大嘗祭はいつから?意味や内容・歴史(由来や起源)と限定御朱印もご紹介!

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今回は「大嘗祭」について、その意味や内容、歴史、いつからいつまでなのか? といったようなもろもろのことをご紹介していきます。

大嘗祭と名前が似ているお祭りに「新嘗祭」があります。新嘗祭についてはこちらの記事で詳しくご紹介しておりますので、一緒に参照してみてくださいね。

それでは早速、大嘗祭とは何なのかを1つずつ紐解いてみましょう。

「大嘗祭」の読み方

「大嘗祭」の読み方は、「だいじょうさい」と読みます。

また他に「おおにえまつり」「おおなめまつり」と読むこともあります。いずれも間違いではありませんが、一般的には「だいじょうさい」と呼ばれることが多いでしょう。

「大嘗祭」とは?

「大嘗祭」とは、天皇陛下が新しく即位されてから初めて行う「新嘗祭」のことを指します。

宮中祭祀であり皇室行事でもある「大嘗祭」は、毎年天皇陛下が宮中で行う「新嘗祭」とほぼ同じ内容で、新天皇になられた年に一度だけ大掛かりに行う行事です。

この行事で天皇陛下は、国の平安や五穀豊穣を天照大御神や他の神々様に感謝し、祈りを捧げます。

「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」とも言われ、大化時代(645年~650年)よりも前の収穫祭に起源があると言われています。

大嘗祭の意味(新嘗祭の意義)とは

大嘗祭は新嘗祭の、いわば親玉のようなものです。祭祀の趣旨としては、新嘗祭の中の新嘗祭……すなわち新嘗祭をさらに突き詰めた形になります。

新嘗祭が執り行われる意義は、豊穣の祭り。すなわち、収穫に感謝し、さらに翌年の豊作を願うものです。

神に恵みを感謝し、お供え物をして、引き続きよろしくね! とやるのが新嘗祭。

大嘗祭は、新嘗祭の中でも、新しい天皇陛下が初めて執り行うわけで、すなわち恵みをくださる神々、特に日本の神のトップである天照大神に対し、新しい天皇がご挨拶を申し上げ、改めて自分自身と国民、国の作物の生産と安寧について、よろしくお願いします、と祈る意味が込められているでしょう。

大嘗祭はいつ行われる?

上述のとおり、大嘗祭というのは、天皇陛下ご即位後の、初回の新嘗祭です。

したがって、大嘗祭は陛下お一人につき一度しか行われない、非常に特殊なお祭りだということになります。

新嘗祭も、宮中祭祀として天皇陛下が毎年執り行っています。新嘗祭は、11月23日に行われると決まっています。

大嘗祭は新嘗祭のうち、天皇陛下ご即位の時のみ行われる一世一代のものですから、ご即位後初めての11月だけ、特殊だと考えなくてはなりません。

そして、大嘗祭が行われるのは11月の「二の卯」の日と決められています。

過去には以下の日程で行われました。

  • 大正→11月14日
  • 昭和→11月14日
  • 平成→11月22日
  • 令和→11月14日

大嘗祭の儀式のうち、上記はメインとなる儀式の、初日の日程です。この日に行われる儀式の正式名称を「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」と呼び、前半を特に「悠紀殿」で行う「悠紀殿供饌の儀」と称します。開始時刻は18:30と決められています。

最初の儀式が18:30に始まり、およそ3時間。その後、翌日の午前0時頃までが休憩となり、0時からは「主基殿(すきでん)」において「主基殿供饌の儀」が行われます。

大嘗祭の儀式は実は5月に開始されている

大嘗祭の儀式のうち、最も早いものは5月に行われる「斎田点定の儀」です。

その後、9月に「斎田抜穂の儀」という稲刈りの儀式が行われます。

そこから、11月の「大嘗宮の儀」、「主基殿供饌の儀」へと儀式が進みますので、終了まで全体でおよそ半年がかかっていると言えるでしょう。

さらに、「大嘗宮の儀」、「主基殿供饌の儀」が終了した翌日から、3日後にかけて(令和の場合は11月16日と18日)、「大嘗宮の儀」への参列者をもてなす宴会「大饗の儀(だいきょうのぎ)」が行われ、これにて大嘗祭の終了となります。

明治6年にグレゴリオ暦を採用したので大正以降新暦11月になった

明治時代までは、天皇の即位後、太陽太陰暦を用いて、11月の二の卯の日に大嘗祭を行っていました。実はこの時点まで、新嘗祭も大嘗祭と同じく、11月の二の卯の日だったのです。

明治6年にグレゴリオ暦が採用されるにあたり、旧暦の11月二の卯の日……と考えると、グレゴリオ暦では1月になってしまうことがわかり、これでは収穫祭という祭の趣旨に反することからグレゴリオ暦の11月二の卯の日が採用されたと言われています。

たまたま、明治6年の11月二の卯の日は、11月23日でした。そのため、「新嘗祭=11月23日」ということで固定となってしまいました。

しかし大嘗祭はその祭祀的な重要性からでしょう、大正天皇即位時に11月23日ではなく、11月二の卯の日が採用されたのです。

なぜ、卯の日に大嘗祭を行うのか?卯の日は「目覚め」の意味がある十二支

「卯」はウサギのことではありません。

そもそも勘違いをされがちですが、十二支とは動物ではなく、地上のエネルギーの流れを「生から死まで」12に分けて表現したものです。

現代人は、時計を想像すると非常にわかりやすいのですが、一番上の、数字12に当たるところが「子」。

そこから、丑、寅……と続き、数字3に当たるところが「卯」です。

子は、すなわち、方角で言うと北。時計で言う、12時の方角ですね。一度、その前の「亥」で全てが死に絶えた後、新たな生命の息吹が生じるのが「子」の位置です。

さらに「卯」では、「子」で生じた生命の息吹が、丑寅で少しずつ成長し、卯に至って「繁茂する」。方角は東、五行は「木(もく)」、生長の気が著しい「目覚めの様」を表します。

卯という漢字も、左右の扉を開き、新たな段階に進むことをあらわしたもの。

ここで大嘗祭(卯の日)および新嘗祭(昔は卯の日だった)の意義を考えてみましょう。

一度、作物が収穫されてしまっても、翌年の収穫を考えなくてはいけないのが農耕民族です。1年の収穫を神に感謝しながらも、さらなる発展、すなわち繁茂を祈らなくてはならないため、大嘗祭の日取りには卯の日が選ばれたものと考えられます。

大嘗祭の由来と歴史!最初は新嘗祭と区別されていなかった……

大嘗祭および新嘗祭が始まったのは、皇極天皇の代(第35代天皇。即位642年~退位645年)であると伝えられます。皇極天皇は事情により3年で退位し、その後第37代天皇「斉明天皇」としてもう一度即位した、日本の歴史の中でも少数派にあたる女帝です。

聞いたこと無いな……と思う人も多いかもしれませんが、中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)の母親、と言えば「……あぁ!」とピンとくるかもしれませんね。

「大嘗祭および新嘗祭」と書きましたのは、この祭祀が開始した当初、大嘗祭と新嘗祭の区別はなかった、とされているためです。

皇極天皇から、第40代天武天皇(在位673年~退位686年)の時代に至るまでは、大嘗祭は天皇の即位とは関係なく、つまり一世一代のものではなかったようです。

隨唐の中国文明を参照して律令国家としての体裁へ大きく変化が始まったのは、日本では660年代のことになります。一般的には645年の大化改新が律令国家の発端とも言われていますが、この頃はまだ律令が整うまで至らず、701年の大宝律令成立により、ようやく律令制が確立したと言われています。

その大宝律令において、一世一代の祭り「践祚大嘗祭」として定められたのが、大嘗祭です。

後に延喜式においては、唯一の「大祀」として位置づけられた、日本人にとって本当に大切なお祭りでした。そして、やり方に多少の変化はあるものの、大嘗祭の執行は今に至るまで脈々と受け継がれているのです。




大嘗祭最初の儀式「斎田点定の儀」とは?

「大嘗祭」でお供えされる神様のお食事「神饌(しんせん)」の中でも、特に重要視されるのは「稲」です。

この特別な稲を収穫する田は「斎田(さいでん)」と呼ばれ、「大嘗祭」ではこれを決めることから始まります。

斎田を決める儀式は「斎田点定の儀」と呼ばれ、2019年、令和の大嘗祭では、5月13日に行われました。

「斎田点定の儀」がとり行われたのは、皇居、宮中三殿の神殿と神殿前庭です。

「大嘗祭」の祭祀は、所作が2度繰り返されるため、斎田も2か所あります。

特別に初穂を耕作して献上する斎田は、「悠紀(ゆき)」国と「主基(すき)」国と言います。

「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」=「斎城(聖域)」という意味であり、「主基」は「次(ユキに次ぐ)」という意味です。

また、「悠紀」は東日本、「主基」は西日本と定められています。

この「悠紀(ゆき)」と「主基(すき)」からなる2つの斎田は、「亀卜(きぼく)」と呼ばれる、カメの甲羅を使った占いで決められます。

亀卜は、東京都の小笠原から取り寄せたアオウミガメの甲羅に熱を加え、生じたヒビの形状を観て占う占いで、もちろん令和の「大嘗祭」でも行われました。

ただしここで決められるのは、あくまでも地域のみです。ここで地域を定め、改めて斎田をどこにするか決めることになります。

亀卜の結果、令和の斎田に選ばれたのは

  • 「悠紀田(ゆきでん)」は栃木県
  • 「主基田(すきでん)」が京都府

以上の地域となりました。

このようにして選ばれた斎田から収穫した初穂は、11月の祭日に御所の一角に仮設された掘立茅葺(ほったてかやぶき)の「大嘗宮(東に悠紀殿、西に主基殿の計2殿)」に運ばれ、天皇陛下が自らお供えし、食されます。

斎田からお米を取る稲刈り「斎田抜穂の儀」とは?

5月の「斎田点定の儀」によって、斎田が決まり、次には9月に「斎田抜穂(ぬきほ)の儀」が行われます。

これは、斎田から稲刈りを行うという儀式なのですが、斎田がどこになるかは、5月の時点で、まだ地域しか決まっていませんでしたよね。

9月に入り、宮内庁で、「斎田点定の儀」の結果を基に、どこの田から稲刈りをするかが決められます。

令和の場合、9月18日になって

  • 「悠紀田(ゆきでん)」は栃木県高根沢町(銘柄:とちぎの星」)
  • 「主基田(すきでん)」が京都府南丹市(銘柄:キヌヒカリ)

であることが決定、発表されました。

その僅か10日後、9月27日に「斎田抜穂の儀」の本番、すなわち稲刈りが行われました(令和の場合の日程です)。

「斎田抜穂の儀」では、陛下が田んぼまでいらっしゃるわけではなく、「抜穂使」という陛下からのお使い(神職の方)が田んぼへお出ましになり、祝詞をあげます。その後、稲刈りとなります。このとき刈るられる稲は60cm前後で、献上ではなく、宮内庁からの買取になるそうです。

斎田から収穫される稲は、精米で180kg、玄米が7.5kg。それぞれの斎田から収穫されます。

かなりの量ですが、お米として神様に供えられるほか、お酒に加工されたり、大嘗祭に伴う祝宴の料理としてもこの米が使われることになっているのです。

ちなみに、選ばれし斎田の持ち主は「大田主(おおたぬし)」と呼ばれ、地元の農家さんも「奉耕者」として、およそ20名が祭祀に列席します。いずれも烏帽子を被り、白装束での稲刈りとなります。参列者は前日26日にお祓いの儀式を受けるなど、準備も慌ただしく行われるのでしょう。

「大嘗祭」は過去、秘儀とされてきた儀式

「大嘗祭」の天皇陛下が宮殿内で行われる所作に関しては「秘儀」になっているので明らかになっていません。

おおまかな流れが記載されているのは、平安時代中期に編纂された『延喜式(えんぎしき)』という律令が書かれた書です。

しかしながら、実際の祭祀は秘儀であるため、その内容について様々な考察がなされてきました。

かつては、日本神話における天孫降臨(てんそんこうりん)の場面を再現がされ「天皇霊」を新しい天皇が身につける神事であるとする仮説が支持されていました。

その後、いくつかの仮説が挙がりますが「大嘗祭」とは新しい天皇が天照大神様を初めて迎えて、神様にお供えをし、そのお供えを天皇が自ら口にする「共食儀礼」を中心とする素朴な祭祀であるのではないかという仮説が数名の学者の見解と一致しました。

このような素朴な祭祀を行うことが、逆に天照大神の神威を高めることになり、天皇がその神威を享受するというという見解でもあります。

現在ではこの見解が主流となっていて、「天皇霊」を新しい天皇が身につける神事であるという仮説はほぼ完全に否定されています。

「秘儀」とは、視線を遮断し「見るな」ということです。

禁忌の領域に「大嘗祭」を位置付けることで、神秘性を高め、呪術的な力の存在を際立たせるためではないかと考えられます。

また、「見る」という行為で神聖な儀礼が穢されてはならないのです。

現代では、宮内庁が秘儀であることを否定している

秘儀とは、厳密に言えば、天皇が室内に籠もり、一切公開がなされることのない儀式のことを指します。

しかし平成の大嘗祭では、宮内庁が秘儀であることを否定し、さらには上述の「神となる」といったような儀式の概要についても宮内庁に公式に否定されました。

大嘗祭では、18時半からの儀式において電気の光が一切使われないため、終始薄暗く、陛下の様子はうかがい知ることがほとんどできません。しかしそれでも参列者はおり、秘儀とは呼べなくなったのが現代の大嘗祭です。

令和の大嘗祭においては、当時の安倍晋三首相含む三権の長、その他自治体代表などが招かれ、670人が参列し大嘗祭が行われています。

大嘗祭では何をするのか?儀式概要

大嘗祭は秘儀ではない、というスタンスに伴い、特に、中心的儀式である「悠紀殿供饌の儀」「主基殿供饌の儀」について、儀式内容が宮内庁から公表されています。

まずは悠紀殿において「悠紀殿供饌の儀」が行われ、次に全く同じことを主基殿において行うのが「主基殿供饌の儀」です。

どこか違うわけではなく、場所が違うだけで完全なる繰り返しになるとのこと。

陛下も大変です……。

儀式の概要は下記のとおりです。殿舎の場所は、後述の平面図を確認してください。

  1. 18:30頃参列者が幄舎(あくしゃ)に到着
  2. 稻舂歌(いなつきうた)を歌いながら精米、神饌(しんせん。神様のごはん)を調理
  3. 各都道府県の特産物(農林水産物)を所定の場所へ置く
  4. 掌典長による祝詞奏上
  5. 陛下が悠紀殿御座に着席
  6. 皇后陛下が悠紀殿後方の帳殿御座に着席
  7. 大和の国栖人(くず人)が演奏したと伝わる古代歌謡を演奏(=「国栖の古風(くずのいにしえぶり)」と言う)
  8. 風俗歌の演奏
  9. 皇后陛下による御拝礼
  10. 皇族殿下による御拝礼
  11. 参列者による拝礼
  12. 皇后陛下の御退出
  13. 神饌を本殿に運ぶ
  14. 陛下による神饌のお供え
  15. 陛下による御告文(おつげぶみ)の奏上
  16. 御直会(おんなおらい)。陛下が新穀で作られたお食事、お酒を召し上がる。
  17. 神饌を下げる
  18. 陛下の御退出
  19. 参列者の退出
  20. 1~19まではおよそ3時間。0時過ぎまで休憩となる
  21. 0時過ぎると主基殿において、1~19と全く同じことが行われる




大嘗祭では大嘗宮を新築する!?

農耕民族であった日本人にとって、新嘗祭は非常に重要な祭祀であり、その中でも特別な位置づけである大嘗祭は、古来きわめて重要性の高い祭祀でした。

したがって、大嘗祭を執り行うにあたっては、儀式の場となる建物「大嘗宮」を新築するのがならわしです。

令和の大嘗宮は、令和元年7月26日より、清水建設(株)によって造営が行われました。清水建設(株)は明治から大嘗宮の建設を担当しているようです。

この宮殿は大嘗祭にあたり建築され、令和では、大嘗祭終了後、11月21日から12月8日の18日間にわたって一般公開もされていました。

大嘗宮の場所は?

大嘗宮は、平安京遷都以降、江戸時代まで京都に建設されました。明治の大嘗祭は東京で、大正は京都で。平成、令和は再び東京で執り行われます。

平成および令和の大嘗宮の場所は、皇居・東御苑です。

テロ警戒のため、平成のときは工事が全く見えないように建築が行われていました。令和では工事風景も公開され、よりオープンな皇室の姿が明らかになったと受け止めることもできます。

大嘗宮の起源は?

大嘗宮は、奈良時代にも建てられていたと考えられます。なぜなら、平城宮跡から、大嘗宮の遺構が発見されているためです。

平安時代、9世紀後半に成立した『貞観儀式』にも、大嘗宮の作り方が明記されており、平安時代から現代までこれを参照して、都度新築されてきました。

したがって、大嘗宮の大まかな作りに関しては、平安時代の姿がほぼ正確に残っていると考えられます。

大嘗宮の建物や、中はどうなっているの?平面図はある?

令和の大嘗祭にあたっては、宮内庁が大嘗宮の平面図を公開しています。なお↑のカラー写真は「南神門」のものです。

大きな建物のうち、主基殿、悠紀殿の2ヶ所は、儀式が主に執り行われる主殿的役割を持っています。奥の廻立殿に関しては、陛下が沐浴を行うための建物です。

※宮内庁「大嘗宮について」より

悠紀殿および主基殿が建築される、中央部分の敷地面積は、およそ90メートル四方(詳細は次項目にて解説)。建物数は大小あわせて30余、建物総面積で約2,700㎡となります。

素材は伝統的に、質素なものであることが求められるようです。例えば

  • 床には筵、または畳表を敷く
  • 扉や壁には畳表を張る
  • 柱は唐松の黒木。皮つきのままの丸太

といった様々の条件があります。

大嘗宮の素材は約550㎥におよぶ木材で、主に

  • 唐松皮付丸太(長野産)
  • 杉皮付丸太(静岡産)
  • ヤチダモ皮付丸太(北海道産)

など、他に京都や奈良からも素材が調達されます。

この「建築」に参戦する宮大工は、最も忙しい8月で、1日120名ほどになるというから驚きです。

大嘗宮には通例から変更された令和オリジナルな部分も!

大体は伝統に則って建設される大嘗宮ですが、令和では色々な事情から、変更になった部分もありますのでご紹介しておきましょう。

サイズは平成の8割

大嘗宮について、さきほど「およそ90メートル四方」とお伝えしましたが、実は平成の大嘗宮に比べて、2割ほど規模が縮小されています。

  • 平成……東西95.4メートル、南北99メートル、敷地の面積は8,473平方メートル
  • 令和……東西89.7メートル、南北88.15メートル、敷地の面積は6,510平方メートル

人数減少による殿舎の規模縮小

皇族がたの数がやむを得ず減っています。男性皇族は平成のとき6名おられたものが、今回2名となっていました。

そこで、男性皇族の控え室である「小忌幄舎(おみのあくしゃ)」は前回規模のおよそ40%。

女性皇族の控え室である「殿外(でんがい)小忌幄舎」の規模も75%とされています。

令和の大嘗祭は参列者も減っているので、参列者用の建物である「幄舎」の規模縮小となりました。

絶対新品!→再利用できる建材へ。素材変更も

大嘗宮の建築は、常々、新しい木材を用いて行われてきましたが、経済的な面からも、エコという観点からも、造営し、使い、捨てるというスタイルから、建材再利用が可能なスタイルへと移行しつつあります。

主基殿、悠紀殿、廻立殿の3ヶ所については、過去には萱葺き屋根だったものが、板ぶき屋根に変更されました。

また、元々は全ての殿舎が木造でしたが、

  • 斎庫(さいこ):新しい穀物を保管する倉庫
  • 膳屋(かしわや):神様のお食事を調理するところ

の2ヶ所については建物そのものを木造からプレハブへと変更し、再利用可能、サスティナブル(持続可能)な大嘗祭を目指しています。

経済的な問題から扱いが難しい側面も

戦後、皇室典範からは大嘗祭に関する規定が削られ、法的な後ろ盾は現在全くありません。

そして、政治的に宗教行事を行ってはならない……という近代憲法の政教分離原則に則り、国の行事として大嘗祭を行うことも、本来はやってはいけないということになっています。

したがって大嘗祭は現在、国事行為ではなく、令和の大嘗祭も公的な皇室行事として、宮廷費(皇室に割り当てられた税金のうち、公費の扱いとなるもの)を用いて執り行われました。

一方で、天皇家の私的な費用、生活費にあたる内廷費を用いて、経済的に無理のない大嘗祭を行うべきである、という意見も、皇室内から出始めています(秋篠宮さまなど)。

令和の大嘗祭のために建設された大嘗宮の建築費は9億5700万円。それでも大嘗宮の規模は2割縮小されていますし、平成の大嘗宮にかかった費用は14億5000万円だったと言います。

このような巨額出費になっているのは、天皇を神格化していた戦前の建物規模を参照しているためで、それよりも以前はもっともっと簡素な建物であったとも伝えられており、今後どのような扱いになっていくのかはまだまだ不明で、特に大嘗宮の規模や内容に今後大きな変動があることも考えられます。




大嘗祭の限定御朱印はある?

令和元年に大嘗祭を奉祝して各地で頒布された、限定御朱印の一部をご紹介します。

烏森神社(東京都)

牛天神北野神社(東京都)

蛇窪神社(東京都)

馬場氷川神社(埼玉県)

羊神社(愛知県)

素鵞神社(茨城県)

櫻岡大神宮(宮城県)

非常に数が多いため、一部しかご紹介できませんでしたが、大嘗祭の開催に伴って全国各地で特別な御朱印が頒布されたことがわかります。

大嘗祭の関連記事

変わりつつある大嘗祭にぜひ興味を持って

奈良時代からの深い歴史を持つ大嘗祭も、平成から令和に至るまで、様々な変化をしていることがおわかりいただけたのではないかと思います。

なぜ、このような変化が起こっているのか。

それは、もちろん皇族の方の数が減少していることや、お金、予算の問題、国家行事ではなく皇室の私的な行事として扱うべきなのではないか……という政治倫理的な問題もあります。

同時に、国民の関心が大嘗祭や新嘗祭から離れていっていることも、大嘗祭の様相が変化せざるを得ない現状を招いていることを、ぜひ知っておきたいですね。

大嘗祭は、五穀豊穣、国家繁栄を願う皇室行事の中でも、他のどれよりも大切と言えるほどの重大行事です。

日本の国民として関心を寄せ、また、農耕民族として、天地の恵みによって生かされている者の一員として、大自然を敬い、豊穣を願う謙虚さは持ち続けていきたいと考えます。

Writing:YUKIKO-加藤

Writing・監修・編集:陰陽師の末裔/占い師・パワーストーンアドバイザー
あん茉莉安(ホームページ

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