12月になると、年末年始に向けて人々も街中も普段よりいっそう慌ただしくなります。
そんな、年末ムードを盛り上げるイベントの1つとして「歳の市」は行われます。
最近では、12月の中旬から下旬に「歳の市」と称したセールがスーパーや百貨店でも盛大に行われるので、ご存じの方も多いかもしれません。
しかし、本来は社寺の境内や門前で毎月開催される縁日であったことをご存じでしょうか?
今回は「歳の市」に着目して、いつ行われるのか?意味や由来、歴史などを詳しくご紹介します。
有名な「歳の市」もご紹介するので、足を延ばしてみるきっかけにしてみて下さい。
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「歳の市」の読み方
「歳の市」は「としのいち」と読みます。
「年の市」という書き方もありますが同じ意味です。
他にも、「暮市(くれいち)」や「節気市(せっきいち)」、「詰市(つめいち)」や「捨市(すていち)」などとも呼ばれています。
「歳の市」とは?
「歳の市 」とは、年末にお正月の飾り物や羽子板、縁起物などを売る市のことを指します。
「市」は、神社仏閣で「縁の日」などの参拝客の集まる日に合わせて、近隣の商売を営む人々が日常生活用品を売るためにできたものです。
かつては毎月行われていた「定期市」だったことから、その「市」の中でも1年の最後の「市」のことを「歳の市」と呼ぶようになりました。
「歳の市」は、年末に開催され、お正月用の用具や飾り物、雑貨に衣類、海産物などの商品を売ることを目的としています。
お正月用品を扱う「年末(暮)に行われる市」なので「暮市」、「節季市」、「ツメ市」、「晦日市(みそかいち)」、「十日市」などいった別名も生まれました。
現在では商店も発達して販売方法も多岐にわたっていますが、年末になると人が多く行き交う社寺の境内や、路傍などの決まった場所に「歳の市」は設けられます。
近隣の住民にとって「歳の市」で買物をすることは年中行事の一環になっているようです。
「歳の市」は不思議な場所⁈
古くから「歳の市」には、不思議なことが起こるといった言い伝えが全国に残っています。
例えば、青森県三戸地方の「歳の市」には、親に似た人が出るという伝承がありますし、長野県の北安曇郡や上水内郡の「暮市」には、山奥に棲む老女の妖怪「山姥(やまうば)」が現れると言う言い伝えが残っています。
他にも、全国各地の「歳の市」には、その年に亡くなった方が買い物に来ているとか、地域の妖怪が夜店を出しているなどといった話もあるようです。
1年の終わりの「歳の市」は、霊や妖怪も行き交う不思議な「市」なのかもしれません。
「歳の市」はいつ?
「歳の市」は一般的に、12月の中旬から下旬に行われます。
お正月の準備に使うものを販売しているので、12月13日から23日ごろまでが多いようです。
もっと年末になってしまうと、神社仏閣も初詣の準備で忙しくなりますし、お正月飾りは12月26日から12月28日が望ましいとされているので、お正月用品はそれまでに手に入れたいものです。
いつ開催されるかの詳しい日程は、場所によって異なります。
- 浅草観音(台東区浅草)12月17日、18日、19日の3日間開催
- 神田明神(千代田区外神田)12月20日、21日に開催
- 薬研堀不動院(中央区東日本橋)12月26日、27日、28日の3日間
ちなみに、「薬研堀不動院」の「歳の市」の中でも年末に行われるため「納めの歳の市」と呼ばれています。
年末に「歳の市」巡りをしてみるのはいかがでしょうか?
2020年の歳の市はいつ?
週末を利用して開催されることが多いので、2020年12月12日の土曜日から12月27日の日曜日までに開催されることが多いと思います。
しかし、開催される場所や市によっても変わるので、行こうと考えている「歳の市」の日程は事前に確認しましょう。
「歳の市」の由来
「歳の市」の由来は、浅草にあります。
江戸時代の中頃に江戸にある浅草で開催されたのが最初と言われているのです。
浅草から始まった「歳の市」は、だんだんと江戸中に広がりを見せます。
どれも同じような市ではありましたが、その中でも多くの人が集まり人気を集めていたのが、浅草寺境内で行われていた「浅草観音の歳の市」でした。
その盛況ぶりは凄く、どこも人でごった返していたそうです。
「歳の市」の歴史
先ほどお話ししたように、「歳の市」は江戸時代の万治年間(1658年~1661年)頃に江戸の浅草で開催されたのをきっかけにして広がり、盛んになりました。
そもそも、神社仏閣で毎月行われていた縁日に合わせて、参拝客が集まる社寺の境内や門前などに「市」ができたことが始まりです。
初めは大きな都市だけにみられる「市」でしたが、次第に地方都市でも各地に「歳の市」が立つようになります。
人々の人気を集めていた「市」ですが、明治時代になると徐々に開催される「市」の数は少なくなってきてしまいます。
理由として大きかったのは、商店が出現し、お正月関係の商品は商店で取り扱うようになったことです。
「商店」の登場により、「市」をわざわざ開催する必要もなく、また「市」の開催日に合わせて出向く必要もなくなってしまったのです。
「市」の減少はルーツであった浅草でもみられ、お正月用品を販売する出店は少なくなりました。
しかし、浅草ではお正月商品に代わって注目を集めたのが羽子板だったので、羽子板を出すところが増えていったのです。
現在でも、浅草の浅草観音で行われる「歳の市」は「羽子板市」として賑わいを見せています。
「歳の市」の意味
なぜ、「歳の市」ではお正月飾りだけでなく日用品も売っていたのでしょうか?
そこには、昔の人が「新年に向けて日用品も新調する」という習慣があったことに由来します。
1年に1度、我が家に来てくださる「歳神様」をお迎えするために、年末になると大掃除をして家をきれいにし、新調品を揃え、お正月飾りを飾ります。
掃除をしたり、新しい物を揃えたりして、人々は身の回りをきれいにし、年内にあった嫌なことや災いなどの厄をなるべく落として新しい年を迎えたいという願いも込められていたのです。
このように「歳の市」には、「新年に向けて家をk日用品も新調する」という習慣から、お正月用品を手に入れる、新しい日用品を用意するという意味がありました。
「歳の市」の元祖・浅草寺の「羽子板市」
ここで、元祖「歳の市」である浅草の羽子板市について詳しく見てみましょう。
浅草寺の「歳の市」
毎月18日は、浅草寺のご本尊である観世音菩薩の縁日の日です。
なかでも12月18日は「納めの観音」と呼ばれていて特に参拝者が多くなります。
そして、この12月18日を挟むようにして、毎年12月17日、18日、19日の3日間に「歳の市」が開催されます。
江戸時代、「観音の縁日」の中でも12月18日の「納めの観音」に多くの人出が予想されたことから、境内にお正月用の品や縁起物の品を売る露店がいつもより集まったことが始まりです。
商品は、神棚、しめ縄、三方(さんぼう)などのお正月に飾る物、たい、えび、昆布などの海産物を中心とした食べ物、凧(たこ)や羽子板といった縁起物を売る露店などが立ち並んでいたそうです。
江戸の「歳の市」は、この「市」が最も古いとされ、1659年(万治元年)頃に始まったと言われています。
「歳の市」は他の寺社周辺でも開催されていましたが、浅草寺の「歳の市」は「浅草観音の歳の市」とも呼ばれ、規模は江戸随一、浅草橋から上野に至るまで多くの店が立ち並んで大変賑わいました。
「歳の市」から「羽子板市」へ
もともとは日常生活用品や新年を迎えるためのお正月用品を主に販売していた浅草の「歳の市」でしたが、それに羽子板の販売が加わり、華やかさが人目をひくようになります。
押し絵の羽子板が「市」の主な商品となった「歳の市」。
江戸時代末期頃になると「羽子板」を売る店はさらに多くなり、いつしか「羽子板市」と言われるようになりました。
現在でも毎年12月17日、18日、19日の3日間に「羽子板市」は行われます。
浅草寺の境内には、数十軒の羽子板を売る店が立ち並び、店主の口上とお客さんとのやりとりも面白い市です。
「羽子板」はブロマイド変わり?
江戸時代中頃に盛り上がった「羽子板市」。
当時は、歌舞伎の人気役者の舞台姿を写した「羽子板」が市に並んでいました。
人々は自分の贔屓(ひいき)役者の「羽子板」や人気役者の当り狂言、舞台姿の「羽子板」を競って買い求めました。
まさに「羽子板」はブロマイド。
「羽子板」の売れ行きが人気のバロメーターともなるほど大変な人気だったようです。
なぜそんなに「羽子板市」が大変賑わったのか?
その理由は、その頃「羽子板」が買える場所は「市」しかなかったからです。
そのため、女性たちは師走の東京の各所に立ち並ぶ「羽子板市」を楽しみにしていて、贔屓役者が描かれた「羽子板」を求めて「市」に走ったのです。
現代でも、浅草寺の境内には江戸時代のままの情景の「羽子板市」を見ることができます。
どうして「羽子板」を売るのか?
「羽子板」の歴史は古く、以前は神社などで魔除けや占いの神事に使われていたと考えられています。
そんな「羽子板」をお正月の遊びや贈り物、飾りに使うようになったのは室町時代です。
昔の「羽子板」は、「胡鬼板(こぎいた)」や「羽子木板(はねこいた)」と呼ばれていて、「羽子板」の「羽子(羽根)」は、「胡鬼の子(はごの子)」、「つくばね」と呼ばれていました。
その当時の記録が残っています。
『看聞御記(かんもんぎょき)』と呼ばれる、貞成親王(さだふさしんのう)自筆の将軍足利義教時代の幕政や世相、自身の身辺などについて記された書には、室町時代の永享4年(1432年)1月5日に、宮中に宮様や公卿、女官などが集まって、男組と女組に分かれたあとで「こぎの子勝負」が行われたと記録されています。
つまり、お正月のイベントの1つとして「羽根つき」を楽しんでいたのです。
戦国時代になると、「羽根つき」には厄払いの効果があるとされ、また、江戸時代になると年末の邪気よけとして「羽子板」は贈り物にされるようになります。
このことから、今でも女の子の初正月に「羽子板」を贈ることが習慣として残っているのです。
災厄を被い、幸福を祈る気持ちが込められた「羽子板」は、お正月の遊びや新年を迎える贈り物としてふさわしく、誕生したばかりの赤ちゃんの健やかな成長を祈るうえでもふさわしい贈り物です。
幕末頃には、「羽子板」を女の子が誕生した家に贈る風習も根付き、「羽子板」店は増えていきました。
そのため、お正月用品は露店以外でも手に入りやすくなったようです。
現在の「羽子板市」は、その年の世相を反映した「羽子板」が飾られて毎年話題になります。
遊ぶ「羽子板」と飾る「羽子板」
伝統的なお正月の遊びである「羽根つき」。
この「羽根つき」で使うのは、遊び用の「羽子板」です。
羽根についた黒い玉は「むくろじ」という木の種です。
漢字で書くと「無患子」と書き、「子どもに患いが無いように」という無病息災の願いが込められていると言われています。
また、「羽子つき」の羽根が、虫を食べるトンボに似ているとして「悪い虫(病気)を食べる」といういわれや、羽根の先端に付いている「豆」から、「まめに暮らすことができる」を連想させることから、羽根つきの羽も縁起物です。
この羽で、お正月に羽つきをすると、その年の厄払いや魔除けができると言われているのです。
一方で、役者や舞妓などの絵柄に押し絵細工を施した「羽子板」は飾り用です。
こちらも厄除けや魔除けになるとされていて、女の子の初正月に健やかな成長を願って贈る習慣があります。
さらに、「羽子板」は、無病息災や家内安全のみならず、景気をはね上げる商売繁盛の縁起物としてもお店に飾られることもあります。
「羽子板」の形が末広がりになっていることも縁起のよさにつながるようです。
現代の「羽子板市」
現代行われている「羽子板市」も、江戸風情を今に残す粋な市として有名です。
「羽子板市」には、浅草寺の境内に約50軒の「羽子板」のお店が軒を連ねています。
特に迫力があって目につくのは、浅草寺本堂内にある3mの大羽子板です。
歌舞伎の絵柄ももちろんありますが、今年話題のタレントや時事ネタの「羽子板」が人気のようです。
中には、羽や凧などを扱うお店もあるようです。
- 開催期間:12月17日~19日
- 開催時間:9:00~22:00頃
- 入場無料
- 駐車場なし
- 住所:東京都台東区浅草2-3-1 浅草寺五重塔前
全国の有名な「歳の市」
他にも多くの「歳の市」が残っています。
一部の「歳の市」をご紹介しましょう。
世田谷区の「ボロ市」
毎年、年末年始に4日だけ開かれる「ボロ市」は、430年以上の歴史をもつ大変古い伝統行事です。
約700店の露店が並び、1日におよそ20万人もの人出で賑わう「ボロ市」には、骨董品や日用雑貨、古本などのお店が軒を連ねます。
「ボロ市」の歴史
世田谷区のボロ市の歴史は古く、安土桃山時代(1573年~1603年)まで遡ります。
当時、関東地方を支配していた小田原城主であった北条氏政(ほうじょう うじまさ)は、天正6年(1578年)に世田谷城下に楽市を開きました。
楽市と言うのは経済政策の一環で、市場税を一切免除して自由な行商販売を認めるというものです。
この楽市には、江戸と小田原の間にある世田谷宿において公用で使うための馬の確保をし、宿場を繁栄させようという目的があったようです。
楽市は、毎月1日、6日、11日、16日、21日、26日に開かれました。
月に6回開かれていたので、「六斎市(ろくさいいち)」とも呼ばれていました。
その後、北条氏が豊臣秀吉に1590年の小田原征伐で滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開いたことから、北条氏の配下であった吉良氏の世田谷城も廃止されます。
城下町としての存在意義は急速に衰え、楽市も衰退しました。
しかし、その後も近郊住民の農村の需要を満たすために、年末に開かれる「歳の市」に形を変えて存続しました。
明治の新暦採用後には、12月15日・16日の両日のみならず、正月の15日・16日の両日にも開かれるようになります。
すると再び賑わいは復活し、昭和10年代の最盛期には約2000の露店が並んだそうです。
1994年9月には世田谷区、2007年2月には東京都から、「無形民俗文化財」として指定されています。
なぜ「ボロ市」と呼ぶのか?
それにしても、「ボロ市」という名前はなぜついたのでしょうか?
楽市から「歳の市」として開かれていましたが、明治20年代になると古着やボロ布の扱いが主流となっていきます。
そのため、「ボロ市」と呼ばれるようになりました。
わらじを強くするために、ボロ布を編み込んでいたことからボロ布の需要が高かったともいわれています。
正式に「ボロ市」という名称となったのは第二次世界大戦後からですが、明治の終わり頃にはすでに世田谷の「ボロ市」は定着していました。
「ボロ市」名物「代官餅」
1975年からこの「ボロ市」で発売され、名物となっているのが「代官餅」です。
「ボロ市」の会場でのみ製造され、販売することと、味の評判から長蛇の列ができほど人気の名物です。
つきたてのお餅が5~6個1パックになったもので、あんこ、きなこ、大根おろしを使ったからみの3種類の味が楽しめます。
ちなみに、「ボロ市」では江戸時代の代官による市視察を再現した「代官行列」が5年に1度行われます。
現代の「ボロ市」
現代では、地元の町会や商店会を中心に結成された「せたがやボロ市保存会」によって主催され、世田谷区の世田谷一丁目にある世田谷代官屋敷付近の通称「ボロ市通り」とその周辺で開催されます。
毎年1月15日、16日と12月15日、16日の9時から21時まで約700軒近くの露店が軒を連ねます。
各日20万人近くの人で賑わう上に、開催日は固定日となっているので、土曜日や日曜日に「ボロ市」があたる場合には、激しい混雑になり、期間中は、最寄り駅となる駅や東急世田谷線は、臨時ダイヤで運行されるほどです。
- 開催期間:12月15日、16日と1月15日、16日
- 開催時間:9:00~20:00
- 入場無料
- 駐車場なし
- 住所:東京都世田谷区世田谷1(ボロ市通り)周辺
薬研堀不動院の「納めの歳の市」
江戸時代は各地で「歳の市」が行われていましたが、その最後を飾るのが薬研堀不動尊の「歳の市」です。
古くから目黒、目白と並び江戸三大不動として知られる薬研堀不動院を中心として行われる行事で、『江戸名所図会』をはじめとする多くの文献に紹介されています。
現在では、問屋の町として有名な地元商店会が主催する「大出庫市(おおでこいち)」も併せて開催されることから、衣料品や靴などの日用雑貨が格安で売り出されます。
薬研堀不動院とは?
薬研堀不動院は、神奈川県川崎市にある川崎大師の東京別院です。
御本尊は、不動明王。
崇徳天皇の時代である、保延3年(1137年)に真言宗に多大な功績があったと評価を受け仰がれていた「興教大師 覚鑁上人(こうぎょうだいし かくばんしょうにん )」が、43歳の厄年を無事にすまされた御礼として、仏像を彫刻するときに一刻みするごとに三度礼拝しながら作った不動明王で、紀州・根来寺(ねごろじ)に安置されたものです。
その後、天正13年(1585年)に豊臣秀吉軍より攻められた際に、根来寺の僧侶はそのご尊像を守り葛篭(つづら)に納めて、背負って東国に下ったそうです。
そして、隅田川のほとりにあるこの地に霊地をさだめて、天正19年(1591年)にお堂を建立しました。
これが現在の薬研堀不動院のはじまりです。
明治25年(1892年)に川崎大師の東京別院となりましたが、順天堂の学祖である佐藤泰然(たいぜん)が、天保9年(1838年)にオランダ医学塾を開講した歴史のある場所でもあります。
「納めの歳の市」の今と昔
現在でも、薬研堀不動院を中心として、近隣の地区も大々的なセールが行われます。
東日本橋の地区はかつて江戸城や日光街道、奥州街道へと続く江戸のメインストリートになっていたことから。大変賑わうと町でした。
多くの問屋や商店が軒を連ねるだけではなく、隣接する両国広小路には芝居小屋や屋台も立ち並び、江戸有数の繁華街として栄えていた場所です。
江戸時代から始まって、明治以降に盛んになった「納めの歳の市」。
戦前は浅草のように羽子板屋やお正月用品、祝儀物を並べた露店が並んで、賑わっていたそうです。
戦後に一度衰退をしてしまいましたが、1962年(昭和37年)に地元町内会が復活させます。
さらに1965年(昭和40年)からは、付近の問屋街の協賛で衣料品や靴、日用雑貨などを販売する「大出庫市(おおでこいち)」を同時に開催するようになりました。
「日本一の問屋街」とも呼ばれるこの地区には、例年100軒ほどの露店が立ち並びます。
通常は問屋街に縁のない一般客も市価の半値以下で販売される商品が多いことから、毎年約3万人の買い物客が詰め掛けます。
- 開催期間:12月26日、27日、28日
- 開催時間:11:00~19:00
- 入場無料
- 駐車場なし
- 住所:薬研堀不動院付近の東日本橋二丁目町会路上
埼玉県浦和の「十二日まち(じゅうにんちまち)」
「十二日まち」は、明治時代から埼玉県さいたま市浦和区で続く「歳の市」です。
露店は、月待信仰が古くからあり狛犬ではなく狛ウサギがある神社として知られる「調神社(つきじんじゃ)」と隣接する調公園が中心です。
新年の福迎え行事として行われていて、縁起物の露店が立ち並びます。
社務所では、名物になっている福を呼ぶ呼び声と共に「かっこめ」という小さな熊手を用意していて、参拝者を迎えます。
露店の数は多く、毎年約1000店出店し、約15万人ほどの人出で溢れかえる行事です。
埼玉県浦和の「十二日まち(じゅうにんちまち)」
- 開催日時:12月12日
- 開催時間:11:00~21:30
- 入場無料
- 駐車場なし
- 住所:埼玉県さいたま市浦和区岸町3(調神社)周辺
「歳の市」と俳句
「歳の市(年の位置)」は、「冬の行事」を表す「仲冬」に分類される季語です。
「暮の市」、「節季市」、「暮市」、「歳末大売出し」、「師走の市」も同じような意味で使われます。
季節を感じる松尾芭蕉の俳句をいくつかご紹介しましょう。
「何にこの 師走の市に ゆくからす 」
解釈はこのようになります。
師走で賑わっている街中に、カラスが行こうとしている。
このカラスは何のためにあえて人ごみへ出かけていくのか。
芭蕉46歳の時のカラスを擬人化している俳句です。
「年の市 線香買いに 出でばやな」
忙しない年の瀬。
人々は慌ただしく新年を迎える準備のために「歳の市」へ買い出しに出かけていきます。
芭蕉のように、隠れるように安らぎを求めて暮らす隠者にとって、慌ただしさは無縁ですが、縁がないわけでもありません。
隠者の家にしめ縄はつけられないが、いっそ線香でも買いにいこうか。
線香は「歳の市」には並んでいないと思うけど。
というような解釈になる俳句です。
浮世絵で見る「歳の市」
浮世絵にも「歳の市」が描かれていますのでご紹介しましょう。
描いたのは、江戸時代の浮世絵師として活躍をした歌川広重(うたがわ ひろしげ:1797年(寛政9年)~1858年10月12日(安政5年9月6日))です。
『東海道五十三次』を描いた人として有名な歌川広重ですが、自身も江戸に住んでいたこともあり、江戸の名所を描いた『名所江戸百景』も代表作の1つとして挙げられます。
『名所江戸百景』の中で、第99景となる『浅草金龍山(きんりゅうざん)』に「歳の市」は描かれています。
金龍山とは、浅草寺の山号(仏教の寺院に付ける称号)のことです。
つまり、舞台は浅草の浅草寺の「歳の市」です。
他にも浮世絵には、師走の浅草の風物詩である12月17日と18日の「歳の市」を題材にしたものが多く残っています。
歌川広重も、賑わう「歳の市」の様子を描いた絵をいくつか残していますが、この作品は「歳の市」の賑やかさとは打って変わって、静寂に包まれています。
境内の参拝客も数人で、雷門の大提灯(ちょうちん)の下から雪景色を臨む作品。
日頃の喧騒とは違った雰囲気の師走の浅草を、朱色と白のコントラストで表現した美しい1作品です。
年の瀬には「歳の市」へ出かけよう!
「歳の市」は、現代もなお江戸時代の風情が残る年の瀬の風物詩です。
忙しい年末ですが、せっかくお正月の準備をするのでしたら「歳の市」巡りをするのはいかがでしょうか?
いつまでも大切にしたい日本人の心に残る行事のひとつ。
「歳の市」でお買い物に合わせて、今年無事に過ごせた感謝を込めてお参りをしましょう。
慌ただしい師走に、少し心の余裕ができて素敵な年末年始がおくれると思いますよ。
Writing:YUKIKO-加藤