神社のみならず、お寺でも見かけることのある狛犬。
特に神社に置かれている姿が散見されますが、‥‥‥どの神社も同じ狛犬がほぼ無いというのが、まず、驚き!
そんな狛犬をジ〜っと見ているとこんな疑問が湧いてきませんかぃ?
狛犬はいったいいつ頃から日本にあるのだろう?
誰が考え出したのか?
誰が何の目的でこんな獅子の形にしようとしたのか?
そんな疑問にこのページではお答えしましましょう!
目次
- 1 狛犬の由来(起源)は中国?朝鮮??それともペルシャ???
- 2 日本の狛犬像のルーツは『仏像の下の台座の獅子座が起源?!』
- 3 日本で初めて石造りの狛犬が神社仏閣の境内に置かれた時代とは?
- 4 日本に最初に入ってきた狛犬像は金属製だった?!
- 5 平安後期頃から木彫りの狛犬像が主流だった!
- 6 一般庶民が狛犬の存在を知ったのが鎌倉時代以降!
- 7 日本で石造りの狛犬を奉納するようになったのはいつ頃から?
- 8 狛犬が神社に置かれ始めたのはいつ頃?
- 9 ところで‥‥日本最古の狛犬はドコの神社?お寺??の狛犬?
- 10 明治初頭の廃仏毀釈の折、狛犬像も破壊された
- 11 明治時代を中心として大正、昭和初頭までは狛犬の存在は忘られていた
- 12 狛犬の関連記事一覧
狛犬の由来(起源)は中国?朝鮮??それともペルシャ???
狛犬はそもそも、どこの国が発祥なのでしょうか?
現在の有力説としては中国の獅子像が起源とされ、それが日本へ伝わると宮中をはじめとした平安貴族の文化に取り入れられ、やがて御帳台(寝所)の前に置かれたりするようになります。
ちなみにこのような屋内に置かれた狛犬を「神殿狛犬」とも呼び、参道に置かれる狛犬像を「参道狛犬」とも呼びます。
しかし狛犬には、まだ他の由来もあるようです。
狛犬を日本に直接伝えたのは、朝鮮もしくは中国。遣唐使や遣隋使、朝鮮経由の貿易といったルートを通って、狛犬のような「守護神としてのライオン像」が日本に伝わったと言われています。
日本の狛犬は現在でこそ「神社の両脇に居る」と思われていますが、元々は宮中の貴族文化において、獅子の置物でスダレなどを抑える、いわば実用的なインテリアとして使われていたようです。
獅子には高貴な人を守護する役割があり、中国では仏教の守護神として仏像の左右に置かれることがありましたが、これが転じて、神社の守護として置かれるようになったと考えられます。
では、中国、朝鮮エリアにはどこから伝わったのでしょう?
インドから中国へと伝わった霊獣としての獅子の姿
結論から言うと、朝鮮に狛犬の姿を伝えたのは中国です。
その中国に狛犬を伝えたのは、インドからのシルクロードのルートであったと考えられます。
中国には元々、伝承としての「霊獣」の存在がありました。麒麟やドラゴンのような、想像上の生き物の1つとして並べられたのが「獅子」であったわけです。
この理由としては、古代中国にはライオンはいなかったものと考えられます。
一方、古代インドには、一部、ライオンが生息していたと考える向きもあります。
中国では、ライオンはあくまでも想像上の生き物であり、ライオンの絵姿や話から「唐獅子(からじし)」と呼ばれる下掲の横浜中華街などで舞われる「獅子舞(ししまい)」の姿ができあがったと考えられるでしょう。
一方、インドでも獅子は強い生き物、すなわち「守り神」として考えられるようになります。
仏教において、仏像の左右に獅子像を置いて祀る(仏像を護らせる)ような風習もインドが発祥となって行われていたことが明らかにされています。
この通俗が中国へ渡り、日本へと渡り、神社の左右を守護することにつながったものと考えることができます。
【補足】獅子舞の起源と狛犬との関連性
獅子舞の面は確かによ〜く見ると、「獅子(ライオン)」とはとても言い難い造形をしており、どちらかというと限りなく日本の狛犬像に近い造形をしています。
獅子舞のルーツは謎とされていますが、一説には「伎楽(ぎがく)」にあると言われます。
厳密にはこの伎楽の踊りの中の1つである獅子舞に似た踊りの動作や装飾などが残ったと考えられています。
伎楽は推古天皇時代(飛鳥時代)に百済人の「味摩之(みまし)」によって呉(中国南部)から伝えられ、演者がお面を付けて楽器などのリズムに合わせて舞うように踊る演劇の一種です。
しかし時代を経るごとに徐々に日本独自の雅楽や田楽、舞楽などへとスリ替わり、猿楽(能)が舞われる頃には、ほぼ完全に廃絶しています。しかし、なぜか獅子舞の演劇だけが踏襲されることになり申す。
これはおそらく中国文化である伎楽が日本の風土に合わず、お面のデザインや踊りそのものが日本風にスリ替わったと考えるのが自然です。
したがって獅子舞の獅子面は日本風にアレンジされた面であり、獅子舞の面にしろ、狛犬にしろ、日本人の美意識がもたらした産物といえます。だとすれば共通点が生じても何ら不思議ではないということでゴンす。
エジプトからイラン(ペルシャ)を経由しインドへ
インドへの伝播をさらに遡ると、獅子(ライオン)崇拝の形跡はエジプト、つまり「古代オリエント文明」に見ることができます。
エジプトでは、スフィンクスが有名ですが、スフィンクスは顔面こそ人間になっているものの、肉体のほうはライオンという生物です。言うなれば「人面ライオン」。
そしてその強さから、ライオンは「王者に侍るもの(身分の高い人のそばに付き従う従者)」として扱われました。
強いライオンを従えているものが王様だ!‥‥というわけです。
そこでエジプトでは玉座のそばにライオンの像が置かれたりもしました。
著名な例を挙げれば、かの黄金のマスクで有名な紀元前14世紀のエジプト王「ツタンカーメン」の王墓発見者カーター氏は、自書「発掘記」の中で、野鳥やライオンなどの砂漠の動物を仕留める若いファラオの姿を、実に生き生きと活写した調度品が多いことに触れています。
このエジプトでの獅子崇拝が、ペルシャ(現在のイラン)へと伝わり、これがインドに至って仏教の守護神としての役割を持ち、中国・朝鮮を経由して、日本に渡った。
‥‥‥というわけで、狛犬のルーツのそのまたルーツは「古代エジプトのライオン崇拝」にあった、というわけです。
※説によって、狛犬の発祥がインドであり(インド西部にはライオンが住んでいたため)、これが東に渡って狛犬に、ペルシャ経由で西に渡ってスフィンクスになったとも言われます。
古代エジプトやアラビア半島にはライオンが多く生息していた
ライオンはかつてバルカン半島やアラビア半島からインド中部地方にまで多数、生息しており、BC5000年〜6000年頃になると盛んにそのライオンをモチーフとした像などが造立されたとあります。(参考文献:藤倉郁子著「狛犬」)
例えば、紀元前14世紀に最盛期を迎えたとされるヒッタイト王国の城門の両脇には、如何にもライオンをモチーフとしたことが分かる巨大な獅子像が置かれたとあります。(参考文献:上杉千郷著「獅子狛犬の源流を訪ねて」)
これは明らかに力の象徴である百獣の王「ライオン」を据えることにより、王の権威を内外に示し、同時に王国の守護獣としてのシンボルであったことが理解できます。
これは現在の日本の寺社境内に配置される狛犬像もしくは沖縄のシーサーの起源ともいえる存在です。
やがてこのようなライオンを霊獣として崇める文化はシルクロードなどを通じて全世界へ伝播していくことになり申す。
世界最古の獅子像
なお、かつてイラクの首都バグダット郊外にあったテルハルマール寺院跡からは、およそBC1800年頃のものと思われる一対の獅子像が発掘され、現在、イラク国立博物館に所蔵されていますが、これが世界最古の獅子像と言われます。
その像容は現在の狛犬を彷彿とさせるほど類似しています。
画像引用先:https://www.theiraqmuseum.com/
日本の狛犬像のルーツは『仏像の下の台座の獅子座が起源?!』
上記以外にもまだ他に、狛犬の起源にまつわる説があります。
狛犬は獅子像単独として伝来したのではなく、当初は仏像の下の台座に獅子があしらわれた「獅子座」としての意匠が伝わった後、それを日本独自の美意識・流儀をもって日本風にアレンジされたものだという説です。
この説によれば、狛犬は仏像に随伴する形で日本へもたらされ、朝鮮半島からではなく、法隆寺壁画にも見られるように飛鳥時代に中国の隋・唐から直接、伝来したということです。
朝鮮半島を経由しなかった根拠としては、朝鮮半島の仏像に獅子像が発見されていないことが理由になっています。
ではなぜ、中国が発祥なのに「こま(高麗)犬」なのか?
‥‥とまぁ、勘の良いあなたであれば、このような疑問が出てくると思いますが、これについての確たる回答はないのが現状です。
しかしながら、有力な見解が浮上しており、これによれば「狛犬」は「こま(高麗の意)の犬」ではなく、「狛犬」という1つの独立した霊獣を指し示す言葉だと考えられています。
つまり「狛」と「犬」とは分解して読むものではないということです。
日本で初めて石造りの狛犬が神社仏閣の境内に置かれた時代とは?
仏像に随伴する形で中国から日本へもたらされた狛犬は、鎌倉時代以降になると石造りの狛犬を神社仏閣の社頭に配置する風習が生まれます。(参考文献:本多静雄(陶芸研究家)「陶磁のこま犬」より)
日本に最初に入ってきた狛犬像は金属製だった?!
日本に最初にもたらされた狛犬像は現在のような石造りのものではなく、装飾性の高い仏具としての像とされ、そのほとんどが金属製だったと言われています。
前述のような宮中の御帳台などに置かれた獅子像も古いものは金属製だと言われています。
平安後期頃から木彫りの狛犬像が主流だった!
平安時代後期あたりになると獅子像と狛犬像を作る際に様式が定められ、獅子は金箔押しで毛髪には緑青(ろくしょう/平易に”青サビ”のこと)を塗り、狛犬の方は銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛を描くなどの決まりができたようです。
このような決まりを遵守するには、金属製では困難を極め、そこで代用されたのが「木彫り」だったという説があります。
それゆえ、平安後期以降しばらくの間は木彫りの狛犬が流通したようです。
一般庶民が狛犬の存在を知ったのが鎌倉時代以降!
宮中や平安時代に貴族の邸宅、格式の高い神社仏閣などには獅子像や狛犬像が奉納されたのですが、これらは名のある仏師たちが造立し、屋内に置かれたことから、一般庶民の目に触れることはありませんでした。
しかし、鎌倉時代になると貴族たちは獅子像や狛犬像を屋内に置いて自らの守護としている‥‥などの話が流布し、それを聞きつけた庶民たちもこれを真似て、陶磁製の小さな狛犬像を作って家内に置いたり、神社仏閣へ奉納するようになります。
特にこの風習が顕著だったのが、焼き物で有名な「瀬戸」や「美濃」などの地域です。これらの地域では山岳信仰や岐阜で発生した「お犬様信仰」などと結びつき、「狼」や「犬」を模した陶製の狛犬像が神社仏閣へ多数、奉納されたとの記録も残されています。
日本で石造りの狛犬を奉納するようになったのはいつ頃から?
現在のような石造りの狛犬が作られ始めたのは、江戸時代。
江戸時代には狛犬奉納ブームが全国で巻き起こり、これが現在見られる狛犬の起源とされています。
狛犬が神社に置かれ始めたのはいつ頃?
狛犬は当初、宮中や貴族の邸宅の御帳台などに置かれたのですが、ではそこからどのような経緯を経て神社へ置かれ始めたのか?
実はこの流れを考えるのは容易であり、天皇家や有力貴族たちが自らの崇敬社であった神社へもたらしたと考えるのが自然であり、数々の旧書を見ていてもこれはまず間違いないでしょう。
しかし問題は神社へもたらされた狛犬が、現在、当たり前のように境内で散見される狛犬像のような広まりを見せるには、神社側の納得や理解が必要です。
いくら権力者である高家の一存があったとはいえ、神を崇める神社が採り入れるかどうかは別の問題です。
しかし神社が、狛犬という言わば文化や信仰を採用したからこそ、現在のように狛犬は全国の神社に置かれるようになり、今日、一般庶民層では狛犬を知らない人はいないほどにまで知れ渡るようになっていまする。
では、神社がなぜ狛犬を採り入れたのか?この謎は神社の起源を紐解いていくことで理解することができ申す。
神社とは神道を核に据え、自らが崇める神を祀るための宗教団体ですが、その神道にも流儀というものがゴザんす。
古代日本より形成される原始神道では自然信仰とも呼ばれるほど、神は岩や山、海、樹木などを依り代として、時に宿ると考えた信仰です。
この概念は現在の神道においても核として据えられるものです。
しかし、その無色透明であった純粋な神道にも、人類が持つ支配欲というものに穢されるようになり、時代を下りながら政治力や権力が介入することになり申す。
その後の流れは語るまでもなく、数々の権力者の意向により、やがて外来の仏教と神道が入り混じる「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」なる思想を生み出し、やがて仏門の仏像が神道にまでもたらされると、現在の随身門などに見られるような神像が誕生します。
勘の良い方ならもうお分かりいただけたかと思うが、この神像から派生して狛犬が神社境内へ置かれ始めたと考えられる説があるということです。
ただし、厳密には神像とは天子の姿を映した像とされ、その天子像(天皇)を守護するための霊獣として狛犬が置かれたということです。
以上のような土台がまず根底にあり、その後、江戸時代になって前述したような狛犬奉納ブームが到来し、一気に全国へ狛犬という文化が広まることになるのでゴザぁ〜る。
ところで‥‥日本最古の狛犬はドコの神社?お寺??の狛犬?
さて、ここまで読み進められてきた、あなたに質問です。
ズバリ!日本最古の狛犬像はドコの神社、もしくはお寺の狛犬像だと思いますか?
ちょぃと考えてみておくんなせぇ。
‥‥‥
‥‥‥
はい!残念無念っ!
正解は‥‥‥、
現今、日本最古の石造りの狛犬は「東大寺南大門の狛犬」とだと言われます。制作年代は1196年(建久7年/鎌倉時代)と伝えられています。
⬆️東大寺南大門の狛犬像(有名な仁王像の裏側に置かれている)
東日本において最古の石造りの狛犬は日光東照宮の「奥の院」参道の狛犬だと言われますが、奉納時期は1641年(寛永18年)頃とされています。
⬆️日光東照宮・奥の院参道の狛犬像
明治初頭の廃仏毀釈の折、狛犬像も破壊された
江戸時代に繁栄を極めた狛犬文化ですが、やがて時代が江戸から明治へ移り変わると、今度は「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の波が訪れます。
廃仏毀釈は明治新政府が発令した「神仏分離令」に紐づくものですが、意味合いとしては、それまで手厚く保護されていた寺院の仏像や仏塔、経典などの破壊活動や処分が異常なまでに行われたことです。それを国家が黙認していた背景もありまする。
江戸期以前は神仏習合の時代だったこともあり、お寺の中に狛犬像が置かれているのが普通でした。そんなことから「神社=狛犬像」という図式はなく、お寺のものとして破壊されたり、埋められたりする一面もあったようです。
明治時代を中心として大正、昭和初頭までは狛犬の存在は忘られていた
明治時代は文明開化に活気付き、世間は洋式ムード一色。そこから経済が右肩上がりで成長を遂げ、大正→昭和へと駆け上って行くのですが、この間、狛犬の存在はというと、江戸時代のような熱狂的な奉納ブームは過ぎ去り、世間から遠く忘れられた存在になります。
この間、狛犬文化にとって空白の数十年と呼ばれる時代が続いたのです。
皇紀2600年に再び狛犬奉納ブームに世間が湧く
1940年(昭和15年)になると、「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」を奉祝する風潮が広まります。
太平洋戦争突入の前年となる昭和15年といえば、11月10日に天皇・皇后ご臨席のもと、宮城前広場において催された『紀元二千六百年』を奉祝する式典で世間はどよめき活気付きます。
これに向けて内地・外地を問わず様々な行事や活動が執り行われ、国威は多いに発揚します。
この皇紀2600年を境とし、現在に紐づく新たな狛犬の形が生み出され、これが次第にスタンダードになっていきます。
中でも特に目覚ましい動きを見せたのが、愛知県岡崎市に拠点を置く、上佐々木町の「岡崎石工集団」たちです。
岡崎石工集団は岡崎城築城の際、地場で採石される「みかげ石」を使用した際に多くの石工が寄り集ったことが起源とされ、さらに岡崎城主「田中吉政」が河内や和泉などからも多くの石工を移住させたことから、同地は石工文化が飛躍的に発展しています。
現在でも、「岡崎石工団地」と称されるようにこのあたりには多くの石工会社が軒を連ね、その石工集団たちの意匠により、新たな昭和の狛犬像が数多く、生み出されています。
これらの狛犬像はその通(ツウ)の間で「岡崎現代型」などと呼ばれますが、これらの狛犬像は岡崎石工組合副会長を務めた6代目「酒井孫兵衞」が明治時代末期から大正期にかけて試行錯誤の上に生み出した狛犬たちです。
やがて、6代目「酒井孫兵衞」が生み出した狛犬は全国を飲み込むほどに流通し、供給が需要に追いつかず、他の石工屋にも造立方法を伝えています。
まず、これが「岡崎現代型」と呼ばれる狛犬が全国に広まった理由の1つです。
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