花見の起源・由来について簡単に解説!「日本三大桜」など全国の有名な桜も紹介!

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桜の咲く時期を待ちに待っている日本人はとても多いと思います。

美しく儚げに咲く桜は、散り際さえも美しいものです。

そして、桜と言えば、「お花見」!夜桜の下で、飲んだり食べたりすることはとっても楽しいですよね。

そもそも、花見はいつ始まったのでしょうか。

起源や由来、歴史と共に、こんなに身近な桜なのに意外に知らなかった色々な豆知識を、今回はご紹介します。

桜をもっと好きになって、今年の桜を楽しみましょう。

花見の起源

今では、お花見と言えば、桜の花が咲く頃に、桜の木の下で飲んだり食べたりの宴会をすることを指します。

しかし、そもそも「花見」は宴会を楽しむことではありませんでした。

「花見」の始まりを語るには、「花見」と呼ばれるようになった、ずっと前から、桜には神様が降臨すると信じていた日本人の信仰を知らなくてはいけません。

桜は山の神が降りてくる時の目印になる木として、特別に神聖視されていました。

そのため、その年の豊作を祈願するための儀礼も、桜の木の前で行っていました。

現在のお花見に無くてはならないお酒も本来は神に供えたお下がりを皆でいただくものであったようです。

このように、桜の木の下で行った儀礼が、花見の起源となっています。

 つまり・・お花見の起源を超簡単にまとめると・・!

桜に神が宿ると信じられていたことから、桜の木の下で行っていた豊作祈願の儀礼が、花見の起源です。

最初の頃の花見はどうだった?

最初の頃の花見は、決められた日に、野山に出かけて行って、花を愛でる、また、その木の下で歌会や、宴を開いていました。

厄を祓(はら)い、木に降臨した神さまと過ごす機会とされていたのです。

そのため、春だけの行事ではなかったのです。

秋にも、穀物の実りを願ったり、豊作に感謝を捧げたりするために、花を見ながらお祭りをし、花を使って収穫を占いました。

開花とは神様が降臨された証であり、逆に散り際は凶とされたようです。

ちなみに、桜以外の花を愛でに行くときは、梅の花の場合「梅見(うめみ)」や「観梅(かんばい)」、菊の花を見に行くことを「観菊(かんぎく)」などというように、その花の名前をつけて表します。

桜の語源

桜は、山の神様が宿る木とされていました。

そのため、「さくら」の語源も神様の影響を大きく受けています。

さくらの「さ」は、山の神様や田の神様、稲の神様を指します。

そして、さくらの「くら」は、その神様たちのいらっしゃる「座」を意味するのです。

さくらは「神様の座る木」という意味なのです。

なぜ桜には神様が宿ると考えられているのか?

『古事記』には、桜の花にまつわるこのようなお話が残っています。

照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫である、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、高天原(たかまがはら)から瑞穂(みずほ)の国(日本)に降りてきました。

すると、その土地の神である、大山津見神(おおやまづみのかみ)は、自身の娘2人を差し出します。

1人は、永遠で強い生命力を持つ、醜い姉「岩長比売(いわながひめ)」、もう1人は、短い命だが大変美しい妹の「木花之佐久夜比売(コノハサクヤヒメ)」です。

ニニギノミコトは、コノハサクヤヒメを選んだがゆえに、永遠の命ではなく、限りある命になってしまったというお話です。

この、美しく短命なコノハサクヤヒメが桜であるという説があります。

お花見の由来・歴史

木へ降臨した神様と過ごすために行われていた花見は、時代を経て「花を愛でるための行事」に変わっていきます。

現在のように、庶民も楽しめるようになった花見の歴史を見てみましょう。

神への信仰から、愛でる花見へ

花見が神様との繋がりから、桜の花を愛でるだけの行事に変わったのは、平安時代からのようです。

桜は信仰の対象だったため、奈良時代には、花といえば梅や萩などを指していましたが、平安時代になると、宮中の貴族が桜を愛でる花見を始めました。

京都の平安京の大通りの街路樹は、緑鮮やかな柳の木と淡い色香の桜の木とが交互に植えられて、春には大変美しかったと歌にも詠まれています。

史上初の花見は、812年(弘仁3年)に嵯峨天皇が、現在の京都の二条城のあたりに行幸(ぎょうこう)した際の桜見物だったそうです。

やがて、831年(天長8年)からは、天皇主催の花見の宴が毎年行われるようになりました。

それから、平安時代の貴族たちは、桜の花を、春の花の代表格として愛でるだけではなく、歌を詠み、花見の宴を開いて楽しみました。

そして、山へ足を運んだ花見も、手軽に楽しめるようにと、貴族たちは、庭にこぞって桜を植えるようになったのです。

【豆知識】桜の花は縁起が悪い?

桜には、神様が宿るとされていました。

しかし、一方で、満開の時期は短く、すぐに散ってしまうことから、古代の日本人は不吉だと捉え、花が散り、舞う時には、疫神(えきがみ)も一緒に分散して、疫病をもたらすと考えられていました。

現代のように、医療が発達していなかった時代、疫病は人の命を奪い、大切な稲をも枯らす、恐ろしいものとされていたのです。

そのため、桜の花が散る時期に、鎮花祭(ちんかさい)が行われました。平安時代に制定された『神祓令(じんぎりょう)』と呼ばれる公的な祭祀を載せた規定には、旧暦の三月に鎮花祭を行うことが明記されています。

現在でも、奈良県にある大神神社(おおみわじんじゃ)を始めとした各地の神社で鎮花祭が行われています。

武将が愛した桜

鎌倉時代以降になると、花見は、武士の間でも盛んになりました。

吉田兼好が書いた随筆、『徒然草』にも、「貴族は桜を上品に楽しむが、田舎者は桜の木の下でどんちゃん騒ぎをしている」というような内容の文章が残っています。

さらに、桃山時代になると、花見の宴の規模はもっと大きくなりました。

豊臣秀吉の「吉野の花見」

1594年(文禄3年)の2月27日に豊臣秀吉が行った「吉野の花見」は特に有名です。

「2月に花見?」と思うかもしれませんが、旧暦なので、現在で言うと4月17日頃となり、ちょうど桜の見頃であったことが分かります。

なんと、5日間にも及び、約5000人が桜と宴を楽しんだようです。

その中には、徳川家康や前田利家、伊達政宗といった、そうそうたる名武将が、コスプレをして参加したといいますから、更に驚きです。

具体的に、吉野の花見では、吉野山に趣向を凝らした茶屋を建てました。

気になる武将達のコスプレですが、伊達政宗とそのお連れの者たちは、鈴懸の衣・檜笠・金剛杖を持った大峯山の山伏のコスプレで登場しました。

豊臣秀吉は、この一行が前を通り過ぎようとした時、「客の僧よ、この茶屋にお立ち寄りください!」と大声で声を掛けたそうです。

一方で、伊達政宗は、芝居じみた様子で「疲れたのでここで休もう、酒なども飲みたいものだ」と言い、供の者に法螺貝を吹けと命じ、僧侶に渡す金銭や食物のことである、「斎料(ときりょう)をください」などと言い出します。

この芝居じみた流れを、豊臣秀吉は、腹を抱えて大笑いし楽しみました。

しかし、真面目な前田利家は、この笑いを理解できなかったのか、秀吉に失礼があったのではないかと思ったのか、怒り出します。

そして、この空気が読めない前田利家の真面目な態度が更に爆笑を生んだのです。

しばらくして、豊臣秀吉は、伊達政宗に向かって、「今日の花見で扮装が見事だったのはわしとおぬしだけじゃ、物好き天下一は決まったな」と笑って伝えたそうです。

豊臣秀吉の「醍醐の花見」

豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)3月15日にも、京都の醍醐寺・三宝院の裏山で「醍醐の花見」と呼ばれる花見も行いました。

「吉野の花見」には及ばない規模とはいえ、醍醐の花見で豊臣秀吉は、醍醐寺に700本もの桜を植えさせて、近親者・諸大名など1300人を従えて豪華な花見を行いました。

豊臣秀吉は、自ら下見のために、醍醐寺に通い、庭園の改修などを指揮して、醍醐山の山腹に至るまで桜の木を植樹したと伝えられています。

この花見では、コスプレはなかったものの、豊臣秀吉の側室やその他の参加した女性たちは2回の衣装替えが命じられたそうです。

1人3着ずつ着物が新調され、衣装代だけでも現在の30億円以上かかったとされています。

豊臣秀吉は、その年の8月18日に亡くなっています。

晩年まで、桜の魅力に取りつかれていたことが良く分かるエピソードです。

このような、大々的な花見の宴開催により、京都の寺社では花見がブームとなって、桜の木が多く植えられ始めるのです。

ちなみに、現在でも醍醐寺では、毎年4月の第2日曜日に醍醐寺の花見を彷彿させる、「豊太閤花見行列」が催されて大変賑わいます。

江戸時代にお花見がブームになった理由

その後、江戸時代になると、三代将軍・徳川家光が上野にある寛永寺に奈良県吉野の桜を植えて、花見を楽しみました。

毎年テレビ中継される東京名物の「上野公園の桜」は、徳川家光が植えた桜から始まったのですしかしながら、各所の桜の名所は、当初は庶民が立ち入れる場所ではありませんでした。

庶民が花見を楽しむ場所を作りたいと考えたのは、八代将軍・徳川吉宗です。

吉宗公は、1720年(享保5年)、浅草の飛鳥山に、庶民でも花見を楽しむことが出来る場所を作りました。

しかも、吉宗公は、単に楽しむだけの花見に桜を使うのではなく、治水工事の一環として桜を植えたのです。

当時、江戸を流れていた隅田川は、長雨が降ると、すぐに洪水を起こし、農村に被害が及んでいました。

吉宗公は、隅田川に堤防を作りたいと考えますが、幕府の予算は足りませんでした。

そこで、川沿いに桜の木を植え、桜の木を見に来た多くの花見客によって、踏み固められた護岸で、天然の堤防を作ったのです。

この考えは功を奏し、周辺の住民が水害被害に悩まされることは減りました。

全国の桜が川沿いに多いのも、このような理由からなのです。

そういった幕府の政策もあり、花見はやっと庶民の娯楽として定着してきます。

ちなみに、最初に花見に団子を持って行ったのは、あの花見好きの豊臣秀吉と言われていますが、三色の「花見団子」が食べられるようになったのは、江戸時代からだとされています。

三色の団子が串に刺さっていて、ピンク色の「桜」で春を表し、白色の「雪」で冬を表現、緑色の「ヨモギ」は夏を指していると言われています。

「秋がない?」と思われるかもしれませんが、これは、江戸時代の人々が「秋がない」に「飽きない(飽きずに食べられる)」をかけた、洒落だったようです。

お花見のもう1つの目的

花見が、庶民の間でも浸透するようになったのは、愛でるだけの要素ではありません。

桜の花の美しさを愛でる以外にも、目的があったためです。

もともと、農民の間では、お花見は豊作祈願の行事でした。

春になると、桜の木には、山の神様が降臨されると思われてきたためです。

桜は農民にとって、農業の今後を占ったり、農作業を始める指針になったりもしていました。

例えば、桜の咲き方でその年の収穫を占ったり、桜の開花期に合わせて種もみを撒く準備をしていたりしていたのです。

このように、農民にとってお花見とは、豊作を願って、桜の木の下で山の神様を迎え、料理や酒でもてなし、そのお下がりとして一緒に料理やお酒をいただくものでした。

花と、酒や団子を楽しむ花見が広く浸透する前から、農民たちの間では、神のための花見が続いていたのです。

江戸時代に盛んになったお花見の立役者

農民の間では、豊作を願う行事だったお花見も、徐々に庶民の間で春の行楽として広がりを見せました。

そして、江戸時代には、花見は劇的な進化を遂げます。

その理由は、「品種改良」です。

以前は桜と言えば山桜一択でしたが、品種改良のおかげで、色々な種類の桜を楽しむことができるようになりました。

桜のみならず、江戸時代には園芸がブームとなり、色々な植物の品種改良が進み、色や咲き方が工夫された、様々な花が生まれました。

 つまり・・今のようなお花見の由来を超簡単にまとめると・・!

貴族も武将も愛した桜。

江戸時代に徳川吉宗が川の土手を整備することと庶民の娯楽の場を設けるために、隅田川沿いに桜をたくさん植えたことでお花見ブームに!




日本三大桜とは?

日本三大桜とは、

  • 「福島県の三春滝桜(みはるのたきざくら)」
  • 「山梨県の山高神代桜(やまたかじんだいざくら)」
  • 「岐阜県の根尾谷薄墨桜(ねおだにうすずみざくら)」

の3つの桜の巨木を指します。

それぞれ同じ桜の木とはいえ、違った表情を見せる「日本三大桜」の特徴を見てみましょう。

「福島県の三春滝桜」

三春の滝桜はその名の通り、大きく垂れた枝に見事についた花が滝のようにも見える「ベニシダレザクラ」です。

町名の「三春」は、梅と桃、桜といった3種類の花が同時に咲くことから、3つの春が同時に来るということから名が付いたようです。

樹齢1000年とも言われる巨木ですが、今なお、大きく枝を広げ、とても豪華な印象を与える桜です。

【所在地】

  • 福島県田村郡三春町滝字桜久保
【アクセス情報】
  • JR磐越東線三春駅下車、臨時バス「滝桜号」(滝桜観桜期間のみ)
  • 船引三春IC 車20分(三春駅から臨時バスあり)

「山梨県の山高神代桜」

この桜の木はなんと、樹齢が2000年とも言われています。

日本最古であり、最大級の桜です。

この長い歴史には、ヤマトタケルノミコトが手植えをしたという伝説や、日蓮宗を開山した日蓮聖人が拝んだことにより、いったん衰えたが復活したといった言い伝えも残っています。

そのような伝説があることにも頷ける、神秘的な桜です。

【所在地】

  • 山梨県北杜市武川町山高2763
【アクセス情報】
  • JR中央本線韮崎駅からバスで30分
  • JR中央本線日野春駅からタクシーで15分
  • 中央自動車道韮崎ICから車で30分

「岐阜県の根尾谷淡墨桜」

この桜は、蕾から散るまでの間に、花の色見が変わります。

花は、淡いピンク色から白、散り際には薄墨のような色へと変化をするのです。

このように、様々な色の花びらが観賞できる桜は珍しいようで、「淡墨桜」と名付けられています。

淡い色の花弁がひらひらと舞う様子はとても儚げで、特に、ライトアップされた淡墨桜は幻想的な美しさです。

【所在地】

  • 岐阜県本巣市根尾板所字上段995

【アクセス情報】

  • 養老鉄道樽見駅 徒歩約15分

日本五大桜とは?

「日本五大桜」とは、先ほどの「日本三大桜」に、

  • 「埼玉県の石戸蒲桜」
  • 「静岡県の狩宿の下馬桜」 

の2つを加えたものが、「日本五大桜」です。加わった2つの桜の特徴も見てみましょう。

「埼玉県の石戸蒲桜」

この桜は、エドヒガンザクラとヤマザクラが自然に交配したことから生まれた桜の為、世界に1本しかない貴重な桜と言われています。

枝には、ピンクと白の2種類の花が咲き、枝もかなり低い所まで下りているので、間近で花を観賞することが出来ます。

【所在地】

  • 埼玉県北本市石戸宿3-119

【アクセス情報】

  • JR高崎線北本駅西口からバスで15分(北里研究所メディカルセンター病院行)
  • 北里メディカルセンター病院から徒歩で5分

「静岡県の狩宿の下馬桜」

昔、源頼朝が、馬をつないだという言い伝えから、別名「駒止の桜」と呼ばれている桜です。

この桜は、樹齢800年以上のシロヤマザクラで、山桜の中では日本最古の桜といわれています。

後ろにそびえる富士山とのコントラストが美しい桜です。 

【所在地】

  • 静岡県富士宮市狩宿98-2

【アクセス情報】

  • JR富士宮駅からバスで25分(路線バス猪之頭行き「狩宿下馬桜入口」徒歩10分)
  • 新東名新富士ICから車で30分

日本三大桜の名所とは?

日本三大桜の名所とは、

  • 「青森県の弘前公園(ひろさきこうえん)」
  • 「長野県の高遠城址公園(たかとおじょうしこうえん)」
  • 「奈良県吉野山(よしのやま)」

の3か所の桜名所を指します。

日本には、沢山の桜の名所が存在しますが、特に見事な桜の絶景が楽しめる「日本三大桜の名所」を見てみましょう。

「青森県の弘前公園(ひろさきこうえん)」

弘前城を囲む、お濠(ほり)に沿って植えられた桜の木は、ソメイヨシノを中心に、約50種類、2600本あります。

数多くの桜の木の中には、現存する中で日本最古と言われるソメイヨシノや、幹回り5m以上の、日本最大幹周と言われるソメイヨシノも見ることが出来ます。

例年、4月下旬から5月上旬に咲き乱れる桜は圧巻です。

所在地】

  • 青森県弘前市大字下白銀町1

 【アクセス情報】

  • JR弘前駅から徒歩30分
  • JR弘前駅からタクシー10分
  • 東北自動車道 大鰐弘前ICから約30分。

 長野県の高遠城址公園(たかとおじょうしこうえん)

かつては、馬の姿が桜の花に埋もれて隠れるほど見事だった高遠藩の桜の馬場でしたが、廃藩置県後に、荒れてしまっていました。

そこで、旧高遠藩士たちが桜の馬場から桜を移植したのがこの公園の始まりです。

高遠固有の品種である、「タカトオコヒガンザクラ」を見ることが出来ます。

【所在地】

  • 長野県伊那市高遠町東高遠

 【アクセス情報】

  • 飯田線伊那市駅よりJRバスで約25分「高遠駅」下車
  • 「高遠駅」より徒歩約15分。
  •  中央自動車道伊那ICから車で30分、同諏訪ICから車で1時間。

「奈良県吉野山(よしのやま)」

吉野山には、約200種類、3万本もの桜が、密集して咲いています。

ひと目で千本もの(たくさんの)桜の木が見えることから、「一目千本」と言われています。

桜のエリアは4つに分かれ、下千本(しもせんぼん)、中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、奥千本(おくせんぼん)と呼ばれ、山の下から上に向かって桜が次々に咲き、次第に一帯が桜色に染まっていきます。

【所在地】

  • 奈良県吉野郡吉野町吉野山

【アクセス情報】

  • 近鉄吉野線の終点駅吉野駅下車。
    →ロープウェイ吉野山駅へは徒歩で約30分。
    →ロープウェイ吉野山駅から金峯山寺・蔵王堂へは徒歩約10分。
    →中千本公園口までの臨時バス(桜のシーズン)
  • 車の場合は以下の駐車場を利用。
    そのため下千本地域の「吉野山観光駐車場」(約400台)
    または中千本地域の「如意輪寺駐車場」(約300台、未舗装)
    この2つの駐車場は桜のシーズン以外は無料。その他の中心部の民営駐車場はほとんどが通年有料。

【補足】桜と言えば「ソメイヨシノ?」~ソメイヨシノが広まった経緯~

「桜と言えばソメイヨシノ」と言われますが、それもそのはず、日本の桜の8割を占めるとも言われています。

しかし、意外にも「ソメイヨシノ」の歴史は浅く、ソメイヨシノが誕生したのは、江戸時代も末期になってからでした。

江戸時代の園芸ブームにのって、品種改良されて誕生したのがソメイヨシノなのです。

現代の東京都豊島区駒込は、昔、「染井村」と呼ばれており、そこで出来た品種のため、「染井吉野」と呼ばれています。

花が大きく香りが良い「大島桜」と、花が咲いた後に葉が出てくる「江戸彼岸桜」を交配して出来た観賞用の桜です。

このソメイヨシノ、全国に広がる木の全てが、実はクローンなのです。

つまり、同じ遺伝子を持つ兄弟達です。増やし方は、挿し木や接ぎ木といった方法で、親木から繁殖させました。

同じ遺伝子を持つため、気温の違う場所でも、似たような期間に開花し、葉が出る前に5枚の花びらが咲くのが特徴です。

日本で栽培されている全てのソメイヨシノがクローンだと思うと変な感じがしますが、日本全国どのソメイヨシノでお花見をしても同じ桜を見ていると思うとなんだか嬉しい気もします。

【豆知識】桜にまつわることわざ

桜にまつわる、こんなことわざをご存知でしょうか?

明日ありと思う心の仇桜(あすありとおもうこころのあだざくら)

儚く散ってしまう桜になぞらえて、明日はどうなるかわからないという世の中や人生の無常を説いた言葉です。

桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿(さくらきるばか、うめきらぬばか)

庭木の剪定では、桜は太い枝をなるべく切らずに、本当に余分な枝だけを剪定したほうがよく、梅の木は成長が早いため、剪定を行わないとどんどん枝が伸びてしまうことから、桜の枝は切らないほうがいいが、梅の枝は切った方が良いという意味です。

世の中は三日見ぬ間の桜かな(よのなかはみっかみぬまのさくらかな)

桜の花は、咲いたと思えば、春嵐を受けて散ってしまう。3日も桜の花を見ないと、散ってしまうことから、世の中の移り変わりが、とても速いことを表現しています。

【豆知識】桜の花の違った楽しみ方

桜は、見るだけではなく食べ物としても、その淡いピンク色が人気です。

桜餅は2種類ある?

桜餅は、関東と関西で作り方や見た目が多少違います。

ちなみに、桜の葉で包むのは、桜餅の乾燥を防ぎ、香りを移すためだと言われています。

桜の葉は、食べても、食べなくてもいいそうです。

関西の桜餅

もち米を蒸して乾燥させたものを粗く挽いた粉であんこを包みます。

もち米は、桜色に色づけされ、塩漬けにした桜の葉で包まれています。

大阪の道明寺というお寺で初めて売られたとされているため、「道明寺(どうみょうじ)」とも呼ばれています。

関東の桜餅

小麦粉を水で溶いて、桜色に色付けして、クレープ状の生地を作り、あんこを包みます。

その上から塩漬けにした桜の葉で包みます。

隅田川沿いの長命寺というお寺で初めて売られたので、「長命寺(ちょうめいじ)」と呼ばれています。

長く桜を楽しみましょう!桜の塩漬け

桜の見頃は短いですが、桜の花を塩漬けにすれば、香りや味を長く楽しむことが出来ます。

桜の塩漬けの作り方

①八重桜100グラムを水洗いして水気を切る

②塩25グラムをまぶして密封する

③3日ほど重石をして水を抜き、梅酢30㎖を混ぜる。

④再び3日ほど水を抜いて、2日陰干しすれば完成。

数カ月は保存できます。

桜の塩漬けの楽しみ方

桜湯

塩抜きした桜の塩漬けに白湯を注いで飲みます。

お祝いの席では、お茶は「茶を濁す」ことに通ずるとされているため、代わりに桜湯が用いられます。

桜ご飯

塩抜きした桜の塩漬けを細かく刻んで温かいご飯に混ぜます。

ほんのりピンク色の可愛らしいご飯になります。

桜風呂

塩抜きしないままの桜の塩漬けをガーゼなどに包んで、湯船に浮かべます。

ふんわりと春の香りが漂います。

まとめ

沈んだ気分の時でも、満開の桜を見上げれば、不思議と心が落ち着きます。

古から日本人が、桜を信仰し、愛でていたからでしょうか?

1年に一度、桜が咲いたら、気の許せる仲間と共に桜の木の下で宴を行う。

考えてみれば、とても平和で素敵な行事です。

今年の桜は、どなたとご覧になりますか?たとえ宴が開けなかったとしても、神が宿る桜の木の下に行けば癒されるかもしれません。

Writing:YUKIKO-加藤

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