【端午の節句の起源は中国❓】本当の端午の節句(子どもの日)の歴史・意味・由来とは?

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端午の節句(子どもの日)用いられる菖蒲(しょうぶ)や粽(ちまき)などの飾り物にもきちんと意味がありんす。

今回は端午の節句の意味や由来・起源と併せて歴史を交えてご紹介しつつ、日本と中国の端午の節句の違いや、関西と関東での端午の節句のの違いについてもご説明しています。

目次

端午の節句(子どもの日)とは?「端午の節句の意味を一言で簡単に言うと‥」

 端午の節句は「男の子の元気な成長を祈る行事」!
 端午の節句は「中国の風習と日本の風習が合体して広まった行事」!

日本における端午の節句の意味

日本における端午の節句の意味とは、もともと農耕民族である日本人にとって5月は田植えの時期として、重要な位置付けの月でありんした。

田んぼには「田の神」という神様が宿るとされていたり、米などの穀物にも神が宿るとされ、それら穀物の霊魂を増やす行為が田植えと考えられていたので、田植えとは言わば一種の神事のように位置付けられていました。

このため5月は農業を営む者たちにとって「斎戒の月」とされ、派手な儀式や結婚は疎まれ、慎しみ深い生活を送ったのです。

平安時代になると中国文化の1つとして「端午節」が伝来し、これに上記のような田植えに関連した儀式が習合していくことになります。

すなわち端午の節句とは元来、農耕の祭りの一種であり、さらに後述していますが、主として田植えを行う役目を担った女性の節供だったのです。

端午の節句の意味は昔と今で異なる!「端午の節句の秘められた歴史」

端午の節句は今と昔で行事の意味合い、すなわち内容が異なります。以下では端午の節句の歴史として時代の変遷をご紹介します。

中国(※起源)

古代中国の楚(そ)という国の大臣(政治家)であった「屈原(くつげん)」が、ある時、「汨羅(べきら)」という川に投身し、屈原の姉が餅を作って5月上牛の日に弔い、その日が端午の節句の起源とされています。

また、屈原の体が魚に食べたれないように大きな音を出して、魚を追い払いながら粽(ちまき)を川に投げ込んだという説もあります。

別の説では、幽霊姿の屈原が「楝樹(れんじゅ)の葉」で米を包み込み、それを五色の糸で縛ったものを供えてほしい(=すなわち粽のこと)」と告げたから。これらの故事から知人友人に粽を配る風習が生まれています。

なお、5月5日に端午節が開始されるようになった起源としては、紀元前3世紀の中国・楚と言われています。

平安時代

平安時代、民間においては村の青年に関連した行事でした。貴族社会においては菖蒲を冠に飾り、菖蒲の葉で作った薬玉(くすだま)を柱に下げます。

宮中行事では「五日節会いつかのせちえ)」もしくは「端午節会(たんごのせちえ)」という邪気祓いの行事が執り行われ、騎射(うまゆみ)、競馬(くらべうま)といった馬を使った勇壮な催しが行われています。

鎌倉時代

鎌倉時代以降、江戸時代までは武士が台頭した時代につき、男子としての尚武的な気性を養成されます。この時代になると貴族社会で行われていた行事や宮中で行われていた行事が廃絶します。

ただし、鎌倉幕府も宮中で行われていたことに倣い、幕府内でも公式の行事として採り入れています。

民間においては軒に菖蒲を挿し、子供たちは小弓を引いたり、印地(いんじ)と呼ばれた石合戦を盛んに行われます。

室町時代

民間においては、竹竿に布を張って「吹き流し」 を立てていたようです。室町幕府でも鎌倉幕府に倣い、幕府の重要行事と位置付けて端午の節句を踏襲したようです。

江戸時代

江戸時代になる五節句の1つとして重んじられます。

「鯉の滝昇り」と呼ばれる鯉の威勢の良さに通じるとして、町人階級では紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げています。

5月5日は「尚武=武士の魂」に位置付けられる日として徳川幕府において重要な式日に定められまする。この日は大名や旗本が、式服で江戸城に登城し、将軍に謁見し祝いを奉じたのでありんす。

将軍に男子が生まれた場合、その年、もしくは良く年になると表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり/武者のぼり旗)が立てられました。

江戸時代中頃

武家の幟に倣い、町人の間では上述、「鯉の滝昇り」の縁起にちなみ鯉の形をした幟である「鯉のぼり」が飾られるようになります。中国には「鯉は滝を昇って龍になる」という故事があるのですが、その故事に江戸の町人が倣ったものとされています。

この頃より武家では宅外から侵入してくる様々な邪気を祓う意味で、防具である甲冑(かっちゅう)が飾られるようになります。

「鎧兜」「刀・弓矢」は身体を守る道具として「武者人形(さつき人形)は勇敢な武士をモチーフとして「魔除け・厄除け」のご利益があるとされ、ひいては病魔厄災を退け「立身出世」できるとされます。

また、菖蒲(しょうぶ)が尚武(しょうぶ/武士の精神)に通じるとされ、菖蒲の葉を刀に見立てて飾り付けられたのもこの頃からです。

それと、忘れてならないのがこの頃から端午の節句で「柏餅(かしわもち)」が食べられるようになったことです。

柏は新芽が出ないと落ちないことから、「新芽を子ども」、「古い葉を親」に見立てて、「跡継ぎが絶えない」「子孫繁栄」に結びつけられたのです。

明治時代

明治時代なると富国強兵の国体が後押しし、より一層、「勇ましい」「たくましい」「男子の儀式」などの象徴的な儀式として重視されるなり、「鯉のぼり」や「武者人形」などがさらに普及することになります。

現在

江戸時代の風習の一部を踏襲し、「さつき人形(武者人形)」や「鯉のぼり」をを飾り立て、男の子の健やかな成長を祈ります。

また、粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)、お団子を食べる風習もあります。




端午の節句(子どもの日)はいつ?「関西と関東で異なる?」

東京では新暦5月5日!

ご存知の通り、端午の節句は「5月5日」に行います。しかし、飾り物は事前に飾りますので、そうなると5月5日ではなくなります。

地域によっても変わりますが、男の子は「先手必勝」に物事を進めた方が良いとの言い伝えから、何事も早め早めがいいとされ、飾る時期は早ければ早い方が良いとされる地域もあるようです。

そのため、遅くても5月5日の1週間前には飾りつけをするのがオススメです。

関西やその他の地域では6月5日?

江戸時代の端午の節句は江戸城で毎年5月5日に行われる城中行事だったこともあり、関東一円では5月5日に端午の節句が執り行われました。

しかしながら、江戸から離れた例えば関西や九州、東北など東京以外の地域の中には6月5日に端午の節句が行われるところもあるようです。

これは下記にて説明していますが、かつて端午が5月5日の定日で無かったことに起因するものです。

もともとは5月5日では無かった?!

実は、もともと「端午」は5月の最初の午(うま)の日を指していた言葉でした。すなわち、5月であっても5日という定日ではなかったのです。

しかし「午(ご)」とは「五(ご)」と同音で通じるものがあるとされることや、同じ数字の月と日が重なる日にはお祝いをする風習が重なり、5日5日に端午の節句を行うようになったと言われています。

もう少し歴史を遡ると5月以外の月の5日にも端午という言葉が使用されていたようです。

端午の節句の由来と起源「日本ではいつごろ広まった?」

冒頭でも述べたように、端午の節句は中国が起源とされる行事であり、記録では古代中国の「汨羅(べきら)」という川に投身した「屈原(くつげん)」という楚(そ)の政治家を、5月上牛の日に弔ったのが、当行事の起源とされています。

日本へ伝来したのが平安時代以降と云われ、宮廷行事として中国の風習に倣い、5月に節句を行なったのが日本における端午の節句の起源とされています。

当時の貴族たちは、端午の日を迎えると薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあったそうです。また、平安時代に宮中の行事として採用された旨の記録も残されています。

しかし上述したようにもともと日本には田植えとの関係から5月は物忌みの月として重要視されており、男子が家を出払った後、女子が家にこもるといった民間信仰が根付いていたのです。

純日本の端午の節句の由来(起源)とは、当初は村の青少年に成年戒、成女戒(1人前の人として認められる年齢に行われた儀式のこと)が執り行われるなど青年に関連した行事でした。

しかし、この純日本の風習、いわゆる民間信仰に中国から伝来した上記、「端午節」が流入し、時代を下る過程において習合していくことになります。

これが現今に見られる端午の節句の起源であり由来となります。

中国で5月5日に端午節が行われるようになった起源とはいつ?

中国の端午節のもととなったのが、上述、屈原を5月上牛の日に弔った日になるのですが、正式に5月5日に定められて行われたのが、紀元前3世紀の中国・楚と言われています。

中国では、もともと月と日が同じになって重なる日は祝日にする風習があり、5月5日を端午として祝う風習が誕生します。これは重三(3月3日)、重陽(9月9日)と同様の由来になります。

端午の節句もその1つとして定められ、この日は、菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を門に吊るしたり、菖蒲酒を飲んだりして、祝うというよりは邪気を祓う行事に推移していきます。

このような儀式が平安時代に日本へに伝来し、日本においては「端午の節句」になったのです。

6世紀(古墳時代〜飛鳥時代の頃)に中国南北朝時代の梁(りょう)という国の宗懍(そうりん)が編纂した「荊楚歳時記」によれば、楚国の人々が艾(よもぎ)を用いて人形を作り、それを門戸に懸けて、あらゆる毒気を祓った旨の記述が残されています。

平安時代の端午の節句では何をしていた?

平安時代の端午の節句では、宮廷で臣下の人々が菖蒲を冠に飾り、菖蒲の葉で作った薬玉(くすだま)を柱に下げたりしました。

また、邪気を退治する意味合いから、宮中行事の1つとして、騎射(うまゆみ)、競馬(くらべうま)といった馬を使った勇壮な催しも行われました。

このような宮中行事は、やがて民間でも伝播していくこととなり、民間においては軒に菖蒲を挿し、子供たちは小弓を引いたり、印地(いんじ)と呼ばれた石合戦を盛んに行っていました。

この印地と呼ばれる遊びは、江戸時代の初めまで続きましたが、危険なため禁止されました。

その後、菖蒲を使った遊びが主となり、菖蒲切りというチャンバラごっこや、菖蒲の束で地面を叩く菖蒲打ちで、音の大きさを競う遊びへと変わっていったのです。

「端午の節句」の名称の由来(語源)

では、なぜ端午の節句と呼ばれ、5月5日に行われるのでしょうか?

端午とは?

「端午」とは「初五」の意味。「端」は「はじめ」を意味し、「午(ご)」とは「五(ご)」と同音で通じ合うものがあるとされる。

元々は、「端午」は5月の最初の午(うま)の日を指していた言葉でした。このため5月であっても5日ではなかったのです。

端午の節句は別名で「重五」とも言う

また端午の節句は5月5日という「5」という数字が重なる意味合いで、別名で「重五(ちょうご)」とも言われます。これは3月3日の桃の花(ひな祭り)に対して、菖蒲を節物として扱うことから、「菖蒲の節句(しょうぶのせっく)」や「菖蒲の日」とも言われます。

「端午」は季語ではない?

端午の節句の「端午」は位置付け的には季語ではなく、「節日」の名称になります。したがって季語として使用される例は少数です。

【補足】端午の節句を季語で例えた場合どうなる?

武者人形(五月人形

意味:我が子の長久的な守護と武士のようにたくましく育って欲しいという祈願。本来は5月に蔵から虫干しのために出していたもの。それがいつしか甲冑がもつ意義が子供を守護するに転じた。また、見た目的に武士が装備することから「勇ましい・たくましい」などの意味合いもあり、たくましい子供に育って欲しいとの願いが込められている。ご利益として厄災消除、成長隆々など

粽(ちまき)

意味:上述、楚の政治家の屈原が幽霊となって化けて出た時、「私の捧げものはすべて蛟龍(こうりゅう)という悪竜に食べられてしまうので、今後は楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み込み、それを五色の糸で縛ったものを備えてほしい」 という故事にちなんだもの。
以来、粽が食されるようになった。中国では粽を友人知人に配る。

柏餅

意味:柏(かしわ)という植物の葉で包んだ餅のこと。柏は新芽が出ないと落ちないことから、「新芽を子ども」、「古い葉を親」に見立てて、「跡継ぎが絶えない」「子孫繁栄」に結びつけた願掛けの一種。もしくは縁起担ぎ。

薬玉

意味:ヨモギや菖蒲の葉などを使って作った玉のこと。ご利益は無病息災・病魔退散・邪気祓い・毒気祓いなど。

競馬

意味:端午の節句の日の朝廷のい行事である「競馬(くらべうま/競べ馬)」のこと。馬を走らせて早さを競う競技。1回ずつを2頭で競い、10回競って勝者を決める行事。

京都の上賀茂神社「賀茂別雷神社」で行われる「賀茂競馬」が有名。

幟(のぼり)

意味:子どもの出世を祈るために立てられる「武者のぼり旗」のこと。主に端午の節句に用いられる。

菖蒲引く

意味:飾り立てた菖蒲で作った人形や、邪気を祓うために門戸に飾った菖蒲をを刈る(引く)こと。

菖蒲葺く(あやめふく)

意味:邪気を払い火災を防ぐ。

重五

意味:端午の節句の別名のこと。(5月5日=五と五を重ねる意味合い)




えっ?!端午の節句は女の子のためのお祭りだった?

端午の節句が中国から日本へ伝来して日本の行事として定着していくことになるのですが、もう1つ日本の端午の節句と結びついた行事があります。

その行事とは、「五月の忌み(さつきのいみ)」とう女の子の祭りです。

では、「五月の忌み」とは、どのような行事だったのでしょうか?

日本で5月と言えば、田植えを始める時期です。

この大切な時期には、男性は戸外に出払い、早乙女(さおとめ)と呼ばれた、田植えをする若い女性たちは、建物の中に閉じこもるという風習がありました。

閉じこもる理由は、田植えをする前に、神様のために仮小屋や神社などにこもって、身の穢れを祓い、清める儀式を行うためです。

つまり、この日は田の神様に対する、女性が行う厄祓いの日だったのです。

女性が特別扱いされる日

中には、5月4日の夜から、5日にかけての日を「女天下の日」と呼び女性が特別扱いされる日とする地域もありました。

この日だけは女が夫に気を使うことなく、いばれる日であったり、女が男に酒をふるまったり、畳半畳や家全体が女性の所有になり、取り仕切ることが出来る日とされていたのです。

現在でも地方各地で残る風習であり、香川県では、5月4日を「女の夜」とも言い、女の人が手足を伸ばして寝ることができる日としているようです。

また、北九州では稲刈りの時期と重なる9月の十三夜を「女の名月」と呼ぶ地方があり、女が自由気ままにしてもよいという日であるとしています。

農耕が重要視されていた時代、田植えのある5月は、家々の大切な祭りの時期でした。

そして、そのような大切な時期には、女性は田の神の祭りの奉仕者であり、祭祀者として、特に重要な役目を負っていたのです。

今では、3月3日は女の子の日、5月5日は男の子の日として定着していますが、鎌倉時代前は、端午の節句は女の子の日とされていたのです。

いつから「女の子の行事から武士の行事になった?」

女の子のお祭りだった端午の節句が、男の子のお祭りに変わったのは、鎌倉時代からです。

この時代、宮中では、馬の上から矢を射る行事や競馬など、勇壮な武士の行事が数多く行われるようになっていました。

そんな中で、端午の節句で使われる「菖蒲」が、武道や軍事などを大切なものと考える「尚武(しょうぶ)」や「勝負(しょうぶ)」に通じることから、また、菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、男の子が菖蒲を頭や身体につけたり、菖蒲で作った兜(かぶと)で遊ぶようになったりしていました。

このころから、女の子のお祭りであった「五月の忌み」は影を潜め、端午の節句は、男の子のお祭りに変化していきます。

さらに、江戸時代に入ると、端午の節句は、五節句の1つとして定められます。

もちろん、江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めたことは、端午の節句が定着した理由の1つでもありますが、何よりも、この頃の時代背景が要因です。

貴族の社会から、武家の社会へと変わったこの時代、大切な家の後継ぎとして生まれた男の子が無事に成長することを祈る行事は、一族の大事な行事だったのです。

そのため、一族の繁栄を願うことは武家の間で盛んに行われ、端午の節句は男の子の節句として定着したのです。

端午の節句を「子どもの日」と呼ぶ理由

その1:「国会(芦田内閣)にて制定された」

「端午の節句」を「こどもの日」と呼ぶ理由は、ズバリ、1948年(昭和23年)7月20日の「国民の祝日に関する法律」によって、5月5日の端午の節句が「子供の日」として定められたからです。

この5月5日を国民の祝日の1つとして制定する際に、「子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかるとともに、母に感謝する日」のモットーのもとに制定されています。(法律第百七十八号)※芦田内閣「第2回通常国会」制定

その2:男尊女卑問題のため?

中には、男の子の日とされる5月5日の端午の節句は祝日なのに、女の子の日とされる3月3日は祝日ではないことから、「男尊女卑」といった批判があり、そのため「こどもの日」としたとも言われています。

その3:GW期間を延長させる目的?

また、4月末から5月にかけての「ゴールデンウィーク」の一環として、「長く続く休日が望ましい」との配慮からゴールデンウィークの最終日として制定された経緯もあったとされています。

【豆知識】『端午の節句は別名で五節句と呼ばれる??』

「五節句」とは、その名の通り5つの節句のことを指します。

1年のうちに5回ある節句の日は、1月1日の人日(後に1月7日)、3月3日の上巳の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕、9月9日の重陽(ちょうよう)のことです。

お気づきのように、全て奇数が重なる日が該当しています。

陰陽道で奇数は、陽の数字であり、もともと日本人に好まれている数字でした。

そのため、本来ならば奇数の重なるこれらの日は縁起のよい日となるわけですが、奇数が重なると偶数が生まれるといった観点から、陰の数字である偶数の邪気を祓うために行っていた行事が五節句の始まりです。

そもそも、奇数が陽の数字だという考え方は、中国から至った考え方ですが、いつの日からか中国では奇数はあまり好まれないようになってしまいました。

むしろ対ともなる偶数が好まれるようになったのです。

そのことは、中国の故事にも見ることができ、奇数を重ねた日には不吉なことがあると書かれた故事が多く出てきます。

中国の考え方に多大な影響を受けていた古来の日本では、このような故事から、奇数を重ねる節日は不吉とされたのです。

そのため、その不吉な邪気を祓う為に、力があるとされる、旬の食べ物をお供えしたり、食べたりする行事が行われるようになりました。

これが、季節の節目に行う「節句」の由来であり、「供物」を供える理由でもあるのです。

本来、日本の宮廷に伝わった節句は、もっと様々な節句が存在していました。

それらは、節会(せちえ)と呼ばれる宴会として執り行われていたのです。

しかし、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めたことが、当初は宮中の行事であった、「五節句」を庶民の行事に決定づけたのです。

ただし、それぞれの節句は旧暦で行われていたため、現代とは季節がずれているのも特徴です。

1月7日  人日(じんじつ) 七種(ななくさ)の節供

      3月3日  上巳(じょうし) 桃の節供

      5月5日  端午(たんご) 菖蒲の節供

      7月7日  七夕(たなばた)

      9月9日  重陽(ちょうよう) 菊の節句




端午の節句(子どもの日)の風習

端午の節句の風習はいくつかあります。

それぞれの風習とその風習に込められた意味を知っておきましょう。

飾り物や人形を飾る

端午の節句に飾りものとして思いつくのは、鎧(よろい)や兜(かぶと)でしょう。

鎧の「鎧う」とは、「身につける」、「物をまとって敵から身を守る」という意味を持つため、「身体を守る」ものとして、端午の節句に飾る鎧には、交通事故や病気から大切な子どもを守ってくれるようにという願いが込められています。

また武士が着用したことから、たくましく・勇ましい大人になって欲しいという願いも込められています。

ちなみに、武者人形や金太郎などの人形を飾る場合もありますが、昔、5月5日に宮中で菖蒲を兜の形にした菖蒲兜を作る風習があり、この風習がのちに紙製になり、人形の前立てとして飾られたのが始まりです。

鯉のぼりを飾る

鯉のぼりは、昔から武家で行われてきた、男児が誕生した際に、災難や魔除けとして、玄関に幟(のぼり)や吹流しを立てる行事が起源となっています。

それが、庶民の間で中国の故事から、立身出世(りっしんしゅっせ)の象徴として鯉のぼりが登場したことで、幟や吹き流しは、鯉のぼりへと変化していきます。

鯉のぼりは男の子の健やかな成長を祝い、出世を願うという意味が込められているのです。

軒菖蒲(菖蒲占い)

菖蒲を束ねて軒先に吊るすと厄除けになったり、屋根の上に投げ置くと火難除けになるという信仰があります。

軒先に吊るした菖蒲に向かい「思うこと 軒のあやめにこと問わむ かなわば架けよ 細蟹(ささがに)の糸」と呪文じみた言葉を発し、菖蒲にクモが糸を張ったら願い事が叶うとされています。

菖蒲打ち

菖蒲を束ねて地面に叩きつけ、音の大きさや菖蒲の折れ具合を競った遊びのことです。故に菖蒲タタキとも呼ばれます。鈴音と同じく菖蒲を叩いて出す音には邪気を祓う効果があるとされ、はたまた地面を叩く事によって悪魔を封じるとも言われます。

菖蒲切り(菖蒲の刀遊び)

菖蒲の形状は刀にも見えることから、菖蒲を刀に見立ててチャンバラごっこする遊びです。はたから見れば単なるチャンバラごっこに見えますが、菖蒲を刀に見立てることによって「魔を割く=悪鬼退治の効果がある」と言われ、はたまた、菖蒲の刀を振り回しながら武芸上達を祈願すれば叶うとされています。

菖蒲飾り

菖蒲を髪に挿したり、ヨリ合わした菖蒲を頭に巻きつけます。

こうすることで邪気を祓い、煩悩を祓い、頭が良くなると言われています。

菖蒲枕

枕の下に菖蒲を敷いて寝るとそれまで身についた邪気や穢れ(けがれ)が祓われ、最良の状態で5月5日の端午の節句を迎えることができると言われています。

したがって5月4日の夜眠る時に行います。一説では菖蒲にはリラックス効果があるとも。

菖蒲酒を飲む

「菖蒲の根」を日本酒に浸した「菖蒲酒」を端午の節句に飲む風習も日本には残っています。

菖蒲が持つ、独特な強い香りが邪気を祓うためとされていますが、このような特定のお酒を飲むことは、次の五節句でも見られます。

  • 人日の節句(1月7日)にはお屠蘇(とそ)
  • 上巳の節句(3月3日)には桃酒
  • 重陽の節句(9月9日)には菊酒

しかしながら、七夕の節句(7月7日)には、なぜか特定のお酒はありません。

菖蒲の箸置き

菖蒲の葉をヨリ合わして適当な長さで折って箸を作ります。この菖蒲の箸を使って料理を食べると体内の邪気や穢れが祓われると言われます。同時に菖蒲の香りが楽しめますので、食欲増進の効果もあるとされています。

菖蒲湯に入る

血行促進や肌の保湿、鎮痛作用に有効とされ、独特の香りも特徴です。

菖蒲湯には、いくつか束ねた菖蒲の葉を輪ゴムか菖蒲の葉で結び、5月5日の夜に沸かしたお風呂に入れます。

ちなみに、この菖蒲の葉の束と蓬(よもぎ)を加えても効果的なようです。

このような菖蒲を入れたお湯に浸かる風習は江戸時代から始められたようです。出陣前の武士が武運長久や戦勝祈願を兼ねて浸かったのが由来もしくは起源とされます。

【豆知識】菖蒲と花菖蒲

皆さんがイメージする「菖蒲」は、紫色の花が咲く姿かもしれません。

しかし、サトイモ科の「菖蒲(しょうぶ)」と、紫色の花が咲く、アヤメ科の「花菖蒲」 は、まったく別物の花です。

どうして、同じような名前を持つのか?それは、それぞれの葉っぱの形が似ているからです。

端午の節句の時に入る「菖蒲湯」に使われるのは、「菖蒲」であって、「花菖蒲」ではありません。「菖蒲」の花は、地味な蒲(がま)の穂に似たもので、「花菖蒲」の花とは似ても似つかない花です。

世間の「菖蒲祭り」というのは、ほぼ間違いなく「花菖蒲祭り」です。

「花菖蒲」は、お風呂に入れても残念ながら効果はありません。

柏餅を食べる 

端午の節句に欠かせないものが「柏餅」です。柏の葉で餅を包んだものです。

柏の葉を用いる理由は、柏の葉は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「子供が生まれるまで親が死なない」つまり、「家系がいつまでも続く」とされ、縁起物として広まったものです。

このような柏を巻きつけた餅を食べる風習は江戸時代から始まったとされます。

粽(ちまき)を食べる

粽は中国から伝来した中国文化であることから、「茅(かや)」や「笹の葉」で餅米を包んでそれを蒸したものを指します。

関西と関東では食べるものが異なる?

関西では上記のように茅や笹の葉で巻いた粽だけを食べません。「ういろう」や「葛(くず)」を包んだ和菓子としての粽を食べたりします。

【補足】行事食とは

行事食とは、様々な季節の行事やお祝いの日に食べる特別な料理のことを言います。

それぞれ旬の食材を取り入れて、体調を崩しやすい季節の変わり目に、栄養と休息を与えたり、家族の健康や長寿を願ったりする意味もあります。

さらに、子供の守り神でもある端午の節句に飾る人形へお供えするかしわ餅などは、神様へお供えする食べ物、つまり、神饌(しんせん)とも言えます。

神様へお供えした食べ物を頂くことで災厄を祓い、神様の恩恵を受けることにも繋がります。

カツオやブリを食べる

あまり知られていませんが、端午の節句に食べると非常に縁起の良いものがあります。どんな食べ物か検討がつきますか?

端午の節句にはカツオやブリを食べると縁起が良くなると云われます。

この理由はブリは出世魚、カツオは「勝つ」に通じるからです。ブリは大きくなるにつれ、イナダ→ワラサ→ブリと名前が変わる魚です。

カツオは勝つ!に通じるだけあって尚武と菖蒲を掛け合わせた端午の節句には最適な食べ物です。




本場・中国の端午の節句ってどんなの?

日本では、端午の節句は太陽暦(新暦)の5月5日に行いますが、中国では旧暦でお祝いします。

そのため、日本の端午の節句にあたる「端午節」と呼ばれるその日は、5月5日ではなく、2019年は6月7日、2020年は6月25日、2021年は6月14日と毎年違った日になるのです。

端午節は、2000年余りの歴史を持ち、中国でも庶民の祝日です。

また、日本と同じように、病気を払うなどの願いも込められていて、色なイベントが行われるほか、伝統的ないくつかの行事や風習が残っています。

ちなみに、端午節は祝日で色々なイベントが行われることから、中国人もこの休みを利用して旅行に行くそうです。

そのため、多くの名所は混みあい、ホテル代も上がります。

伝統的な風習【龍舟競争(りゅうしゅうきょうそう)】

龍舟競争の由来は、昔、中国に居た、ある人物が影響しています。

中国の戦国時代にあたる紀元前3世紀の楚の時代にいた、政治家であり詩人でもあった屈原(くつげん)は、楚の国王の側近で、大変人望の厚い人物でした。

そんな、屈原は、失意のうちに失脚し、汨羅江(べきらこう)という川に石を抱いて身を投げ溺れたため、舟を漕いで探したことが由来だそうです。

龍舟競争は端午節で最も重要なイベントとされています。ドラゴンボートとも言われるこの舟は、龍を真似て造られた木の舟で、形や飾り、大きさは地方によって違います。

一般的には全長20~30mで、30~60人もの大人数で漕ぎます。

太鼓の音に合わせて、合わせてスタートし、優勝チームは幸運に恵まれて幸せな生活を送ることができると言われているそうです。

その他の中国の端午の節句の風習

粽(ちまき)を食べる

日本の端午の節句でもお馴染みの粽は、中国でも端午節でよく食べられる伝統的な食べ物です。

味や作り方は、日本と同じように、もち米で作られ、中には肉や豆などのアンが入っています。

そして、竹や葦の葉っぱで包まれた粽は、三角形か長方形をしています。

この味や形は、地方によっても違うようです。 

巾着

中にハーブが入っていて、カラフルな布で作られた巾着は、端午の間、子供の首にかけます。

この巾着には、邪気を払う効果があると言われています。

菖蒲

中国でも、端午節には菖蒲が用いられます。

菖蒲はサトイモ科の植物で、蒲(ガマ)の穂のような細長い花の穂をつけます。根茎は生薬として用いられ、また、その香りは虫を追い払う効果があるとされています。

中国の端午節の行事の起源は、紀元前3世紀の「楚(そ)」という国とされ、端午節のあるこの時期は、病気にかかりやすい季節でもありんす。

ですから、部屋を掃除してから庭や横木に蒿(よもぎ)や菖蒲を掛けて、幸運が来るように祈ります。

このように、古代の中国でも使われていた菖蒲は、端午の節句に欠かせないものであり、日本の「端午の節句」においても「菖蒲の節句」とも言われているほどです。

元々あった、薬草を摘み健康を祈願する習慣から、特に、蓬や菖蒲は邪気を払う力があるとされるため用いられました。

菖蒲酒を作って飲んだり、蓬で人形を作って飾ったりなどしていたのでありんす。

まとめ

端午の節句は、中国の伝統的な行事と、日本の行事や風習などが合わさり、現在の節句に辿り着いたことが分かりました。

重く、大きな飾りを準備するのは一苦労ですが、愛情のこもった準備やお祝いを、毎年繰り返し行うことで、息子さんは「親の愛情」と「自分の存在」に強い自信を持つことでしょう。

端午の節句は、「無事に大きく育ってほしい」と願う親の思いが受け継がれてきた、日本ならではの大切な儀式です。

お子さんに、1つ1つの意味や込められた願いを話しながら準備を進めるのはいかがでしょうか?

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Writing:YUKIKO-加藤

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