重陽の節句とは?【いつ?・意味や由来・食べ物・飾り方・過ごし方】限定御朱印など!

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「重陽の節句」をご存知ですか?

あまり知られていませんが、ひな祭りや七夕と同じような日本に古くから残る行事の1つです。

この行事も、他の行事と同じようにきちんとした意味があり行われてきました。

今回は、「重陽の節句」とは何か?から始まり、意味や歴史、やり方や雑学まで、様々な「重陽の節句」をご紹介します。

「重陽の節句」を知って、お家で行事を実践してみるのはいかがでしょうか?

「重陽の節句」の読み方

「重陽の節句」は、「ちょうようのせっく」と読みます。

「重陽の節句」の別名

「ひな祭り」が「桃の節句」と別名があるように、「重陽の節句」にも別名があります。

「重陽の節句」は、別名「菊の節句(きくのせっく)」と呼ばれています。

また、この日に栗ご飯を食べる習慣もあったことから「栗の節句」と呼ばれることもありますし、「御九日(おくんち)」とも呼ばれています。

「重陽の節句」は英語だと何て言う?

「重陽の節句」は日本ならではの行事なので、英語にしても「The Choyo Festival」と書きます。

また、「菊の節句」と呼ぶ場合には、「The Chrysanthemum Festival」と表記します。

「重陽の節句」はいつ?

「重陽の節句」は、旧暦の9月9日に行われる行事です。

2020年の「重陽の節句」はいつ?

2020年の「重陽の節句」は、2020年10月25日です。




重陽の節句とは?

「重陽の節句」とは、9月9日に菊を色々なことに用いて長寿や無病息災を願う行事です。

中国では、縁起のよい数字である「奇数」は「陽数」と呼ばれ「おめでたい数字」とされています。

特に「9」はもっとも大きい「陽」の数字であり、その数が2つ重なることから「重陽」と呼ばれています。

「重陽の節句」の由来

「重陽の節句」はどのようにして始まった行事なのでしょうか?

日本の儀式や行事は、中国の影響を大きく受けています。

「重陽の節句」も例外ではなく、そもそも中国で行われていた行事が日本に伝わってきたものです。

古代の中国では、9月9日の重陽の日に香りの強い木の実を身につけて山に登ります。

そこで菊の花びらを浮かべた菊酒を飲んで、長寿と無病息災を願う風習がありました。

そのような中国で行われていた行事が日本に伝わり「重陽の節句」となったのです。

「重陽の節句」の由来となった説話

ではどうして古代の中国では、山に登って菊酒を飲む風習が根付いていたのでしょうか?

実は、由来となった説話があります。

説話は、中国の道教に伝わる神仙説話の1つで舞台は六朝時代(222年~589年)、桓景(かんけい)という人物に関する故事です。

汝南(じょなん)という場所に、両親や妻子と共に暮らす桓景という若者がいました。

決して裕福ではないものの幸せに暮らしていましたが、ある年汝河という川の両岸で伝染病が流行り、埋葬する場所もないほどどの家からも犠牲者が出てしまいました。

桓景の家も残念なことに両親が犠牲になってしまいます。

大切な家族を失って、ふと桓景は幼い頃に大人たちから言われたことを思い出します。

「汝河には疫病神が棲んでいて、人間界に毎年やってきては伝染病をまき散らしていく」という言い伝えです。

そこで桓景は、この汝河に住む疫病神を退治しようとその方法を知る師を探しました。

桓景は、東南の山奥に住む費長房(ひちょうぼう)という仙人が退治の方法を知ると聞きつけ、仙人に会いに向かいます。

桓景から疫病神の話を聞いた費長房は、桓景に疫病神を討つための青竜剣を渡します。

それから桓景は、費長房のもとで朝から晩まで剣術の練習に励みました。

1年が過ぎたころ、桓景が剣の練習をしている場所に費長房がやってきます。

「今年の9月9日、汝河の疫病神がまたやってくるだろう。急いで帰り退治しなさい。それから、お前に茱萸(ぐみ)の葉を1包みと菊花酒を1瓶渡す。さあ、早く帰って村の人々を高い山に避難させるのです。」

費長房は、そう告げると桓景を送り出します。

桓景は、急いで故郷に帰り人々を集めました。

そして、仙人の話を皆に伝えます。

まず、「村の人々は9月9日に妻子を連れて近くの山に登ってください。そして、茱萸の葉を1枚ずつ配るのでこれを身につけること。そうすれば疫病神は近づいてこない」と教えます。

さらに村人の1人1人に菊花酒を飲ませ「これを飲むと伝染病にかからない」と伝えたのでした。

村の人々を山に避難させた後、桓景は青竜剣を身につけ1人で家の部屋に残り疫病神を待ちます。

まもなく汝河から怪しい音が聞こえてきました。

ついに疫病神が川から飛び出て岸に上がって村にやってきたのです。

疫病神は、村人を探しますがどの家にも人影がありません。

しかし、ふと山を見上げるとそこには大勢の人が山の上に集っていました。

疫病神は、すぐに山の麓へ向かいますが山に着くと酒の匂いがし、さらに茱萸の香りが肺を刺激してどうしても山に登っていくことができません。

諦めた疫病神が再び村に戻ると、1人の男が家の中に座っていました。

疫病神はすかさず声を上げて襲いかかります。

桓景は、疫病神がやってきたのを見ると剣を構えて立ち向かいます。

たった1人だけの人間と軽視していた疫病神でしたが、何度立ち向かっても桓景を抑えることができません。

疫病神がたまらず逃げ出そうとしたところを、桓景は青竜剣を振り上げ心臓に剣を突いてとうとう疫病神を討つことに成功しました。

それからというもの、汝河の辺りでも疫病神の襲来を受けることはなくなりました。

そして、村の人々は9月9日になると山に登り、桓景が剣で疫病神を討った話を代々受け継いでいったのです。

「重陽の節句」の歴史

先ほどお話したように、中国では古くから残る故事が由来して9月9日に山に登り、菊の花びらを浮かべた菊酒を飲むことで長寿や無病息災を願う風習が根付いていました。

そのような中国の習わしが、日本に伝わったのが飛鳥時代(592年~710年)です。

宮廷の行事として伝わり「菊花宴」として開かれるようになりました。

そして次代が変わり、平安時代になると「重陽節」として正式な儀式になります。

平安時代の初期には、当時の天皇が中国の風習に習って宴が開かれるようになりました。

そこでは、グミを袋に入れ御帳の左右に掛けて菊の花を眺めながら菊酒を飲んだり、詩を詠んだりして楽しみました。

他にも日本独自の文化が花開き、紫式部が記した『紫式部日記』には9月8日の夜に綿を菊の花にかぶせ、翌朝に露によって濡れた菊の香りがする綿を使って肌をぬぐうと長寿を保つことが出来るという「菊綿」の習慣が描かれています。

江戸時代になると、「重陽の節句」は五節句の1つとして幕府の公的な儀式として定められて祝日になります。

そのため、民間にも広く行われる行事となります。

しかし、明治時代になると改暦の影響もあり「重陽の節句」は徐々に廃れていってしまいます。

現在では、民間でほとんど行われることのない行事となってしまいましたが、一部の神社仏閣などでは、9月9日に菊にちなんで菊の品評会が各地で開かれています。

「重陽の節句」の意味

古代中国では、9月9日に山に登り、菊酒を飲むことで長寿と無病息災を願うという意味がありました。

そのため、日本でも長寿と無病息災を願う行事として伝わりました。

しかし、江戸時代になると「御九日(おくにち)」として秋の収穫祭と習合して祝われるようになります。

秋の味覚である栗と米を炊いた栗ご飯などを作り、神様に収穫を感謝したのです。

現在でも残る、「長崎おくんち(10月7~9日に開催)」や「唐津おくんち(11月2~4日に開催)」などの有名なお祭りも「御九日(おくにち)」の名残だと言われています。

その後、江戸幕府により「五節句」として定められ、正式に季節ごとにお供え物をすることで邪気を祓う意味が加わります。

そのため日本では、「五穀豊穣」や「子孫繁栄」などの願いの意味も合わせ持つようになりました。




「節供」と書くのが正しい⁈

「ひな祭り」は、別名「桃の節句」とも呼ばれています。

今回ご紹介している「重陽の節句」にも「節句」とつきますが、そもそも「節句」とは何のことでしょうか?

「ひな祭り」や「重陽の節句」は、正確には「五節句」の1つなのです。

奈良時代に、唐の時代であった中国から伝わってきた「五節句」。

現在は「五節句」と書きますが、正しくは「五節供」と書きます。

つまり、「季節」の節目に「供える」「五つ」の行事という意味です。

これは、中国の陰陽道の考えがもとになっていて、季節ごとにお供え物をすることで邪気を祓うという意味があります。

日本では、季節ごとの旬の収穫物を神々に供物として捧げることで、「五穀豊穣」や「無病息災」、「子孫繁栄」などを祈ってきました。

また、供物を親族や知人と一緒に口にすることで、人々との絆を深める行事でもありました。

「節供」が「節句」となったのは、江戸時代に当て字として「句」の字が使われるようになったからです。

江戸時代以後は、「節句」という字がよく用いられるようになり、現在では「節句」の表記が主流となっているようです。

「五節句」をもっと詳しく知ろう!

先ほどもご紹介した「五節句」をもう少し詳しく見てみましょう。

「五節句」とは、その名の通り「5つの節句」を指します。

それぞれ中国から伝わった行事で、時代と共に日本の生活文化や風習に合わせてアレンジされていき、江戸時代になると幕府はこの5つの行事を「節句」として公的に定めました。

この5つの節句は、どれも1年の節目の時期であり、奇数の重なった日に設定されています。

五節句は以下の通りです。

1月1日(後に1月7日)の「人日の節句(七草の節句)」、3月3日の「上巳の節句(桃の節句)」、5月5日の「端午の節句」、7月7日の「七夕の節句」、9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」。

分かりやすい行事がほとんどですが、1月7日の「人日(じんじつ)の節句」や、7月7日の七夕が節句だったとは意外かもしれません。

どの節句でも邪気を祓うことを目的とされていて、「供え物」をしたり「供え物」を口にしたりします。

行事食と言われる節句ならではの食事は、五節句を行うにあたって重要な意味をもっています。

行事食と言えば、「桃の節句」の雛あられや「端午の節句」の柏餅などしか思い浮かびませんが、「人日(じんじつ)の節句」は春の七草を使ってお粥を作りそれを食べることで邪気を祓いますし、「七夕の節句」でも、行事食として「そうめん」を食べます。

このように、現在でも色濃く残る習わしの「五節句」ですが、なぜか「重陽の節句」だけあまり浸透していないように思います。

この機会に大切な5つの行事の1つとして覚えておくといいですよね。

  • 1月7日  人日(じんじつ) 七種(ななくさ)の節供
  • 3月3日  上巳(じょうし) 桃の節供
  • 5月5日  端午(たんご)  菖蒲の節供
  • 7月7日  七夕(たなばた) 竹の節句
  • 9月9日  重陽(ちょうよう)菊の節句 

「 重陽の節句」の過ごし方

「もってのほか」

では、実際に「重陽の節句」はどのように過ごせばいいのでしょうか?

「重陽の節句」は、「菊」を用いることがとても重要です。

菊は家に生けたり、花弁をお酒に浮かべた菊酒を頂いたりします。

さらに食用菊を献立に盛り込んだ料理を食べる、乾燥した菊を枕に入れるなどの風習もあります。

このように、色々なことに菊を用いるのが「重陽の節句」です。

また「重陽の節句」は、時期的に秋の収穫祭と重なっているため秋の味覚を飾ったり食べたりしてもよいでしょう。

栗ご飯を食べる風習も古くから残っています。

ちなみに、中国の古い習わしでは、9月9日に「登高」といって高い山に登ります。

山の上では、茱臾(しゅゆ:カワハジカミ・グミ)を身につけます。

茱臾は、ミカン科の落葉小高木で、赤い実は頭痛や嘔吐(おうと)に効果があると用いられている漢方薬としても有名な植物です。

「重陽の節句」で行う風習

菊のきせ綿

9月8日の夜に菊の花の上に真綿をかぶせます。

夜露で菊の花の香りを真綿に移すためです。

9日の朝にその露で湿った真綿で体や顔を清めると老いが避けられ若返ると考えられていました。

このように菊の花の香りを移した真綿を「菊の着せ綿」といいます。

菊枕

秋に摘んだ菊の花を陰干しにしてよく乾燥させて枕を作ります。

菊の花は上品な香りがし、安眠の効用があるとされています。

「菊枕」は晩秋の季語にもなっています。

菊湯

「菊湯」は、乾燥した菊をお風呂に入れて使用しますが生の葉を使ったり生の花びらをそのまま浮かべたりしても良いでしょう。

菊湯に用いるのは、柔らかく爽やかな香りが特徴で野生菊として一般的な「リュウノウギク」です。

ちなみに、中国名で「母菊(ははぎく)」と呼ばれ「ハーブの女王」とも呼ばれているのが「カモミール(カミツレ)」です。

カモミールは、クレオパトラも薫香として愛したとされ、ピーターラビットの童話ではお腹の調子を整えるハーブティーとして登場します。

高い幅広い効能や効果が期待できるので入浴剤に配合されていることもあります。

食用菊

おひたしや酢の物にして食べることのできるのが「食用菊」です。

「食用菊」の全国生産量が1位なのは山形県で、市場の約6割を占めています。

山形県には現在でも「食用菊」を食べる習慣があります。

そんな「食用菊の横綱」と呼ばれる品種があります。

「もってのほか」という変わった名前の品種で、味の良さはもちろんのこと独特の香りと風味があり、しゃきしゃきとした歯ざわりに特徴があって他の品種よりも秀でているそうです。

この名前がついた由来は2通りあり、「天皇家の家紋である菊の花を食べるのは、もってのほかだ」という意味と、「もってのほかおいしい」という意味が含まれているとか。

「もってのほか」が市場に出回るのは、10月下旬頃からなので旧暦で「重陽の節句」を行う際には楽しめるかもしれません。

地方に残る「重陽の節句」の風習

「重陽の節句」では、「桃の節句」のひな人形や「端午の節句」の五月人形のように人形は飾りません。

ですが、静岡県の稲取の周辺では9月8日・9日にハマオモトの葉で家の人の数だけ「ハンマアサマ」と呼ぶ人形を作る風習が残されています。

お酒や柏餅をお供えし、人形やイカやサンマなどの姿を葉で切り抜いたものを海や川に流すことで大漁を祈願したり、死者の供養をしたりするようです。

現在では稲取地区だけに残る行事で大変貴重な行事です。

愛知県の佐久島では、9月9日に「カズラの節句」としてカズラで男女の人形を作ってお酒に流す風習がありますが、この人形はひな人形のようにお祓いの為の人形だったようです。




「重陽の節句」の行事食

秋の収穫時と重なる「重陽の節句」には、行事に相応しい食べ物を頂く習慣があります。

「重陽の節句」に食べる食べ物

「重陽の節句」では、お酒に菊の花びらを浮かべて長寿を願います。

本来の菊酒は、食用菊をお酒と氷砂糖に漬け込んだものです。

また、食用菊はおひたしや酢のものにしても頂きます。

中国では菊を「菊花茶(きっかちゃ)」というお茶にして飲みます。

菊は漢方薬としても親しまれていて、むくみや便秘の改善に効果的のようです。

秋田の各地では、9月9日は「神節供」と呼び仕事を休んで、菊の花を酒に浸して神様にお供えします。

江戸時代になると、秋の味覚の1つである栗ご飯を食べる習わしがあります。

そのことから、「栗の節句」とも呼ばれています。

特に大分県の国東半島の地域では、稲刈りの季節でもあるこの時期に、栗ご飯を神棚・仏壇に供えて初穂を親方や親族に持って行く風習があるようです。

ナス

「重陽の節句」が行われる9月9日は、「9日(くんち)」と呼ばれナスを食べる風習があります。

この日にナスを食べると、発熱や発汗、咳や頭痛、肩こりなどになどが避けられると伝承されているのです。

地方では「ミクニチナス」、「クンチナス」と呼び必ずナスを食べる風習があるようで、先ほどの記したような体の不調を改善する効果に加え寒さに負けないとも言われています。

その他の食べ物

他にも、小豆粥や小豆飯を作ったり甘酒を飲んだりする地方もあります。

行事食とは? 

行事食とは、様々な季節の行事やお祝いの日に食べる特別な料理のことを言います。

それぞれ旬の食材を取り入れて、体調を崩しやすい季節の変わり目に、栄養と休息を与えたり、家族の健康や長寿を願ったりする意味もあります。

さらに、子供の守り神でもある「端午の節句」に飾り、人形へお供えする「かしわ餅」などは、神様へお供えする食べ物、つまり神饌(しんせん)とも言えます。

神様へお供えした食べ物を頂くことで災厄を祓い、神様の恩恵を受けることにも繋がります。

「重陽の節句」の雑学

「重陽の節句」ではなぜ菊が使われるのか?

「重陽の節句」では、どうして他の花ではなく「菊」が使われるのでしょうか?

それは、旧暦の9月9日がちょうど菊の開花時期だったからです。

また、中国では「菊」は漢方薬としても有名であり、体の無駄な熱を冷ますほか色々な効果も期待できるので不老長寿を得ることが出来るとして珍重されていました。

さらに、菊の香りは邪気を祓うとされていることからも不老長寿に結びつく霊草と信じられていたことが「菊」を使う理由に挙げられます。

菊の花の約束

「菊の花」と「9月9日」にまつわるお話をご紹介します。

お話は、江戸時代の後期の1768年(明和5年)から1776年(安永5年)に上田秋成(うえだ あきなり)によって書かれた『雨月物語(うげつものがたり)』という本です。

日本や中国の古典から抜き出して編集した、怪異小説である『雨月物語』に『菊花の約』という「重陽の節句」にまつわる作品があります。

物語は、戦国時代の播磨の国(はりまのくに:現在の兵庫県)の加古(かこ:現在の加古川市周辺)が舞台です。

この辺りに住んでいた学者、丈部左門(たけべのさもん)は、あるとき病になってしまった武士を看病することになりました。

武士の名は、赤名宗右衛門(あかなそうえもん)と言い、主人である塩治掃部会(えんやかもんのすけ)が出雲(いずも:現在の島根県)で討たれたと知ったため出雲へと急いで向かう途中に急病になってしまったというのです。

丈部左門の献身的な看病は、丈部左門と赤名宗右衛門の間に友情を芽生えさせます。

夏になると、赤名宗右衛門の病は回復し出雲に向かって旅立つ日がきました。

赤名宗右衛門は丈部左門と「菊の節句である9月9日に再会しよう」と約束します。

丈部左門は赤名宗右衛門との約束を信じ、赤名宗右衛門との再会を待ち望んでいました。

しかし、何日待っても赤名宗右衛門からの連絡はありませんでした。

ついに迎えた9月9日、丈部左門は赤名右衛門が来ると信じて菊を飾り、ご馳走を準備して待っていました。

ですが夜まで街道で待っていても赤名右衛門の姿は見えません。

丈部左門は、落胆して帰宅します。

すると、家の前に佇む赤名右衛門の姿がありました。

赤名右衛門は大変喜んでご馳走をすすめます。

そんな、赤名右衛門を丈部左門は悲しげに見つめるとこう話し始めます。

「主人の塩治掃部会を討った大名である尼子経久(あまごつねひさ)の陰謀で監禁され、今日を迎えてしまった。このままでは再会の約束を果たせないと思ったが、『魂は一日に千里を行く』というので、自害をして魂だけだが会いに来た」と語り、丈部左門に別れを告げると、スッと消えてしまいました。

赤名右衛門は丈部左門との再会を果たすために自害をし精霊となって会いに来たのです。

このような「重陽の節句」にちなんだ、悲しい物語が『雨月物語』には書かれています。

「重陽の節句」は大人のひな祭り⁈

「後の雛(のちのひな)」という風習をご存知でしょうか?

「後の雛」とは、「桃の節句」で飾ったひな人形を半年後にあたる「重陽の節句」で再び飾り、健康や長寿、厄除けなどを願う風習です。

江戸時代に庶民の間に広がったと言われている行事で、地方によっては「鬘子節供(かずらこせっく)」と呼ばれ雛草(ヒナソウ)で作った人形を供えたり、流し雛をしたりします。

この「後の雛」には、貴重なひな人形を1年間しまい込まず、半年後に出すことでひな人形を虫干しして人形の痛みを防ごうという暮らしの知恵も込められています。

また、女性の幸せの象徴であり女の子の分身として災厄を引き受ける役目もあるひな人形への感謝と祈りが込められています。

人形を大事に扱い長持ちさせることで、分身である自身の長生きにも通じると考えられているのです。

「桃の節句」では「桃の花」を添えるのに対し、「重陽の節句」は「菊の花」を飾ります。

可愛く女の子のイメージにピッタリな「桃」と落ち着いた大人の雰囲気である「菊」。

「桃の節句」が子ども向きであることからも、「重陽の節句」は「大人の雛祭り」と言われることもあります。

最近は、重陽の節句に向けた雛人形も販売されているようです。




「菊の花」は日本の花ではない⁈

50円玉に描かれているのも菊ですし、日本人にとって馴染み深い花である「菊の花」ですが現在目にするような菊は昔から日本にあった菊ではありません。

そもそも日本には、タンポポなどの素朴な野菊は自生していましたが、見栄えのする大輪の菊はありませんでした。

飛鳥時代や奈良時代に大輪の菊が日本になかったことを表すのは『万葉集』で、『万葉集』の中には、157種もの植物が登場しますが「菊」を詠んだ歌は1首もないのです。

日本に大輪の菊が栽培用として中国から伝わったのは、平安時代とされています。

渡来した当時、人々は珍しくて美しい菊の花に夢中になりました。

鎌倉時代に入ると、初期の天皇であった後鳥羽上皇も菊の花を多変好み、皇室の家紋として取り入れたことから現在の皇室の家紋にも「菊紋」が使われています。

ちなみに、皇族に限らず、菊をデザインした家紋は164もあり(そのうち15が皇族関係の家紋)、家紋にデザインされた植物の中で一番種類が多いのも菊だそうです。

このように、栽培菊は人々にいっきに広がり「春の桜と秋の菊」は春と秋の季節を象徴する花になっていっていきます。

そんな栽培菊から、育てる菊の品種が一気に広がったのは江戸時代です。

特に17世紀末(元禄時代)頃からは「菊合わせ」と呼ばれる新しい品種の花の品評会がしばしば行われます。

江戸のみならず、伊勢や京都、熊本などの全国各地で独自の品種群や系統が生まれました。

「三段仕立て」と呼ばれる仕立て方をはじめ、仕立て方にも工夫が凝らされ、菊花壇や菊人形など様々に仕立てられた菊が観賞され楽しまれます。

さらに、江戸時代から明治、大正時代にかけては日本独自の発展が花開きます。

時代とともに発展した日本の菊は、幕末になると元来の輸入元であった中国に逆輸入されるようになり、そのすばらしい菊の品種の数々は中国の菊事情を一変させてしまうのです。

明治時代になると、大輪の菊である「大菊」に人気が出てきます。

現在では、日本人にとって大変身近な花になった菊ですが、品種改良はが今でも続いているだけではなく、9月9日に限らず菊人形展や品評会も全国各地で行われています。

このように菊が日本文化に浸透したことに対し、重陽の節句の風習が明治以降急速に廃れてしまったのは非常に残念なことです。

「重陽の節句」の知名度が低いのはなぜ?

江戸時代に定められた「五節句」は祝日となりました。

「五節句」の日には、各藩の藩主が登城してお祝いをしたという記録も残っています。

「重陽の節句」もかつては庶民の間にも広まり、お祝いの宴を行う風習が続いていました。

しかし、現在ではわずかな神社やお寺で「重陽の節句」に関わる行事がある程度になっています。

ではなぜ「五節句」の中の「重陽の節句」だけ廃れてしまったのでしょうか?

それは、明治以降に行われた改暦が影響しています。

「五節句」は、以前使われていた暦である「旧暦」を元にして作られた行事ですが、明治以降は「新暦」が基準の暦として定められました。

そのことにより、現在の暦である「新暦」と「旧暦」とでは約1ヶ月の開きがあるため、現在の9月9日は菊が咲く時期ではなくなってしまったのです。

このことが、「重陽の節句」が廃れてしまった最大の原因とも言われていますが、「桃の節句」の桃の花も現在の3月3日にはまだ咲く時期ではありません。

そのため、ビニルハウスなどで早咲きをさせて出荷されていることが多いのです。

現在は菊の花も年中手に入る身近な花なので「重陽の節句」の節句が廃れた原因が菊の花の開花と考えるのは、「桃の節句」のことを考えると少し弱い理由です

もしかしたら、「桃の節句」には「ひな人形」、「端午の節句」には「五月人形」がありますし、「七夕の節句」には「笹飾り」というような主役とも呼べる飾りがあるのに対して、「重陽の節句」には菊の花以外に目立った飾り物がありません。

行事好きな日本人にとって「重陽の節句」は物足りなかった行事だったのかもしれませんね。

縁起のよい数字

中国の考え方の1つに「陰陽道」が挙げられます。

「陰陽道」では、奇数は縁起の良い「陽」の数字と言われていたことから、日本人にも好まれる数字でした。

そのため、本来ならば奇数の重なる日は非常に縁起のよい日となるわけですが、陽の気が強すぎるため逆に不吉とされています。

縁起のよい日なのに、良すぎて強すぎから不吉とは何だか不思議に思いますが、奇数が重なると偶数が生まれるという観点からも、縁起の悪い数字である偶数の邪気を祓うために節句が行われてきたと考えられているのです。

現在の中国では、奇数はあまり好まれていません。

昔の名残で偶数を不吉とされる「陰数」、奇数を縁起が良いとされる「陽数」と言われていますが、中国の縁起のいい数字は偶数とされているのです。

なぜ偶数が好かれるようになったのか?についてはいくつかの要因が考えられます。

まず、中国に伝わる不吉な故事が起こった日が「奇数が重なる日」であることが多かったことが挙げられるでしょう

不吉なことが起こった日は、時を経て邪気を祓う日になっていきます。

そして、生きるパワーを沢山持った季節の旬の植物を飾ったり食べたりするのも邪気を祓うためで、そのような風習は日本にも伝わってきます。

また、それぞれの数字の持つ「意味」や「形」が縁起の良いものだと思わせた側面もあります。

そもそも中国では左右対称などの、対になっているものがいいともされています。

必ず2分することが出来る偶数は対になっているので好かれているのです。

さらに、数字の意味や発音が縁起のよさに結びついていることも要因です。

「2」は、中国語で「和諧(わかい)」という調和がとれていると言った意味があるため、中国で縁起のいい数字とされています。

他に中国で好まれている縁起のいい数字は「8」と「6」です。

8は「発財」という財産ができるという意味の言葉に発音が似ていて、「6」は「六六大順」というすべて順調という言葉から来ているようです。

そのような数字の中で例外なのが「9」です。

日本では「苦」を意味するのであまり好まれませんが、中国での「9」は、奇数でありながらも「久」という「久しさ」や「いつまでも」を意味する言葉と音が同じということで愛されている数字です。

このようにして、9月9日の「重陽の節句」は奇数であっても縁起のよい数字であり、数字の中で一番大きな数字である「9」が重なる9月9日をおめでたい「陽」が「重なる日」とされていることから「重陽の節句」は名付けられました。

「重陽の節句」が別名「重九(ちょうく)」 と呼ばれることからも9という数字が意識されていたことが分かるでしょう。

ちなみに、9月中の9のつく日を三九日「みくにち」と呼んで収穫祭の1つとし、ナスを食べると幸せが招かれるという風習がありました。

9月9日、9月19日、9月29日の3回の9の日はいずれの日も節日(せちにち)になっていて、9日を「御九日(おくにち)」、19日を「中の節供(なかのせっく)」、29日を「乙九日(おとくにち)」と呼ばれています。




「重陽の節句」の限定御朱印

神社やお寺を訪れた時に、お参りした後の参詣の証としていただくのが御朱印です。

神社やお寺ごとに御朱印の種類もさまざまで、 近頃はそんな御朱印集めが密かなブームになっています。

特に季節の行事やお祭りの時期に合わせて授与できる限定御朱印は、貴重がゆえにマニアの中では人気を集めているのです。

今回は、「重陽の節句」の限定御朱印を授与できる神社をご紹介します。

浅草神社(あさくさじんじゃ)/東京都台東区

浅草の鎮守神として名高い「浅草神社」は、「三社様(さんじゃさま)」として古くから親しまれている神社です。

東京の人なら1度は見て見たいと思う「三社祭(さんじゃまつり)」を執り行う神社としても有名なのでご存知の方も多いのではないでしょうか?

「浅草神社」の「重陽の節句限定御朱印」は、初穂料を納めればどの方でも授与頂けますが、ご自身の御朱印帳を持参しないと頒布は行なっていないようなのでお気をつけください。

限定御朱印は、和紙で出来た御朱印を自分の御朱印帳に貼り付けるタイプです。

境内にのりも用意してあるようなので、その場で貼り付けることも可能ですが、御朱印帳の帳面との間に割り印を押して貰うようになっているので、自分の御朱印帳を持参しないと授けて頂けないようです。

住所/東京都台東区浅草2-3-1

初穂料/500円

期間/9月9日のみ

御朱印受付時間/9:00~16:30

浅草神社公式サイト/https://www.asakusajinja.jp/

浅草寺御朱印のサイト/https://www.senso-ji.jp/visit/jumotsu3.html

三輪神社(みわじんじゃ)/愛知県名古屋市

可愛い兎が目を惹く御朱印は、名古屋にある三輪神社で授与される御朱印です。

こちらの神社の御祭神である大物主神(おおものぬしのかみ)は、大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一視されている神様だと言われています。

そのため、境内には大国主神が登場する神話である「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」のウサギの石造が設置されているのです。

神社のシンボルになっているウサギは、神様のお使いであるとされていて、なでることで幸福が頂けたり、なでた部分の痛みを取って頂けると信仰されています。

また、ウサギはぴょんぴょんと跳ねることから運気を上げる、長い耳は福を集めるとも言われているので、御朱印を頂きがてら、是非ウサギをなでてみて下さい。

住所/愛知県名古屋市中区大須3-9-32

初穂料/700円

期間/9月9日のみ

御朱印受付時間/9:00~17:00

三輪神社公式サイト/https://miwajinnjya.com/

「重陽の節句」は「アンチエイジング」を願う行事

藤原道長の正妻である源倫子から紫式部へ「菊のきせ綿」が送られた際に、紫式部はこのような歌を詠みました。

「菊の花 若ゆばかりに袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」

現代語に訳すとこんな感じになります。

「せっかくの貴重な菊の露、私はほんの少し若返る程度に触れておきます。あとは花の持ち主である奥様に お譲りしますから どうぞ千年も若返って下さいませ」

「重陽の節句」は、今風に言うと、「アンチエイジング」を願う行事です。

この時期に一番美しい花である「菊」を愛でながら長寿を願う、なんとも優雅で幸せなお祭りです。

今では廃れてしまっている行事ですが、生活に取り入れて暮しにゆとりを加えるのはいかがでしょうか?

そんなゆとりが長寿を招くかもしれません。

Writing:YUKIKO-加藤

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