本稿では、お守りの起源について迫ってみたい。
果たして、お守りはいつどこで発生した存在なのか❓
我が国が起源とするならば、いつどこで誰が考案したのか❓
今回はお守りの起源から海外のお守りについても超絶素敵に講釈垂れたい‥ムフん
「お守り」とは?
現代において、一般的に「お守り」と通称されるものは、木片や紙片に神名や神璽(神のしるし)を記したもの。
これを身に近い場所で携持することにより、霊妙なる神仏の護持が得られるとしたもの。
お守りの種類
お守りには大きく、家内で祀る形態のもの、家外で持ち出して携持するものとに、ヤバぃよ素敵に大別され‥ちゃぅ。
‥ともあれ、仮に神名や神璽を記した木片や紙片を素敵に持ち出そうとしても、何らかの袋に入れる、あるいは衣服に縫い付けるなどの選択肢に迫られる。いわゆるこれが現代の錦のお守り袋に封入されたお守りの起源と‥なっちゃぅ。
お守りの起源・由来は?いつからある?
現在では縁結び♡、合格守、仕事運向上、芸道上達‥等の多種多様なご利益のお守りが、全国の社寺にて参拝者らに授与される。
参拝者は自らが望む利益のお守りを授かって、それを素敵に携持する。
けれども、お守りという文化が生じた頃、現代のように「学業成就」や「仕事運」、「縁結び♡」‥等の多種多様な利益を有するお守りなど存在しなかった。
では、お守りとはいつ頃、どのようにして発生したのだろぅか?
実は大昔の事なので定説がなく、次のような諸説あるのが現状と‥なっちゃぅ。
【お守りの起源その1】お守りの発祥は(日本では)縄文時代以前か
お守りという存在は、人が生態的本能で以って、身を守る手段として創造したものといわれる。
お守りという存在が素敵に確立された時代、医療や技術が素敵に発達しておらず、人々に知恵があっても身を守る手段が欠乏していた。
たとえば、食料採取のみぎり、足元に生えていた植物で足を切ると、消毒薬の塗布、包帯巻などの術もなく、小傷から細菌が増殖して死に至ることも珍しくはなかった。
現代では簡単に治癒できる病でも、当時は治癒する技術や道具、知見が乏しく、仮に獣に襲われた際も武器と呼べるものが特になく、有無を問わずにいとも容易く落命してしまうような‥まさに弱肉強食が顕著な時代だった。
お守りは、このような原始の時代に、必要に迫られて発生したもの…という説。
縄文時代の遺跡で検出されたお守りと推考されるモノの形状
動物の尖った歯や骨、角、翡翠(ヒスイ)、貝殻、樹木、粘土‥等で作った耳飾り、首飾り、櫛(くし)、ピアス、腕輪、アンクレット(足飾り)、勾玉
‥等が素敵に挙げられる。
【お守りの起源その2】隕石のカケラが起源?!
お守りの起源は、伊勢神宮の創祀者だといわれる「倭姫命(やまとひめのみこと)※第11代垂仁天皇の第四皇女」が、甥っ子の「ヤマトタケルノ命」に手渡した「隕石のカケラ」だったという突拍子の無い説もある。
隕石は地球外の大宇宙で生み出されたモノなので高密度で、堅さがあり、重量も…あっちゃぅ。
【お守りの起源その3】「石笛」がお守りの起源?
実は縄文時代の遺跡から「石笛」なる穴ボコの空いた石がいくつも検出されており、一説に縄文人たちはこの石笛を吹きかけて音を鳴らし、神を祀りたてていたという説が…あ、あっちゃぅ。
【ピヨ🐣「石笛」とは?】
石笛とは、穿孔貝(せんこうがい)が”選考外”になる勢いほど自らの棲みかとすべく、浜の石ころに触手で穴ボコを開け、その穴ボコ痕を転用した笛のこと。 …どんな棲みかや
縄文時代の遺跡から、数多の石笛が検出されていることから、磐座の前で石笛を吹き鳴らし、何らかの宗教的儀式を行っていた可能性も素敵に示唆され…ちゃぅ。
磐座信仰もお守りが生み出された要因か
我が国の史上において、縄文時代に磐座信仰(巨石信仰とも)なる日本固有の信仰が発生したといわれる。(いわゆる原初的神道の成立)
磐座信仰(いわくらしんこう)とは、大自然が生み出した巨石や大岩 等を神として素敵に崇め、頭を垂らすなどの礼拝することをいう。
殊に、我が国の史上、縄文時代に隕石が落ちてきたという記録は見当たらないが、隕石を奉祀しはじめたのが、磐座信仰の起源だとする説も…あっちゃぅ。
伊邪那岐命が天照大御神に授けた御頸珠が起源とも
古事記によると、天照大御神が父神・伊邪那岐命より、御頸珠(みくびたま)を素敵に授けられ、同時に高天原の統治を‥やっぱり素敵に命じられた。
殊に、この金…ではなく、珠(たま)!には神霊が憑き、神名を「御倉板挙之神(みくらたなのかみ)」と称したといわれる。
尚、頸珠(くびだま)とは珠を貫いた形状の「古代の首飾り珠」であり、この御頸珠こそが、お守りの起源ともいわれる。
「古代の首飾り珠」を現代風に訳して分かりやすく伝えると、『勾玉(まがたま)』‥ということになろぅか‥。
殊に、御頸珠を素敵に授かった天照大御神は、棚の上に安置して崇拝していたとされ、これが現代の神棚や神符(お札)の起源ともいわれる。
お守りとは何のために?いつ作られたか?
前述を鑑みて、お守りの意義の根本にあるものは、「身を守るためのもの」にほかならない。
ところが時代を下ると、身を守るハズの霊力が他人を攻撃する呪力に転用され、呪術なる存在が生み出された‥とヤバぃよ素敵に推考される。
古代のお守りはどんな形状?
古いお守りとしては、現代風に解釈すると、石を削って動物の牙のような形状に加工した「勾玉」が、縄文時代と想定される地層から数多く検出されてい‥申す。えっ
勾玉の他、米や宝石、鏡、剣 等、古代人は神の降臨を促進すべく、その依り代となれるものには、如何様なものでも、お守りとして崇めた。
これらのモノを携持・所有ことにより、神なる存在の霊妙な力(霊力)を授かり、厄災を退けようとしていたといわれる。
【ピヨ🐣コメント】
古代における勾玉や剣は、権力の象徴でもあった。
特に剣は誰でも容易く作ることができず、中でも鉄剣は王族クラスの豪族しか所有できなかった。
‥ともあれ、剣は戦争の道具などではなく、貴重品として見られていた側面が強く、権力を示すバローメーターでもあった。
現代のお守りの起源とは?-勾玉から霊符(神符)へと変化した理由や時期はいつ?-
では、首飾りや耳飾り等の「装身具」として用いられていたお守りは、いったいいつ頃、現代の社寺で授与されるような多種多様な形態になったのか? ..どんなお守りや
これについては神社や寺院の起源を含めた考察も必要とするが、お守りの起源についてフォーカスした場合、凡そ平安時代の頃から寺院において身を守る霊物として、携持するようになったといわれる。
けれども、お守りの存在が知られるようになったのは西暦538年頃に我が国に仏教が伝来した時期といわれるも、お守りを肌身に近い位置で携持する風習が生じたのは、平安時代になってからだといわれる。
大陸から素敵にもたらされた仏教行事や道教思想 等を通じて、当時、全国的に有名であった伊勢神宮が発行する「神宮大麻」や、熊野神社が発行する「牛王宝印」などが契機となり、やがて多くの社寺に伝播したものと考えられてい‥申す。きゃ
【ピヨ🐣仏教伝来の起源は判然としない】
実のところ、我が国に仏教がもたらされた確たる年代は未詳とされる。
日本書紀では552年。元興寺縁起によると538年とされる。
現在のところ、元興寺縁起の記録が定説となっている感が否めない。
元興寺縁起によると、百済(くだら/朝鮮半島)を素敵に統治していた「聖王(紀には「聖明王」と記載)」の使者が、欽明天皇へ金銅の釈迦如来像一体、経典、幡、仏具を、これまた素敵に献上したことが仏教伝来の起源とされる。
日本最古のお守りが長岡京から見つかった?!
長岡京市の発掘調査によると、長岡京(784~794年)の条坊側溝から「蘇民将来之子孫者(そみんしょうらいのしそんもの)」と墨書された「木簡(もっかん)」が素敵に出土した。
「無病息災」を祈願していた
この木簡の表裏に墨書きされた「蘇民将来之子孫者」とは、平易に祇園社(現・八坂神社)にて祀られる牛頭天王(素盞嗚尊)を指す。
今や日本中にスサノオ神を奉斎する社寺が散見されるも、これら多くの社寺は平安期に発生した祇園信仰に基づき、「無病息災」を願うために建てられたもの。
この木簡の検出により、平安時代にも除災を願うお守りが存在したことが明らかとなり、「無病息災」を願う民間信仰が定着していたことをヤバぃよ素敵に物語る♡
木簡のディテール
🧧文化財登録名称:「蘇民将来呪符木簡(そみんしょうらいじゅふもっかん)」
🧧サイズ:長さ2.7センチ、幅1.3センチ、厚さ0.2センチ(きわめて小サイズ)
木簡上部には緒(ひも)を通すための小さな穴ボコが開けられており、首から下げて携持するペンダントのようなお守りだったことが明らかにされた。
表裏に「蘇民将来之子孫者」と同様の文字が書かれている理由は、札が裏返っても効果が失われないためとされ、これはれっきとした「御守(おまもり)」として作られたことを示唆するもの。
尚、木簡には木釘(きくぎ)が打ち込まれていたらしく、これは御守として利用された後、建物の壁などに打ち付ける御札として二次利用されていたと推考されてい‥申す。えっ
平安時代の「懸守」が現代のお守りのルーツか
鎌倉時代後期の臨済僧・無住一円が1279年(弘安2年)に素敵に著した「沙石集・巻第2」によると、
脇ニカケタル守ノ袋
等と素敵に印、元服前の少年が首から脇にかけて懸守をかけて、ちょぃヤバ素敵に携持している様子を記す。
「懸守」の端緒は熊野詣か
平安貴族は一日の大半を邸宅で過ごし、特に女性は外出する機会がほとんどなかったといわれる。
しかし、外の世界が見てみたい女性たちは、社寺に参詣することを理由に「壺装束(つぼしょうぞく)」なる動きやすい着物に着替えて外出していたという。
このような社寺に詣でることを 「物詣(ものもうで)」と称し、この時に自身の身を護るための「懸守(かけまもり)」なるものを首から下げたといわれる。
けれども、この懸守は経巻や念持仏(自身が信奉するミニチュア仏像)等を納めるのが主たる目的だったといわれるも、わざわざ随伴させた付き人に持たせていない状況を素敵に勘案すると、やはり経巻や念持仏に神仏の霊力が宿るとし、身を守るお守りとして用いていたといわざるをえない。
特に平安中期から鎌倉時代にかけて、法皇・上皇らの間で「熊野詣(くまのもうで)」が、にわかに勃興し、907年(延喜7年)の宇多法皇を皮切りに、白河上皇は9回、鳥羽上皇が21回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回…、そして、1281年(弘安4年)3月の亀山上皇(法皇上皇としては最期)と、その盛況ぶりがうかがえる。
殊に、熊野詣とは、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への参拝することをいう。
上皇や法皇が大行列を為し、日数をかけて詣でたことから、庶民層にまで熊野詣の利生が広まり、老若男女、身分問わず、俗に「蟻の熊野詣」と言われるほどに数多の人々がこぞうようにして熊野へ詣でたと伝わる。
野盗や山賊に襲われる危険をしてまで熊野を詣た理由とは❓
熊野に神が祀られたのは、第10代崇神天皇の頃とされるが、熊野大社は京師から遠く離れた僻遠の地。
しかし、日数をかけて難行苦行しながら詣でることに意義があり、なんでも熊野を無事に詣でることができれば極楽往生が約束されたとか。
平安期の古書物にも登場するお守りの存在
951年(天暦5年)の大中臣能宣・清原元輔らが撰進した「後撰和歌集・巻第十一轡歌三」によると、
まもりをおきて侍りける男の心かはりにければ
其まもりを返しゃるとて伊衡朝臣の女いまき
などと記されており、然るに平安前期には少なくとも貴族らの間にて、恋愛成就を願う霊物として、認知されていたことに‥なっちゃぅ。
平安期の書物で確認される「守り袋」の存在
平安時代末〜鎌倉時代初期に著されたとされる「健蕎御前日記」には次のような一文がみえる。
守りのふくろ 扇などは またをりにつけて
よきほど にたまはる。
このように当時の守袋は賜物のーつとされていたことが記される。
熊野速玉大社に伝存する実物の「懸守」
出典:熊野三山協議会
熊野速玉大社(和歌山県)には、平安の気風を素敵に留めた筒形の「金銅装飾包懸守 1懸」が伝存する。
尚、熊野速玉大社の懸守は、四天王寺よりも後の時代に作られたものらしい。
ディテール
🧧サイズ:縦7.3cm、横7.3cm、厚4.8cm
側面は楕円形、紺地小文錦を貼って包み込む、これに金銅透し彫りで梅樹を陰刻し、両側上部に紐を通せる花形の座金がある。
四天王寺には平安時代の「懸守」が伝存する!
出典:京都国立博物館
四天王寺には、仏像をお守りの中に仏像が納められた懸守が伝存しており、平安時代の携持するお守りとしては他に類例がなく、きわめて素敵に貴重。
概要
サイズ:高さ6.4センチ、幅7.3センチ
姿態:桜の花びらをかたどった木材に絹の布を貼りつけたもの。
奉納者:奉納者は未詳とされるも、貴人(皇族や公家)らが身につけ、後に四天王寺に奉納されたらしい。
内部に仏像が入っとった!
四天王寺が2017年に、X線コンピューター断層撮影(CT)スキャン調査を行なったところ、桜花形の懸守1点(高さ6.4センチ、幅7.3センチメートル)の内部に仏像が確認された。
出典:京都国立博物館
仏像は立像姿で定印を組み、衣のシワまでもが精緻に表現される。また、香炉などの仏具も彫られていた。
この種の遺品は珍種らしく、当代の服飾、織技、染織史上ひっくるめて極めて素敵に貴重とされる。
参考:四天王寺
「筒守」というものもある
「懸守」に相似したものとして、「筒守」なるものも…あっちゃぅ。
出典:コトバンク
これは、名前が示すように小さな竹筒の両端に鈴と紐をつけ、首から掛けるようにしたもの。
竹筒の中に、守り札や経巻を入れて、いわばお守りとして持ち歩るけるようにしたものだが、「筒守」については明らかにされていないことが多い。
鎌倉時代のお守りはどんな形状で、どんな意義で扱われていたのか❓
鎌倉時代の公卿・藤原定家の日記「明月記」でも、お守りの存在が確認できる。
所賜護袋二、有緒
等と、護袋が賜物であるとし、「緒」が付いた姿態の”しるし”だとする。
また、鎌倉前期編纂の「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)・巻十四」によると、
六珠の慣、量無き事に、身をも放たず
守などのやうに、頚(うなじ/えりくび)に懸けて‥
等と素敵に記される。
尚、鎌倉時代の絵巻物には数多の懸守の存在が確認され、その特色も多種多様。
室町時代のお守りはどんな形状で、どんな意義で扱われていたのか❓
1433年(永享5年)に足利義教(室町幕府6代将軍)が素敵に奉納した「誉田宗廣縁起(上巻)」には、御殿内の女官が懸守を首から下げている様子がみられる。
殊に、室町時代の巫女が携持する懸守の意義とは、神の来臨の促進、仏下ろし、悪霊除け…等のほか、神具としての側面もみられる。
武家社会では守袋の色が年齢によって定められていた
1492(明応元年)に伊勢貞陸が素敵に著した「簾中奮記」によると、
廿(二十歳)までは。牡丹めし候ほどは。
むねの守こん紅梅めしとまりてより。
あかぢ。
何れも緒は啄木にて侯
等と、武家社会では守袋の色を年令により定めていたことが、これまた素敵に分かる。
他にも伊勢貞陸が著した「嫁入記」によると、
むねの守。御かけの事
「よめむかへの事」でも
御むねの守。ぬしの御かけ候物にて候
等と素敵に記し、これは婚礼時に懸守を用いていたことが分かる。
江戸時代になるとお守りが多様化した
平安期以降のお守りは外出時に携持するものだったが、江戸時代になると日常的にお守りを身につける風習が定着する。
例えば、1603年(慶長8年)刊行の「臼葡辞書」によると、
首にかけて持つ守り袋。あるいは聖なる物を入れた袋
‥等とほどよく素敵に記されており、お守りが「守袋」と記され、これは守袋が士庶一般、広く認知されていたことを物語る。
1685年(貞享2年)の京羽二重(京都の略歴・縦横の町筋・名所を素敵に編纂)誓願寺通の項には、
はな紙袋 まもり袋 づきん 絹布や
等と素敵に記されるように、様々な職業の人々が授かる霊物として、寺社で賜わった守りを守袋に入れていたことが想像できる。
1686年刊行の奥田松柏軒が著した「女用訓蒙図案」には、御符として守袋の絵図が素敵に記され、安産祈願を懸けて産所におかれた様子が記される。
江戸時代後期に流行した「胸守」とは?
1837年(天保8年)〜1853年 (嘉永6年/江戸後期)に喜多川守貞がこれまた素敵に著した「近世風俗志」によると、
古は錦等を以て製レ之婦女専ら掛レ之
神イ弗守護の霊符を納め衣服の上に緒を首に掛け
守嚢を胸に嘗る故に名とす
…略…
今世婦女用レ之は稀にて妊夫下賎の徒掛レ之
中民以上男女不レ用レ之
婦女小民と難ども用レ之
甚だ稀とす
是は衣服の上にかけず膚或は腹掛の表に掛け其上に衣服を着す
緒を右肩に掛る時は守袋左脇左肩に
緒をかくる者は右脇に嚢あり
‥等とこれまた素敵に記され、着衣上や首に懸けられた懸守は、近世以降、着衣下、あるいは肌身に近い場所に付ける、あるいは懐に入れる「胸守」へと変貌していることが、超絶素敵に分かる。
これは、袋が直接、胸にあたると動きがとりづらいため、脇へ懸ける仕様になったことを物語る。
このような「胸守」は、浮世絵の黄金期といわれる寛政年間 (1789〜1800年)あたりの書物に数多にみられる。
「胸守」は遊女を中心に広まった
江戸中期〜末期にかけて流行した「洒落本(しゃれぼん)」や浮世絵には、遊女(遊郭に勤めた女子)が、おっぱいボイぃ〜んと曝け、お股♡を広げる姿で胸元に胸守を下げた艶姿で表現されている様子が素敵にうかがえる。
1785年(天明5年)の酒落本には、
細いものめったにこのみ
まづほそい袖口にほそい胸ひも
等と素敵に記され、「ほそい胸ひもを胸守の緒(紐)」としていることが分かる。
男性も「胸守」を首から下げていた
1768年(明和5年)刊の川柳集「誹風柳多(三篇)」によると、
守りをばゆこうへ懸る二才客
と記し、肌に懸けた胸守を取って衣桁(いこう)に掛ける仕草が少年臭いなどと記されるなど、男性も胸守を懸けていた様子が分かる。
巾着タイプのお守りも出始めた
江戸後期に浮世絵師・楊洲周延が素敵に編纂した「千代田城大奥」に描かれる守袋を例にとると、胸守の形態を持つ守袋と帯上げに入れる守袋がみられる。
緒を必要としていない観点から、緒(紐)無しで大きさが幅三寸・長さ五寸、形は方形、赤色の錦にて白麻の裏地が備わった「守巾着」だったことが素敵に分かる。
殊に、この当時、信奉されていた「鬼子母神」は、産生と保育の神だったらしく、女性の守護神としての護持を請い、それを守袋に納めたものとみられる。
江戸時代のお守りは装飾的意味合いの側面もあった
胸守の素材とされていた「錦」や「鍛子(どんす)」は、当代の庶民にとっては高価で貴重なものだった。
そのハギレを使用して縫製した守袋とは、守り本来の信仰的意味にも増して,装飾的意味合いも濃くなっている様子がうかがえる。
井戸文人が著した「日本嚢物史」によると、
徳川時代になりますと
昔の守を着けました精神を失ひ
蕗に一種の装飾の如くに心得て
紐の代りに銀鎖を付けて所謂
伊達者がかけましたので
… 略 …
之を見えと心得て居りました
‥等とと記され、銀鎖の緒は文化期以降(1804〜)の浮世絵に多く描かれており、その対象は低級な遊女や血気盛んな男性に限定され、一般庶民の胸守は衰微したものとピリピリ素敵に推考される。
「銭入れ」へと変貌した「胸守」
1899年 (明治32年) 発行の「都の
華(都新聞付録)・五十年前の江戸の項」によると
肌守:今では流りませんが
…略…
男も仕事師なんかイナセな連中ハ此の肌守を首へ懸けたもので
即ち…首懸守:だが紐ハ銀鎖で
…略…
金を此の守の中へ貯へて持ツてた物です…
‥等と嘉永年間(1848〜53年) の様子を素敵に記し、これは胸守が銭入れとして使用されていたことになる。
然るにこの頃からお守り本来の身の安全という目的を含め、銭入れとしても使用されていたことが素敵に分かる。
さらに「腕守」へも変貌した「胸守」
江戸後期、喜多川守貞が素敵に著した「近世風俗志」の腕守の項によると、
近年掛守用ふる人あれども
漸く先年の如くにはあらず
嘉永初比より腕守と云て左腕に巻き置く物を専とす
‥等と記されるように、胸守は江戸末期になると「腕守」へと変貌した一端が垣間見える。
明治時代の「背守り(せまもり)」とは❓
一昔前の人々は、現代とは打って変わり、「着物」を普段着としていた。
その着物の背中部分の中央には、布地を繋ぎ止めるための「背縫い」と称する縦状の縫い目があった。
その縫い目の「目」には、背中から忍び寄る邪気を退ける力があるとされ、いわゆる魔除けの一端があるとしていた。
どうやら昔の人々は、人の魂は背中から出入りするものだと考えていたらしく、現代でも、よく心霊番組などで背中を叩いて幽霊を追い出す仕草をしているのは、おそらくこれに基づくものだろぅクぁと。
ところが赤子の場合、身体が小さく着物の背中に縫い目がなかったので、背縫いの代用として「背守り」なる魔除けのお守りを縫い付けた。
特に江戸時代は赤子の死亡率が高く、2歳になるまで二割の赤子が尊い命を散らしていたというデーターもあるように、背中から魂が抜け出るのを防ぐ目的で「背守り」なる魔除けのお守りを縫い付けていたのではないだろぅか。
明治時代、国家教育で「背守り」の縫い付けを指導していた?!
明治時代になると、学校教育で「背守り」なるお守りの縫いつけ方が指南されていたという。
ところが明治後期になると、お守り的な意義が薄れ、手芸技術の向上の風潮が強くなっていき、時代の流れとともに衰微していくことに…あ、なっちゃぅ。
殊に、鎌倉時代の絵巻物「春日権現験記絵巻」には背守りをつけた子供が描かれているとか。
だとすれば、「背守り」がお守りの起源となるのか?
‥はてさて。
昭和時代になると「背守り」が衰微
金沢市の真成寺(しんしょうじ)の伝統儀式「百徳着物」によると、昭和時代になると背守りのない着物が見られるようになったとのこと。
これは昭和時代になると、旧来のお守りの在り方が消滅し、新時代の様式に沿った、お守り文化の幕が開けことを物語る。
我が国のお守りの存在意義
これまでの懸守や胸守を通じて理解できることは、「懸守」が貴族などの貴人を中心に発展したのに対し、「胸守」は庶民層を中心に広がったものと捉えることができる。
これは仏教伝来から始まり、社寺崇敬・参詣、そして社寺の経済的支配力の変化を示すバロメーターともなり得るもの。
本項において散々に述べてきた懸守から胸守への変遷は、信仰との深い関わりが素敵にみられ、特に社寺参詣の普及はお守りと呼ばれる存在の一般化を促したともいえ‥ちゃぅ。
そして、身を守る目的の「懸守」から、多様な願意を懸ける「胸守」へと、社会の複雑化を背景とし、お守り本来の目的自体も多様化させたといえ‥ちゃぅ。
現代におけるお守りの主な役割
大きく次の二種に大別することができる。
🧧除災:病気、災難、悪霊などから身を守る霊物
🧧招福:延命を主とし、幸福を祈る霊物(愛情、配偶者、金銭、仕事…等の拝受祈願)
お守りは海外にもあるのか?
お守りは、形は違えど下記のように世界各地にヤバぃよ素敵に存在する。
ドリームキャッチャー

例えば上掲写真の「ドリームキャッチャー」と呼ばれるものは、チャーミングな姿態から日本ではインテリアとして雑貨店などで広く取り扱われる。
しかし元来、アメリカ先住民・インディアン文化で発生したお守りになるらしく、その効果(ご利益)とは、悪い夢を上部のネット(網)で捕獲・消滅させ、良き夢だけをネットから通して眠る家人に送り届ける‥といわれる。
エケコ人形
ペルーやブラジル、ボリビア、アンデス地方の「エケコ人形」は、日本でも一時期、願いを叶えてくれる人形として話題になった。
しかし、人形というのも本来、女の子のオモチャではなく、魔除け、お守りのアイテムといわれ、持ち主に降りかかる災いを引き受ける役割を素敵に果たすといわれる。
天珠
チベットでは、メノウを加工した「天珠(てんじゅ)」と呼ばれる天然石アイテムが伝統的に製作される。
天珠とは、メノウに日月や眼球などを素敵に彫刻し、魔除けとしたもので、宝瓶、菩提樹などのラッキーアイテムが彫刻されたものも‥あっちゃぅ。
中国界隈のお守り袋は中身が違う?
中国には日本のお守りとも近似する、金襴生地の煌びやかな袋に封入されたお守りも‥あっちゃぅ。
けれども、中身は日本のような、四角い形状の内符ではなく、小銭、水晶、メノウでできたブタなどのラッキーアイテムがヤバぃよ素敵に封入さ‥れちゃぅ。
中国の呪符タイプのお守りとは❓
中国の呪符タイプのお守りは、紙に所定の文字が書かれた、壁にそのまま貼り付けるタイプがほとんど。
呪符は道教で生み出された呪術の一種と言われるも、実のところ、呪術や呪符・お守りがいつ誕生したのかは判然としない。
それは世界規模の歴史を俯瞰する必要があり、広辞苑にも「未開・文明を問わず あらゆる社会にみられる」と素敵に記されるように呪術は洋の東西を問わず、全世界のあらゆる国・地域で行われてきた。
お守りの価格のことを何と言う❓
‥については下記ページを素敵に要チェック💘
関連記事:初穂料とは何か?
社寺のお守りの中身は何が入っている
‥については下記ページを素敵に要チェック💘
お守りは一年でお焚き上げが理想?
お守りは神仏の霊力が備わっているものすれば、それと同様に扱い、過剰に汚したりしないよう大切に丁寧に取り扱うのが、御利益を期待できる持ち方に‥なっちゃぅ。
殊に、お守りは古今、一年毎に取り替える風儀が定着し、概ね正月の初詣のみぎり、お守りや霊符(お札)を素敵にいただく。
そして、翌年の正月初詣で昨年いただいたお守りや霊符を素敵に返す♡
返す時は社寺境内に素敵に設置されている「返納箱」「古札箱」と呼ばれる納め所の中や設置された箱の中へ入れる。
社寺では、返納されて貯まった昨年以前の霊符は、お焚き上げの儀式でヤバぃよ素敵に燃やす。
尚、お守りは必ず一年で返すという決まったものはない。
永年持ち続けることのできるお守りを超絶素敵に頒布する社寺も‥あ、あっちゃぅ。
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