亥の子の祝いとは?「亥の子突き」って何故するの?食べ物や意味、地域や時期など

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「亥の子の祝い」は、西日本では比較的メジャーなお祭りなのですが、反対に関東以北ではほとんど行われていないので、「何それ? 聞いたこともない……」と思う方も結構いるのが現状です。

今回は、そんな(関東民、東北民にとって)謎多き「亥の子の祝い」について、意味、由来、亥の子祝いで食べる食べ物などを紐解いていきます。

目次




亥の子の祝いとは?!

亥子の祝いとは、多産のイノシシにあやかって、子孫繁栄を願うお祭りです。

子孫繁栄を原点として、豊作や家内安全など、様々なことを祝ったり、願ったりするようになりましたが、亥の子の祝いを行う地域は主に西日本ですので、東日本ではまだ知名度が低いお祝いと言えます。

お祝い、お祭りの内容、亥の子の祝いにまつわる風習等については詳しく後述します。

「亥の子の祝い」読み方、別称、別表記

「亥の子の祝い」は、「いのこのいわい」と読みます。

漢字で書くと「亥の子の祝い」が一般的ですが、「いのこ」は「豕の子」とも書きます。

また「亥の子祝い」としたり、あるいは「亥の子の祭り」と称することもあります。

別称に「玄猪」(げんちょ)という呼び方もありますが、基本的にはどれも、同じお祝いのことを指しています。

亥の子祝いはなぜ「玄猪」?

亥の子祝いの別名に「玄猪」があります。

この「玄」は、「黒色」を表す言葉です。良く「玄人」を「くろうと」と読みますが、「玄」は五行の水のことを示し、猪もまた五行で言うと水に該当します。

「玄猪」の名称は、亥の子の祝いがかなり古代的な祭祀の流れを汲むことを暗示していますね。

亥の子の祝いの意味・由来とは?

それでは、亥の子の祝いの意味や由来を確認してみましょう。

「亥(いのしし)」にあやかって……亥の意味は「猪」であり「11月」、再生のための準備期間

「亥の子」の「亥」は、十二支のひとつ、亥(い・イノシシ)のこと。

現在は「亥年生まれです」などと、年を表すために十二支を使うことが多いですね。

しかし昔は、月・日・時刻・方位を表す時にも十二支を使っていました。

このうち、「亥の月」は旧暦10月のことで、現代では11月頃。

「亥の日」は年によって異なります。

「亥の刻」は21〜23時です。

十二支は元々、植物が種の状態から芽吹き、盛んに成長し、成長しきり、実り、やがて衰退して枯れていく様子を示したものであり、後からそこに動物を当てはめて、わかりやすく解釈できるようにしました。

ですから、「亥」とは元々、植物が枯れ、死に絶えた、閉ざされた様子を示すものです。

しかし「亥」は同時に、象形文字で「イノシシ」を示す文字でもあり、イノシシは子だくさんで繁栄の象徴でもありました。

さらに、死に絶えた状態というものは同時に、次の生命が発生する準備の状態でもあるわけです。

これらのことから、繁栄を願う意味で「亥の子の祝い」が始まったと考えられます。

発祥は中国「亥子祝」

十二支は元々、中国の考え方であり、亥の子の祝いの発祥も中国であると考えられています。

古代中国では、無病息災を祈る風習として「亥子祝(いのこいわい)」が行われ、旧暦10月亥の日亥の刻に、穀類を混ぜ込んだ「亥の子餅」と呼ばれるを食べる風習がありました。

亥の子餅がどのようなものかについては、詳しく後述します。

この頃、中国では亥の子祝いは宮中行事であったとみられています。

平安時代に日本の貴族の中で流行る

中国で行われていた亥の子祝いは、平安時代に日本に伝わり、宮中行事に取り入れられたと考えられています。

平安時代には貴族の間で亥の子祭りが行われましたが、ちょうど時期的に、秋の実りが盛んになる頃だったため、収穫祭と融合していった経緯があるようです。

やがて行事は武士や貴族にも広まって、民間の行事として定着しました。




諸説あり……亥の子祭りは呪術的儀式? 景行天皇由来説!

亥の子祭りは、景行天皇にその由来があるのではないか? とする説もあります。

景行天皇は、日本の代12代天皇。ご本人はあまり知名度がない印象ですが、日本神話で有名なヤマトタケルの父親であらせられます。

『日本書紀』の時代ですので、西暦で何年頃にご即位されたのか詳細はわかっていません。

この時代、朝廷に恭順しない異民族のうち、有名なものは「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれており、景行天皇もヤマトタケルを派遣したり、自身が出向いたりして、土蜘蛛退治を行いました。

土蜘蛛は西日本や九州に根付いており、戦力的にも非常に強く、また古い時代ですので、呪術的な手法を用いて平定しようとした可能性があります。

そして、景行天皇が九州の土蜘蛛を滅ぼした際に、「椿の槌で地面を打った」ことが、日本の亥の子祝いの由来になっている、という説があるのです。

「椿の槌」とは、椿の枝で作成した槌(ハンマー)であることが想像されますが、椿は古代、繁栄の象徴、神聖な魔除けの木として扱われていました。

したがって、魔除けの「木」を地面に打ち付けることで、五行の「木剋土」すなわち、「木が土を制する」法則に則り、「土蜘蛛」を退けようとしたことが考えられます。

そして、これが宮中で伝統的なものとなり、亥の子の祝いにつながっていったという説があるのです。

収穫祭として民間に定着したのは江戸時代?

いずれの由来か(あるいは両方が由来であり、宮中で中国渡来の「亥の子」と、椿の槌を使い地面を叩く儀式が融合した可能性もゼロではないでしょう)は定かではありませんが、亥の子の祝いは、収穫祭の性格を持って、平安貴族から庶民へと広がりを見せることになりました。

しかし、亥の子の祝いを行っていたのは九州・中国地方が中心であり、江戸(現在の東京)から甲州(現在の山梨)あたりにかけて、亥の子の風習の記録が見られるのは江戸時代以降。

関東以北に至っては、明治、大正時代には「亥の子」という行事そのものがほぼ知られていなかったようです。

九州地方、中国地方では、それよりも以前から一般に亥の子祝いが行われていた可能性もあり、このことが、景行天皇の土蜘蛛退治と亥の子が関係あるのではないか? とされている要因でもあるでしょう。なぜなら、土蜘蛛とは主に九州から、中国地方にかけて存在していた古代の異民族を表す言葉だからです。

亥の子の祝いの意味は、収穫祭、火伏せ、魔除け

これまでの由来で見てきたように、亥の子の祝いには「収穫祭」の性格が強く表れています。

しかしそれだけではなく、「火伏せ」の意味があります。

亥は陰陽五行説では「水」にあたり、「火」に強いので火事にならないとされています。これを由来として、一部の地域では亥の子の祝いの日に、炬燵開きが行われているようです。

さらに、亥の子の祝いには「魔除け」の性格があることを忘れてはいけません。

亥の子の祝いの日には、餅を食べるだけではなく、地面を石などでできた槌で打つ行事が今でも残されています。

亥の子の祝いはいつ?2021年~2025年の日程

亥の子の祝いは、「11月(=旧暦10月、亥の月)の亥の日、亥の刻」に行われます。

亥の刻なので、時刻は午後9時~11時にあたりますが、「亥の日」は毎年違いますので、日付を確認しておきましょう。

  • 2021年11月11日(木)
  • 2022年11月6日(日)
  • 2023年11月1日(水)
  • 2024年11月7日(木)
  • 2025年11月2日(日)

亥の子の祝いを行う地域では、この日に様々な行事を実施します。

亥の子祭りはどこでやっている?

亥の子の祝いについて詳しい内容を解説する前に、亥の子祝い、亥の子祭りといったものが、どこで行われているかを確認しておきましょう。

亥の子の祝いは、日本の全国的なものではなく、現在確認されている地域は「九州~和歌山、奈良、三重南部」あたりにかけての風習です。

地元の祭りとして行われることが多いですが、大々的な神社のお祭りとして行われているのが、下記、京都になります。

京都・護王神社の「亥子祭(いのこさい)」/11月1日

京都の護王神社は、宮中行事であった頃の亥の子の祝いを模した、雅やかなお祭りです。

護王神社は「いのしし神社」としても知られ、そもそもイノシシに縁のある神社。

平安時代の衣服を着用した奉仕女房と呼ばれる役目の女性が、雅楽のしらべに乗せて亥の子餅をつくお祭りです。

ここでつかれる餅は京都御所に献上されるほか、参拝者にも振る舞われることになっています。




亥の子の祝いの食べ物「亥子餅」とは?

亥の子祝いを語るためには、欠かせない風習が2つあります。

そのうちの1つが「餅」です。

亥の子祝いの時には、「亥の子餅」を作って食べる風習があります。この餅は、「玄猪餅(げんちょもち)」とも言われています。

玄猪」という言葉の意味については既に解説しましたので、見逃した方はちょっと戻ってみてくださいね。

亥の子餅は元々、豆や雑穀を入れた餅で、新米で作るのがならわしです。豆、雑穀といった具は、具体的に言うと

  1. 大豆
  2. 小豆
  3. 大角豆(ささげ)
  4. ごま
  5. 糖(あめ)

の7種類。

新米をはじめ、具となる豆などはその年に収穫された作物を粉にして混ぜ、うりぼう(イノシシの子ども)に見立てた餅に作ります。

現在の「亥の子餅」あれこれ

現在では、「おはぎ」によく似た和菓子として販売されていることの多い、亥の子餅。

地方や和菓子店によって作り方が異なってきます。

有名な店がいくつかあるのでご紹介します。

京都→京菓匠「甘春堂」・「虎屋」

大阪→「むか新」

他にも、西日本では多くの亥の子餅が見られます。

亥の子石を紐解くとわかる!亥の子の祝いの呪術的性格「亥の子突き」

亥の子突きは、映画『眠狂四郎』のワンシーンにも使われた

亥子石とは、亥の子の祭りで使われている石のことです。

この石は、形様々で、重さも1kg~10kgぐらいとバリエーション豊か。

しかし、使い方はどこも同様で、この石にヒモをくくりつけて子ども達に持たせ、石で地面をガンガン叩くのです。

もっとも、昔は子どもだけがこの石を持って、村中を回る……といったようなお祭りになっていましたが、現在では少子高齢化の影響で大人も混ざって、「地面を亥の子石で叩く」ことを行います。これを亥の子突きと呼びます。

ちなみに、山口県方面など、亥の子石のことを「ごうれんさま」等と呼ぶ地域があります。

子孫繁栄や豊作を祈るのが目的とされている

亥の子石で地面を叩くのは、イノシシにあやかって子孫繁栄するように、そして豊穣祭の意味合いもあいまって、今年の豊作に感謝をし、翌年の豊作を祈る、ということが目的であると言われています。

実際、亥の子祭りは、豊作をもたらす田の神を祀るお祭りですので、これらの意味づけは一見、何ら違和感がないようにも思えます。

しかし、それにしても、地面をガンガン石で叩くことで豊作を祈るとは、これいかに?

地面を叩くことと豊作を祈ることに何の関連性があるのでしょうか?




亥の子祭りの裏の目的とは……亥の子突きは神による邪神祓い、聖地と化した田畑からの田の神送り

何故、石をガンガン叩くのか……。

この儀式は、一説によれば、邪神を祓う陰陽師の術から生まれたと言われています。

現在、私たちがよく見る、これに類似したものに、相撲の「四股(しこ)」があります。

四股は、ただお相撲さんがマッチョ自慢をしているのではなく、土俵を踏みしめることで清めを行っているのです。

これも陰陽師の「禹歩(うほ)」という呪術から派生したものであると考えられています。

つまり、地面を踏むという行為で、その地面を清めることができる、という呪法が存在していたわけですね。

禹歩は本来、地位のある人が外出する際、その先触れとして陰陽師が土地を清めるために、地面を特別な方法で踏みしめながら呪文を唱え、先導するための呪法です。

亥の子祭りでは、この禹歩を真似て、地面を石でガンガンと叩き、子どもたちが歌を歌います。(この歌については後ほどご紹介します)

なぜ、子どもたちが役目を負うのか?

少子高齢化で大人も参加することが増えた現代ですが、そもそも亥の子石を地面に撞く役割は子どもたちが担うものでした。

それでは、なぜ子どもたちの役割になったのでしょうか。ただ楽しいから?

恐らくそうではありません。

「七つまでは神のうち」という言葉があります。

生まれたから、年齢が7つになるまでの子どもは、人ではなく神の領域にいるのだ、という考え方です。

亥の子祭りについて古い民俗学的な資料をあたると、昭和の早い段階のものなどは、小学校の低学年にあたるようなかなり体の小さな子どもたちが、亥の子石を地面に撞いている様子を知ることができます。

つまり、亥の子石を撞くのは、子どもであると見せかけて、神なのです。

祭りの日は、子どもたちは神の代理として、石を地面に撞き、陰陽師がそうするように、地面を清めていったのです。

亥の子突き=田の神の先導として地清めを行う行為である

さきほど、陰陽師が禹歩を行い、高貴な人を先導する、とご紹介しました。

亥の子突きが同様の、地面を清める行為であるのならば、先導される貴人がいるはずです。

それが「田の神」、すなわち、豊穣をもたらす神様。

田の神には、山の神、というもう1つの顔があります。

この神は、冬場は山の神として、山に居ます。春先、2月の亥の日になると、山から里に下りてきて、田の神となってそこに鎮座し、田畑を守ります。そして、収穫が終わった後、亥の月の亥の日になると、山へと戻り、また山の神として鎮座することとなります。

つまり、まず1つは、尊い田の神を山へ送るために、田の神の通り道を先導して清める、というのが亥の子突きの役割です。

さらに、田の神が不在になるということは、冬の間、神様がお留守の間に悪い神が入り込まないようにしなければなりません。

そこで、亥の子突きによって田の神を送ると同時に、地面を祓い清めて邪神の訪れを防ぐ……というもう1つの役割もあるわけです。

亥の子突きで土地の神をおさめ朝廷への反乱を予防する?

なお一説によれば、亥の子突きには「朝廷への反乱予防」の意味合いがある、とも言われています。

亥の子突きは、土着の神を沈静化させる役割を持っている可能性があるわけですね。

由来の項目でお話した、景行天皇の土蜘蛛退治説につながっていく、亥の子祝いの隠された性格なのかもしれません。

亥の子祝いの東日本での名称は十日夜?

亥の子祝いは元々、西日本が発祥のお祭りである為、東日本在住の方は馴染みがない方も多いのではないかなと思います。

そんな東日本では、亥の子祝いと同じ性質のお祭りが「十日夜(とおかんや)」と呼称され、随所で行われています。

十日夜は、旧暦10月10日に行われる収穫祭です。この日取りは年によって違います。

十日夜もまた、稲刈りが終わって田の神様が山に帰る日とされていますが、祭りの内容は東日本の中でも、地方によって違いがあります。

稲の収穫を祝ってお餅をついて食べたり、稲の茎をたばねた「わらづと 」や「わら鉄砲」で地面を叩きながら唱えごとをして地面の神を励まし、作物にいたずらをするモグラを追い払ったりします。

また、十日夜はお月見がメインの行事ではありませんが、十五夜十三夜と並んで三月見のひとつでもあります。

「かかしあげ」といって田んぼを見守ってくれたかかしにお供えものをして、かかしにお月見をさせてあげる地方もあります。

やはり、地面を叩きながら何かを唱えるという点で、亥の子祝いと十日夜には非常に大きな共通点がありますね。




亥の子祝いには歌がある

亥の子祝いには歌が存在します。

ですが、地方や、地域によって、全て違う歌詞の歌がありますので、全てをご紹介することができません……。

今回は山口県の一部で歌われているものの歌詞をご紹介したいと思います。

山口県周防大島町日良居地区の地域の歌です。

これのよう旦那は 団子か餅か 

 ありゃとうこせとうこせ (10歳を越せ(そしたら安心だ)) 

餅はよう餅でも おがそうればさ 

金持ちじゃ ありゃとうこせとうこせ

この歌詞のうち「おがそうればさ」の意味はいまだにわかっていません。

山口県のものは数多くの歌のうちの1つであり、実に様々な種類があるのですが、その中でも多く見られるのが、「数を数える」系の歌です。

上記の歌にも「とうこせ」という言葉が見られますが、10までを数え、「10になったから安心だ」「10になったからおさまった」という流れにする歌詞が多いのです。

1から10までを数えることは、古いまじない(呪い)にいくつか例が見られます。

今となっては定かではないものの、「数える」ことそのものに何らかの呪法的な意味があった可能性が高いでしょう。

十日夜にも歌がある

ちなみに、東日本の「十日夜」でも、歌われる歌があります。

これも地方、地域によって歌が違いますので、1つご紹介します。

群馬県沼田市の十日夜の歌は、以下のようになっています。

とうかんや、とうかんや、とおねておきると、おいべすこう(沼田市)

亥の子の祝いの歌と違い、10を数えるニュアンスではありませんが、「10寝て起きる」という似たようなスタンスが見られるのが面白いところ。

なお、「おいべすこう」とはえびす講、十日えびすを指す言葉であり、11月20日前後に行われる十日えびすのお祭りを指していると考えられます。

十日えびすについては「十日えびすとは?ご利益と神社、御朱印、Getしたい縁起物を一挙ご紹介!」をご参照くださいね。

亥の子の日に炬燵(こたつ)開きや炉開きが行われる理由

現在でもよく行われる風習として、亥の子の日には炬燵(こたつ)開きや、炉開きが盛んに行われています。

先述したとおり、亥は陰陽五行説において、「水」の力を司っているため、火に強い耐性を持っています。

この日に炬燵や炉を付け始めると、火事にならない! と伝えられているため、炬燵開き、炉開きが行われるのです。

亥の子の祝いは子孫繁栄を願うだけではない呪術的イベント!

亥の子の祝いは子孫繁栄を願うイベントとして、西日本に深く根付いたイベントです。

しかしその裏には、思ったよりも深い意味合いが隠されていたのかもしれません。

少子高齢化には、亥の子祭りを子どもだけでできなくなる等、問題もたくさん。

少しでも子供がたくさん生まれる事を祈ってこの祭りが続くといいですね!!

Writer:夜野大夢(ホームページ

Writer:陰陽の末裔/占い師・パワーストーンアドバイザー
あん茉莉安(ホームページ

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