとおり、ここには稲荷神、すなわち田の神の祖神であると考えられる「ウカノミタマ神」も祀られており、これが池袋の田の神像のルーツになっていると考えて良いでしょう。

こちらが池袋駅前公園の田の神です。

おしゃもじを持って4人並んでいるのが面白いですね!

小さな神社のある公園なので癒しスポットにはうってつけです。

お近くの方は訪ねてみてはいかがでしょうか。

田の神は目黒「曹洞宗東光寺」の境内にも見られ、東京にもひっそりとですが息づいていることがわかります。東京も昔は畑だらけ、収穫を祈ることもしっかりと行われていたのでしょう!

余談ですが……田の神は「陰陽石」の「陽」?後ろから見ると「あの形」

池袋駅前公園の田の神を後ろから見てみると……。何に見えるか考えてみてください。

実はあまりメジャーな説ではありませんが、石像としての田の神には、陰陽石としての性格があると伝えられています。陰陽石とは、人の生誕、子孫繁栄を祈った古代祭祀の名残で、男根、女陰の形をした石のこと。

医療がなく、生命の繁殖が難しかった時代は、これらの石を祀ることで、子孫の繁栄、ひいては村の繁栄をお祈りしたわけです。

したがって、別段すけべえなお話ではなく、田の神は「繁栄の神」として、この陰陽石信仰とつながりを持ち、繁殖の神として祀られる側面を持つようになったと考えられます。

さて、池袋駅前公園の田の神を後ろから見ると? 正解は「男根の形」!(しかも4本)

陰陽石の「陽」のほうなんですね。(陰陽説では男性が陽、女性が陰と考えられるため)

この形の田の神は全国各地に残されています。ただ口に出しにくい話題だけに、あまり触れる人がおらず知られていないだけのようです。

池袋駅前公園にご参拝の際は、ぜひ後ろ側にも注目してみてくださいね。

田の神が喜ぶお供え物、お供えの時期!

田の神に関する習俗とお祭りを理解したところで、田の神にはどのようなお供え物をするのか見てみましょう。

田の神に1年の豊作を願って農耕民がお供え物をする、この時に用いられるお供え物は「お餅」や「おさなぶり」と呼ばれるおにぎり。

おさなぶりとは、おむすびにきな粉をかけたもの。長野界隈では「きな粉むすび」と、そのままの名称で呼ぶこともあるようです。

これを「箕」に入れてお供えするのがスタンダードな田の神へのお供えの形です。

箕というのは、穀物用の「ふるい」で、もみがらやゴミを、食べられる部分からふるい落とす道具。これにお供えもの、御神酒、秋には刈り取った稲などを盛り付けて、田の神に捧げます。

お供え物をする時期としてまず挙げられるのは5月中旬から6月下旬までですが、これは田植えの最盛期と重なるためと考えられます。

また田植えが終わった後にも、お供え物をする地域があります。その時にはいっしょに田植えを手伝ってくれた人を招いて「おさなぶり(早苗饗)」という宴会も行われていました。

今で言う打ち上げですね!

秋になると「田の神上げ」という行事を行うところがあります。具体的には「11月23日」を田の神上げの日、としている地域が多いようです。

これは、田の神が田んぼでの仕事を終え、山へ帰る際に、その守護に感謝をして行うお供えものです。

行事食として、例えば山形県鶴岡市(ユネスコ食文化創造都市)においては

  • 赤カブ漬け
  • 尾頭つきの鯛
  • お雑煮餅
  • 煮物
  • 菊のおひたし

といったものが挙げられますが、これは神人共食の考え方のもと、神に供えるものを人が食したお膳です。

今ではそういう風習はすくなったものの、田の神への感謝は忘れられていません。農家でない者としては、農家の方に感謝ですね!

田の神と山の神の関係性とは?同じ神なのか?

さきほど「田の神上げ」に言及した際、「田の神が田んぼでの仕事を終え、山へ帰る」とご紹介しました。

古来、農民の間では「山の神と田の神はどちらも同じ」という信仰があったようです。

春に山の神が山から降りてきて、田の神となり、田んぼの豊作を守護する神となります。

これが秋になると山へ帰り、山の守護神として農民を見守っている、と考えられたのです。

山の神、田の神の正体は「祖霊」であるという説もあります。

祖霊とは?

「祖霊」というのは、神道における概念で亡くなった人(祖先)の魂のことを言います。

祖先の霊、という概念はアフリカなど、世界じゅうに存在していますが、特に日本ではこれを「御祖(みおや)の御霊(みたま)」と呼びならわし、子孫を守護するものであるとして考えられてきました。

このように日本では死後、すべての魂が山へ帰ると言われていて、その祖霊たちが「山の神と田の神」となって農民を見守るようになった……と言われているのではないのかという説もあります。

山の神は里を見守り、禁忌を犯すと「祟る」存在?

では、日本の農民たちから信じられてきた山の神とは、どのような存在だったのでしょうか。

農民の中でも林業を営む、あるいは猟師として生計を立てる「山民」と呼ばれた人たちは、山の神についての禁忌をいくつも言い伝え残しています。

そのうちの1つが、「山の神の祭の日に、山へ入ってはいけない」という言い伝えです。

山の神は、12月12日や、1月12日など、「12」のつく日になると、山に生えている木を1本1本数える、と伝えられます。そのために、この日に山に入ると木の下敷きになって死ぬ等の、かなり恐ろしい言い伝えとなっています。

また長野県南佐久郡では、大晦日も山の神にとって禁忌の日であるとされているようです。禁忌を破り、大晦日に山に入ると、どこからか「ミソカヨー」とか、「ミソカヨーイ」という叫び声が聞こえる。「誰だ?」と思って振り返ろうとすると、首が回らない。

うーん、山の神、なかなかホラーな存在です。

農民にとっての「山の神」と山民にとっての「山の神」は違った存在

農民にとっての「山の神」は、秋から冬にかけて山から里を見守り、春になると田の神として里に下りてくると考えられており、基本的には「守護」となる存在。

しかし、山民にとっての「山の神」は、常に山の中に居る存在です。

ですから、季節ごとに行ったり来たりして、山の神になったり、田の神になったりする「神様」は、あくまでも田んぼをつくる、里の農民にとっての「神様」だということも忘れてはいけませんね。

鹿児島では「田の神さあ」?しゃもじは何の象徴?

全国的に、読んで字のごとし「たのかみ」と呼ばれることの多い田の神ですが、鹿児島を中心とした九州の一部(鹿児島、宮崎など)では「タノカンサー」と発音されています。

漢字表記をすると「田の神さあ」で、基本的には「田の神様」という意味にはなりますが、鹿児島、宮崎地方の「田の神さあ」はお地蔵さんのように、実際に至る所に鎮座しているものです。

タノカンサーはなぜしゃもじを持っている?タノカンサーの種類と形

タノカンサーの多くは「農民型」と言われるもので、特徴としてはカサをかぶり、右手にしゃもじ、左手にお椀(茶碗?)を持っている、という姿をしています。

中にはお椀ではなく、団子をそのまま持っていたり、何も持っていないけれども手を出している形になっている田の神もいます。いずれにしても実りの象徴として、片手にしゃもじを持っていることは非常に多いと言えます。

この「農民型」と言われる田の神の他に、自然石の田の神さあ、地蔵型の田の神さあ、神官型の田の神さあ……

他にも様々な田の神さあが存在しています。

以下では鹿児島県姶良市を例に取り、いくつかのタノカンサーの姿を見てみましょう。




田の神は有形民俗文化財として指定されている《鹿児島県姶良市》

田の神は、さきに池袋駅前公園の田の神として紹介したように、一部が仏像に近い形で具現化されています。(仏様ではないので「仏像」と呼ぶには不適切ですが、姿は地蔵にかなり近いものとなっています)

鹿児島県姶良市では、地域の田の神が10件、市から有形民俗文化財として認定されています。

その指定された像をいくつかご紹介したいと思います。

※以下、画像出典http://www.city.aira.lg.jp/bunkazai/kanko/bunka/bunkazai/yuukeiminnzoku.html

福岡家の田の神

姶良市の文化財となっている田の神の中には、この「福岡家の田の神」と、もう1つ「木津志堂崎の田の神」というものがあります。

この2つは作風が似ており、製作年代などは不明とされているものの、石工は同じなのではないかと考えられているようです。

なお木津志堂崎の田の神のほうは、背面に「文化二丑年(1805)奉寄進九月吉日上木津志郷」と書かれており、1805年の製作であることがわかります。

福岡家の田の神も同年代である可能性が高いということなのでしょう。

  • 住所:鹿児島県姶良市宮島町44-3

西田の田の神

「西田の田の神」の特徴は、1つの大石を彫ったもので、朱色に着色されているというところ。

右上に「文化二年乙丑四月吉祥日」云々と彫られているため、1805年のものであることがわかっています。

  • 住所:鹿児島県姶良市下名2733

楠元の山の神

こちらは「山の神」の像とされていますが、実は左側に「田の神」の像もあり、一対の像として製作されたものです。製造年は1712年(正徳2年)であることがわかっています。

これまでに紹介してきた2つの田の神像に比べて、妙に「宮中くさい」のが気になりますが、これが先述した「神官型」の山の神。

田の神ではなく山の神の像であるためか、随分こわい表情をしています……。

  • 住所:鹿児島県姶良市西餅田2422-2

田の神を盗んだ?「オットイタノカンサー」の風習

鹿児島、宮崎の「田の神さあ」にまつわる風習の中に、「オットイタノカンサー」というものがあります。

「オットイ」とは「盗む」という意味。つまり、「盗んだ田の神様」で、この風習では実際に、道端に立っている田の神を盗んでくるということが行われていました。

オットイタノカンサーが行われるのは、新しい水田を作った時、新しく村を作った時など。

新しい水田や村には、田の神さあがありませんので、新設する必要があるのですが、それにしても「実績のある田の神」であれば、より効果的に振興の田んぼや村を豊かにさせることができる、と想定されます。

そこで、既に他の田んぼで良い収穫を上げている田の神や、他の村を豊かにした実績のある田の神を、そこから「盗んで」きて、新規の田や村を守護させ、いわば運気のスタートダッシュをかけてもらおう、ということになっていたのです。

何も言わないで田の神を盗んできてしまってはコリャ大変ですが、「オットイタノカンサー」においては事前に「何月何日に盗みに行くからよろしくネッ」「わかったヨ」「返しに行くのは何月何日ね。あと、お礼にアレとコレ持ってくからサッ」「了解!」

というやりとりがあって、謝礼に至るまでが細かく決められ、田の神が盗まれた後には置き手紙が置かれている等の気遣いもあったようです。

もちろん、盗む日、返す日、謝礼といった約束ごともきちんと守られたために、オットイタノカンサーは「やってもよい盗み(?)」として長い間、風習として存在していました。

ただ、後世になってこの約束が守られず、盗まれた田の神が返されないというフトドキなことも起こり始め、最終的には田の神そのものを動かせないように固定するという試みが増え、オットイタノカンサーはやがて行われなくなりました。

無料!岐阜にある「田の神の足湯」がおすすめ!

田の神の名を看板に背負った無料の足湯が、さきほど「田の神祭り」でもご紹介した岐阜の下呂にあります。

無料で足湯に入れるスポットと言われれば、どうしても目に留まりますよね。

「田の神の足湯」には無料で入ることができ、近くには手湯もあります。この足湯は下呂市役所に隣接しており、アクセスも抜群!24時間営業でいつ行っても入ることができます。

今は新型コロナウイルスの影響でなかなか遠出もできなくなりましたが、下呂温泉を訪れる機会があったらぜひ、田の神の足湯にも立ち寄ってみてください!

  • 住所:岐阜県下呂市森961

田の神は水田の豊作を願う神!

田の神について様々な視点から紐解いていきましたが、まだまだ田の神さまについては謎の多い部分もあるようです。

池袋の例を見てもわかるように、田の神様は全国各地に存在します。

それは祀ってくれた人に幸運や恵みをもたらしてくれる存在でもあります。

田の神様を祀る場所を通ったら手を合わせ、運気を上げるお願いをしてみてもいいかもしれませんね。

Writer:夜野大夢(ホームページ

Writer:陰陽の末裔/占い師・パワーストーンアドバイザー
あん茉莉安(ホームページ

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