神社に行って、一種のイベントのように楽しんでいる面も否めない「おみくじ」。
しかしよく考えると、深い歴史的な背景がありそうです。
おみくじの起源は一体どこにあったのでしょうか。
そんな「おみくじ」のあれこれについて、まとめました。
目次
おみくじの言葉の由来(語源)と読み方
「おみくじ」の歴史を紐解く前に「”おみくじ”という言葉の語源」について、チェックしておきましょう。
日本では古来より国政や祭事についての重要なことを決める時に、籤(くじ)を引くことで神様からのお告げを占い、進むべき道を決めていました。
おみくじは元々、「籤(くじ)」という言葉から来たもので、尊敬の接頭語である「御」をつけて「御籤(みくじ)」とも書きます。
よって本来の言い方は「籤」であり、「御」を前に付加することによって「御籤」として敬意を評しています。
この「御籤」にさらに尊敬の接頭語「御」をつけて「御御籤(おみくじ)」となったのが、「おみくじ」の言葉の起源であり、語源になります。
「御神籤」「御仏籤」と表記される
この2つ目の「御」を当て字に変化させて、「御神籤」「御仏籤」と表記されることもあります。
ただ、「御神籤」の「神」の字は神仏への敬意や信仰の念から派生した当て字にしか過ぎないことは明白です。
「御神輿(おみこし)」や、「御神酒(おみき)」など、神様に通じるものは「おみ」から始まる言葉が多いです。
神様に対して、「お」が1つだけでは恐れ多いという事でしょう。
おみくじの起源
実のところ、おみくじがいつ頃誕生したのか?‥というような明確な回答はなく、現在まで起源は謎とされています。
ただ、日本最古の古書物と目される日本書紀には「玉籤太萬久之」の記載があり、すなわちこれは現今の籤(くじ)のことを指すものです。
古代では籤は「孔子(くじ)」とも書かれています。
おみくじの歴史
古代における「籤」は、国の政治を行う者が、今でいう政策を決定する手段でした。
戦のときは、勝利するための必勝法を探るべく、戦のゆくえや方法を占うものでもありました。
つまり国政を左右する占い方法が「籤」だったわけです。
以降、この籤が広く使われるようになり、為政者(いせいしゃ/政治家以外の大衆)が寺社で籤を引くようになったのが鎌倉時代。それがより一般的に広まったのが江戸時代と言われています。
江戸時代に、天台宗の僧侶であった慈眼大師・天海大僧正(南光坊天海)の夢枕に、平安時代の天台宗の僧侶であった慈恵大師・良源(じえだいし・りょうげん)が立ち、おみくじを伝えた…との伝説が残っています。
おみくじの創始者と言われているのが上述の良源ですが、天海がこれをさらに庶民に広め、江戸時代には寺社でおみくじを引くことが、広く行われたと言われています。
各時代のおみくじの変遷
672年の壬申の乱(じんしんのらん)の折、大海人皇子(おおあまのおうじ/のちの天武天皇)が、ヒネり文をとって謀反のことを占ったとの記述が見られます。
730年(天平2年)正月、聖武天皇が太極殿の宴の折、仁・義・礼・智・信の5文字を書いたヒネり文を取らせて、その時によって賜り物を与えたのが福引の起源であるとされています。
ちなみに「ヒネり文(捻り文)」とは、現在のおみくじの原型ともいえるべきものであり、細く切った数枚の紙それぞれに物事を書き記し、折りヒネってクジとしたものです。これを手で探り取ったので、いわゆる、現今の御籤の前身にあたるものであり、占いの一種でもあります。
この他、鎌倉時代の「吾妻鏡・東鑑」や、「貞丈雑記」「嬉遊笑覧」などにも籤についての記述が見られます。
中でも岡崎藩の儒者・近藤瓶城(
おみくじが江戸時代に広まった理由
天海大僧正は徳川家康公、秀忠公、家光公の3代将軍の懐刀として、お側近くに仕えています。
自身が天台宗のトップということもあり、日本国内の様々な仏教勢力との橋渡し役として、はたまた上記の御籤を用いて吉凶を占い、幕府の政策方針や行く末を進言していたと云われています。
その他、これはあまり知られていませんが、なんと!天海大僧正は神道系でもある「陰陽師(おんみょうじ)」としての側面を併せ持っていたと伝えられています。
以上のことから江戸幕府開創における中心的人物であり、陰陽道や占いを用いて幕府の根幹を成す設計にも深く携わったと云われています。
このような背景から、天海大僧正によって江戸時代に「おみくじ」が広まったのは必然と捉えることができます。
人寄せ・信仰の切り札として活用されて広まった
それともう1つは当時の社寺の在り方です。
江戸に幕府が開かれた後、江戸の人口が日増しに増加していくにつれ、社寺も建てられるようになります。
社寺も人寄せして信仰を集める必要がありますので、特に人前であまり話せないような内容の身の内相談などは「籤を引くのが良い」として、これを大いに活用したことも広まった理由になるのでしょう。
行商人たちが盛んに活用した
織田信長が中央地域一帯を制圧した頃、信長公はそれまで社寺や武家などが徴収していた通行税の制度を撤廃します。
税金がかからないので、行商人たちは遠地まで行くことが可能になり、その旅の途中で立ち寄ったとされるのが有名な多賀大社です。
行商人たちは概ねほぼ必ずと言って良いほど中仙道を経て、関東や東北へ向かうので、その中仙道の途上付近に位置する多賀大社へ立ち寄って、長旅の無事を祈願して籤を引いたのです。
お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り
伊勢へ七度、熊野へ三度、芝の愛宕は月参り
‥などといった俗謡も生まれたほどです。
この名残りといってはなんですが、現在の多賀大社のおみくじをご覧になれば分かりますが、商売を営んでいる人へ向けたようなメッセージの書かれ方をしています。
おみくじの原点とも言える「元三大師百籤」とは?
おみくじの起源は不詳とされていますが、おみくじの原点となるもの、つまり体系がまとめられた書物となるものであればあります。
それが「元三大師百籤(がんさんたいしひゃくせん)」ですが、現今の籤の原点となる書物がいくつかあるのも事実です。
- 待乳山聖天(東京都台東区)の「観音百籤」
- 正覚寺(東京)「元三大師御鬮帳」
※注釈※鬮=籤(くじ) - 喜多院(川越市)「元三大師百籤和解(1734年版)」
- 比叡山延暦寺「元三大師御鬮判断諸抄」
以上、他にもあるかもしれませんが、これらの書籍も叡山(天台宗)・第十八世座主「良源(りょうげん)」という高僧が、人の運勢や吉凶を五言四行の漢詩百首で詠んだものが始まりと云われます。
これら、「観音百籤」「元三大師御鬮帳」「元三大師百籤和解(1734年版)」には、第一番の大吉から第一百番の凶までの一連番号になっており、その結果によって運勢を占うようになっています。
ところで・・『元三大師御籤帳』とは本当に良源が書いたもの??
尚、上述した『元三大師御籤帳』は実際には良源が書き記した書物ではなく、詳しくは「天竺霊籤(てんじくれいせん)」と呼称される中国の書物が見本として書き記されています。
天竺霊籤には1番から100番までの百首の詩が書き記されており、つまりは現代のおみくじの起源になります。
作者は不明とされていますが、平安時代にはすでに日本に伝来していたようで、後、江戸時代に上述の天海大僧正によって日本中に広まり現代に至っています。
様々なおみくじが登場した背景
上述では、神社やお寺によっておみくじが異なり、様々な種類のおみくじがあるとご紹介しました。
現在のおみくじは上述の「元三大師御籤帳」が起源とされていますが、実は明治初頭に政府が発令した神仏分離令が大きく影響し、おみくじの種類が本来の元三大師御籤帳と比較すると、よりバラエティー性に富んだものに変化することになります。
神仏分離令がおみくじにどのような影響を及ぼしたのかと言いますと、元三大師御籤帳の内容は仏教色が色濃く記され、明治政府が検閲などで目を光らせていた背景があったため、仏教色が薄い現在のようなおみくじの姿に変貌を遂げたと言われています。
えっ!?おみくじはとある神社の製作所で作られている??
現在、全国の寺社で授与されているおみくじは、ほとんど「とある神社」にて一括して作られているのを御存じでしょうか?
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