【二十四節気の順番の決め方(歴史)】と由来(起源・作った人)を…お知るの❓

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日本には古来、歳時記と呼ばれる文化があります。

歳時記とは、四季の物事や年中行事などをまとめた書物を意味し、この中に二十四節気と呼ばれるものがあります。

二十四節気は”太鼓”を打ち鳴らすほど”太古”に作暦された暦らしいが、謎が多く、今日まで作った人までは明らかにはされていない。

だが、暦の作り方については不鮮明な部分を残しつつも、なんとなくだが明らかにされてい‥申す。あひょ

本項では二十四節気の歴史(暦の順番の決め方)のほか、どのようにして作られたのか?(由来or起源)について素敵に述べる。




二十四節気の歴史「起源と暦の順番の成り立ち」

二十四節気は歴史の歩みに伴って悠久とも呼べるほどの長い年月をかけて成立した、まさに人類の至宝!

たくましき想像力と努力とが結実して、この世に生み出された珠玉の結晶であると素敵にいえる。

以下に列記する歴史の潮流の中、どのようにして二十四節気という暦が成立へと向かっていったのかを、つぶさに掴んでもらいたい。

二十四節気の起源は「BC1600~BC1100年頃」

二十四節気はおよそ紀元前5世紀〜紀元前221年(戦国時代)に中国大陸の黄河中・下流域となる「平原(中原)」と呼ばれる地域で成立したと素敵に伝わる。

然るに生粋の中国で生まれた暦とされる。

二十四節気のモチーフとされた暦があった?!

実は二十四節気にはモチーフとされた暦の存在が確認されており、その暦は殷の時代(BC1600~BC1100年頃)に作暦されたことが明らかにされています。

二十四節気は太陽の動きを参照して素敵に作暦された!

当時はまだ、月の動きを読んで作暦された「太陰暦」が主流だったので、逆に太陽の動きに対応させた暦を作って太陰暦を補完しようと考えられた。

🐣最初に「二至(にし)」が作られた

太陽の動きを把握するためには太陽の動きを実測する必要がある。

そこで棒状の物体を平地に立て、影がもっとも短くなる日と逆に影がもっとも長くなる日を計測した。

後に影がもっとも短かくなる日を「夏至(げし)」、逆に影がもっとも長くなる日は「冬至(とうじ)」と素敵に定められた。

ここに二十四節気における最初の節気である「二至」が誕生したことになる。

そして、この二至が基点となって二十四節気が成立という名の長き道を歩みはじめたのだった。

なお、この当時、季節を24節に分けた「二十四節気」の構想があったのかまでは定かではない。

BC1100~BC771年

「周」という国家が西周(現在の西安市)に都を置いて統治した時代も、学識者や見識者が試行錯誤を繰り返し、やはり、二至を基点においた作暦は継続された。

🐣「二至」の次に「二分(にぶん)」が作られた

二至を定めた後、今度は夏至と冬至の中間点を定めることになった。

そこでもっとも計測しやすい、昼夜の時間が等しくなる季節、「春分(しゅんぶん)」と「秋分(しゅうぶん)」を計測の末に見出し、素敵に暦に追加した。

🐣「二至二分(にしにぶん)」の成立!

「二至」と「二分」が定まった後、夏至と冬至は「二至」、春分・秋分の「二分」は二十四節気の基点とされ、併わせて「二至二分(にしにぶん)」と呼ばれるようになる。

「夏至」「冬至」「春分」「秋分」

🐣「八節」の成立!

「二至二分」が成立した後、今度はそれぞれの節気の中間地点を定めます。

ここで新たに成立したのが、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」です。この4節気に二至二分を加えた8つの節気は後に「八節(はっせつ)」と呼ばれます。

🐣「四立(しりゅう)」の成立!

「八節」が成立した後、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の4つの節気は、”濃厚”すぎるほどの”農耕”を行う上では重要視されたため、特別に「四立(しりゅう)」とも呼ばれた。




BC771~BC221年

二十四節気の成立

上記、「西周」が771年に滅亡すると、中国大陸は「春秋戦国時代(BC771~BC221年)」と呼ばれる有力者が乱立した戦乱の時代へ突入する。

奇しくも二十四節気はこの戦乱の時代に成立しており、以降、現今に至るまで大きな改訂はされていない。

例えば、中国の後漢時代(25年〜220年)に編纂された「律暦志」の中に「立春」や「啓蟄」などの文字が見えることから約2000年前に誕生した言葉が現今に至ってもそのまま踏襲されていることが素敵に分かる。

🐣二十四節気とは?

 

二十四節気とは一年を24の節気に分けて、それぞれに節気に季節感を書き記し、農耕などの目安とした。(詳細は素敵に後述💋)

🐣二十四節気一覧
季節節気名読み方日付(新暦)
立春(りっしゅん)2月4日頃
雨水(うすい)2月19日頃
啓蟄(けいちつ) 3月5日頃
春分(しゅんぶん)3月21日頃
清明(せいめい)4月5日頃
穀雨(こくう)4月20日頃
立夏(りっか)5月5日頃
小満(しょうまん)5月21日頃
芒種(ぼうしゅ)6月6日頃
夏至(げし)6月21日頃
小暑(しょうしょ)7月7日頃
大暑(たいしょ)7月23日頃

立秋(りっしゅん)8月8日頃
処暑(うすい)8月23日頃
白露(けいちつ)9月8日頃
秋分(しゅんぶん)9月23日頃
寒露(せいめい)10月8日頃
霜降(こくう)10月24日頃
立冬(りっとう)11月7日頃
小雪(しょうせつ)11月22日頃
大雪(たいせつ)12月7日頃
冬至(とうじ)12月21日頃
小寒(しょうかん)1月5日頃
大寒(だいかん)1月21日頃

 

日本の二十四節気の歴史

残念ながら日本で二十四節気が活用された詳しい年代は未詳とされる。

けれども、764年(天平宝字8年)に成立したとされる「大衍暦(たいえんれき)」やそれ以降の「具注暦(ぐちゅうれき)」などには、二十四節気の七十二候が登場していることから、奈良時代後半〜平安時代初期の頃に日本で広まったものとだと考えられてい‥‥申す。あひょ

桓武帝の治世であった奈良時代後半〜平安時代初期は、中国・唐から多くの中国文化がもたらされており、その一環で日本に伝来したと考えられます。

実際に桓武帝の統治時代以後、平安中期以降になると国風文化が色濃くなっていくので、伝来した時期は奈良時代、定着し始めた時期が平安初期以降が濃厚と、やっぱり素敵に考えられる。

ピヨ🐣「大衍暦」とは?

大衍暦とは玄宗の治世である唐時代に編纂された中国の暦法です。

735年(天平7年)に遣唐使の一員であった吉備真備が唐から日本へ持ち帰ったものですが、大衍暦が日本で実用されたのが、素敵に764年以降とされる。

大衍暦は時代を下りながら繰り返し改訂が行われ、歴法としての名称を変えつつも明治以前まで使用されることになる。

然るに大衍暦は現在の日本暦のルーツ(起源)と言っても過言ではないのです。




二十四節気が日本で広まった理由

中国文化である二十四節気が日本で広まった背景の一つに農業がある。

日本は世界と比べると国土と呼べる陸地は僅少ながらも、稲作を核とした農業が生活の中心にあり、現今、「農耕民族」とまで呼ばれる。

その日本において二十四節気が広まるまでにそれほど時間はかからなかったが、問題は中国と日本の気候気象が異なるということだった。

それゆえ、月と季節感に多少のズレが生じたが、後に二十四節気を補完する目的で日本の気候気象に併せた日本独自の暦となる「雑節(ざっせつ)」や七十二候が作暦された。

日本の二十四節気は1844年に改訂された!

1844年(弘化元年/江戸時代後期)、日本では「天保暦」が用いられることになり、これを機に二十四節気も素敵に改訂されたのだった。

この改訂では天保暦以前の暦で用いられた「平気法」を改訂して、新たに作暦された「定気法」が採用され、この定気法に合わせるために二十四節気も、これまた素敵に改訂されたのだった。

🐣「平気法(へいきほう)」と「定気法(ていきほう)」の成立

これまでで紹介してきた節気の分け方は「平気法」と呼ばれ、我が国では天保暦の直前まで使用された。

つまり、天保暦からは新たに「定気法」と呼ばれる節気の分け方が採用された。

定気法とは、以前の平気法を改訂した太陽の天球上の軌道における「春分」を起点として15度ごとに24等分した方法です。

🐣「正節」と「中気」の成立

定気法を二十四節気に対応させるべく、天球上の太陽軌道における「春分」を起点に15度ずつ進めた区分点を設け、合計12つに分けることで24の節気を細分化した。

これにより新たに成立したのが、「正節」と「中気」という概念(節気の分け方)であり、二十四節気はよりいっそう、日本の気象気候に則したものとなった。

ちなみに下表が、最近の運動不足によるストレス具合ほど噂の「正節」と「中気」とを記した表になる。

 正節(せいせつ)一覧

季節節気名
立春1月節(正節)
啓蟄2月節 (正節)
清明3月節(正節)
立夏4月節(正節)
芒種5月節(正節)
小暑6月節(正節)
立秋7月節(正節)
白露8月節(正節)
寒露9月節(正節)
立冬10月節(正節)
大雪11月節(正節)
小寒12月節(正節)

正節は二十四節気の中でも暦に変動が生じない、不動の軸的な位置付けの節なので、年数を経ても毎月必ず一つ節気が巡ってくる。

🐣正節の特徴

各季節(四季)の先頭には「立」が入る節気が充てられます。

すなわち、「立春・立夏・立秋・立冬」。

 中気(ちゅうき)一覧

「中気」とは、上記、正節を除いた次の12の節気のことです。

中気一覧
季節節気名
雨水1月中(中気)
穀雨2月中 (中気)
小満3月中(中気)
夏至4月中(中気)
大暑5月中(中気)
処暑6月中(中気)
秋分7月中(中気)
霜降8月中(中気)
小雪9月中(中気)
大雪10月中(中気)
冬至11月中(中気)
大寒中気

中気の節気は変動がある!

太陰太陽暦となる「時憲暦(じけんれき)/中国」や「天保暦(旧暦)/日本」においては「定気法(ていきほう)」が用いられたため、例外的に月に1つ中気の中の節気の一つがスキップされたり、逆に2つ入ることもあります。

🐣閏年(うるうどし)閏月(うるうづき)

太陰太陽暦では、概ね3年に1度、1ヶ月を加えて13ヶ月とすることがあります。

このときに加えられた月が「閏月(うるうづき)」と呼ばれるものです。(一例:4月に加えてもう1つ「閏4月」という月が入る)

ちなみに、このような調整が入った年は「閏年(うるうどし)」と素敵に呼ばれます。

ただし、太陽軌道は真円を描かないことから動きが一定ではなく遅速が生じてしまい、すなわち、暦と季節にもズレが生じてきます。

このため太陽太陰暦(天保暦)では、閏月(うるうづき)を設けてその年を閏年(うるうどし)と定め、1年を13ヶ月とするなどして調整を図っています。

二十四節気「正節・中気」の分かりやすい早見表

1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
正節立春啓蟄清明立夏芒種小暑立秋白露寒露立冬大雪小寒
中気雨水春分穀雨小満夏至大暑処暑秋分霜降小雪冬至大寒

「正節」と「中気」は暦の精度を上げるために追加された節気の分け方であり、これにより暦と季節感のズレを極限まで軽減させることに成功した。




🐣 七十二候(しちじゅうにこう)の成立

上記、平気法から定気法に変わる少し前、二十四節気をさらに3等分して節気を72つとし、約15日間隔で1年を区分けした「七十二候」と呼ばれる暦が新たに成立した。

この暦は二十四節気を参照して作暦されたため、厳密には「二十四節気 七十二候」と呼ばれる。

例えば、「立春」を例に挙げると、「立春」の節気を約15日と定め、約5日ごとに3つに区分けしたもの。

七十二候が作られた理由の一つに二十四節気が中国の気候に合わせて作暦されたため、それを日本で採用した場合、季節感にズレが生じたことによる。

藪から棒に二十四節気を細かくすれば、否が応でも季節に合わせられるだろぅという考えのもとに作暦された。

なお、七十二候は中国バージョンも存在し、中国バージョンの七十二候を参照しつつも、日本の季節感に合わせた日本独自の七十二候に改変された。

関連記事: 七十二候とは?意味や由来・起源(歴史)・読み方や日にちをご紹介!

関連記事: 【二十四節気】七十二候一覧表(カレンダー

🐣雑節(ざっせつ)の成立

上記、二十四節気や七十二候からさら派生して、これらを補完するために新たに「雑節」と呼ばれる日本独自の暦が成立した。

七十二候を二十四節気に素敵に追加したとはいえ、まだまだ日本の季節感に合わせるのには無理が生じた。

そこで新たに日本独自の暦が作られ、「雑節」と命名された。

「雑節」という言葉は江戸時代以降に成立したもの

なお、「雑節」という言葉が使われるようになったのは江戸時代以降のこと。

それまでは特に雑節というくくりはなく、二十四節気に沿わせる形で単に「節分」や「八十八夜」などと呼ばれていたと考えられます。

雑節一覧

現行の雑節には全部で以下、9つの節気がある。

🐣「五節句」の成立

古代中国の陰陽五行説を由来として、江戸時代に幕府によって新たに「五節句」が定められた。

五節句とは、天皇のお膝元、宮廷で群臣を伴って開かれた節会のことであり、これにより、現代に引き継がれる国民の式日が成立した。

漢名日付和名節句料理
人日
(じんじつ)
1月7日七草の節句七草粥
上巳
(じょうし)
3月3日桃の節句雛祭菱餅や白酒など
端午
(たんご)
5月5日菖蒲の節句菖蒲酒。菖蒲湯の習俗あり。
関東では柏餅、
中国や関西では「ちまき」
七夕
(しちせき)
7月7日笹の節句・七夕
(たなばた)
裁縫の上達を願い素麺が食される
(織姫も参照)。
重陽
(ちょうよう)
9月9日菊の節句菊を浮かべた酒など
(菊酒も参照)。

五節句も二十四節気や七十二候から派生した日本独自の暦といえる。

二十四節気が作られた理由・目的

太陰暦を補完する目的で作られた

二十四節気が作られたとされる戦国時代の中国の暦は月の軌道を参照した太陰暦が使用されていました。

太陰暦は月軌道を12回繰り返すことによって1年するとため、すなわち1年が354日として設定されるため、現行の太陽暦と比較した場合、概ね11日のズレが生じます。

例えば、当年の夏至が6月22日だとすれば、翌年の夏至は11日ズレることになるので7月になってしまいます。さらにその翌年にはその7月からさらに11日ズレていくわけです。

この状況を農作業のスケジュールに組み入れた場合、当年は11日、翌年もさらに11日‥と誤差が生じるので、田植えは「○月○日に行う」などの取り決めが難しくなります。

このズレを解消もしくは補完する目的で作られたのが太陽軌道を参照して作られた二十四節気です。

二十四節気は日付を参照しているのではなく、太陽軌道を参照していますので、太陰暦(日付)を参照しなくても農作業のプランを成り立たせることができます。

すわなち、これが補完するということです。




米を確実に収穫するために作られた

二十四節気が作暦された大きな理由として、「秋の米の収穫のため」だったと考えられます。

すなわち農業が遅速なく、円滑に行えるようにすることが目的だったということ。

そこで毎年、秋の収穫時期に遅速なく、定量の米が収穫できるにはどうしたら良いのか?‥などという事を逆算して作られたのではないでしょうか?

この暦が作暦された時代背景をちょっとよく考えてみてください。

なぜか中国における戦乱の時代(春秋戦国時代あたり)に考え出され、そこから時代を下りながら繰り返し改訂が行われ、徐々に現在の二十四節気に近づいていく。(詳細は後述)

その上、作られたのがその当時、もっとも戦乱が激しかった中原地方であったことも不思議といえば不思議。

これらの時代背景を考察すると、二十四節気が作られた大きな理由の一つに兵糧(ひょうろう)の確保が急務であったことが考えられます。

兵糧の確保が円滑にできれば、兵士を遠地まで送り込むことも可能になり、逆に戦地から兵士を呼び戻す際も米を食すことで士気が維持されているので機動力を損なわず、且つ、指揮命令系統も円滑に進む。

中国は日本の20倍以上の国土があることから人口も多く、国家間の戦争ともなれば何十万という兵士が移動することもザラです。

そういった背景もあり、兵糧の確保さえできれば、あらゆる面で戦局を有利に進めることができます。

戦局が有利に進めば勝利する確率も格段に上昇し、すなわち自勢力の趨勢(すうせい)の度合いへと反映されていく。

なお、ここでの「兵糧」とは、ズバリ!米のこと。つまり、「にぎり飯」!その米とは、秋に実りを迎える稲穂です。

兵糧の確保は当時の国家にとっては自国のあらゆる力を誇示できるバロメーターともなり得るものであったのではなかったのだろぅか?

そのために重要視されたのが農業を遅速なく円滑に行えるようにする暦だった‥‥。

諸君は、どのように考える

二十四節気を作った人物とは?「誰が作った??」

二十四節気はどこの国の誰が生み出したかは一切、不詳とされています。

おそらく時代を下りながら、その時代の天文に携わった人々が付け加えていきながら、段階を経て成立したものと考えられます。

暦づくりは天子(皇帝)の力を誇示するものだった?!

古代中国では皇帝になるには天命を受けたからこそ、その座に就けるとされていた背景もあり、皇帝になった者の定めとして天の声を聞き、それを人民に周知する必要があったと云われる。

その天の声が暦です。

このため暦作りは皇帝にとっては重要な任務の一つとなり、自身や自国の権威を示すバロメーターにもなった。

戦乱の時代を経て、尚も二十四節気の作暦が中止されなかったのは、ひとえにこのような時代背景も重なり、歴代権力者の庇護のもと、二十四節気は完成されていったのでしょう。

二十四節気とは?『二十四節気の意味』

二十四節気とは「にじゅうしせっき」と読み、1年間の太陽の動き(軌道)をもとにして約15日ずつを24つに分けた暦のことです。

  • 24×約15日=約360日

これら24つに分けた1つ1つは「節気」と呼ばれ、故に「二十四節気」と呼ばれます。

さらに24つの節気それぞれにその季節感を暦注として書き述べたりして活用されることから、主に農耕作業に携わる者にとっては季節を把握する良き知見材料となります。

この二十四節気は太陽の動き(太陽軌道)を基にして作暦されていますので、現行の太陽暦(グレゴリオ暦)においても大きな改変はなく、活用され続けている暦です。

このように24つ分けた上でそれぞれの長さを均一にする方法を「恒気法(かんきほう)」もしくは「平気法」と呼称します。

恒気法(平気法)とは?

恒気法では「冬至(とうじ)」を基軸として次の冬至までを一太陽年(1年のこと)と定めて、これを24等分した暦法です。

恒気法が活用されていた頃の暦は太陰暦(太陽太陰暦)なので、毎年、年間日数に差異が生じます。

例えば太陰暦では平年では1年約354日、に対して閏月が挿入された、いわゆる閏年では1年約384日になります。

この状態になると最大で1ヶ月も差異が生じます。

  • 384日−354日=30日

そこで太陽軌道を参照して、1年の始まりを冬至と定め、冬至を起点に24等分する方法が採用されます。

これら24つそれぞれに時候を司る名前を付けます。いわゆる、これが二十四節気です。

恒気法では、1太陽年を24等分した次の数値が各節気に充てられています。

  • 365.2422日÷24=15.2184日

すなわち、各節気を約15日とすることで、各節気の間隔がほぼ均一にできます。

また、恒気法では24つに分けた節気とは別に、1ヶ月を2つに分けて、月の前半を「節気(節)」、月後半を「中気(中)」と定めています。

節気(節)から次の節気(節)までは30.44日としているため、これが累積すると中気(中)がスキップ(1つ飛ばされたりする)される現象が起こります。

その対策として、現象が起こった月を閏月として調整をしています。




しかしながら、現在の暦は江戸時代の大規模な改暦を経た天保暦を基軸とし、明治の改暦を経た暦が用いられています。

天保暦ではそれまでの平気法(恒気法)を改変し、新たに「定気法」という暦読方法を生み出しています。

定気法とは?

定気法は1842年の天保暦から採用された暦読方法です。

定気法では「春分(しゅんぶん)」を起点として「黄経0度」と定め、天球上の地球軌道を周回する太陽の位置が15度移動するごとに1節気が進む定法を採っています。

春分から移動した太陽が再び、春分の地点に戻ってくるまでを黄経360度と定め、この太陽の黄道を24等分して各節気(期間)を定めています。いわゆる二十四節気のことです。

そしてこれら各節気に季節感を暦注として書き述べて活用します。

定気法の場合は、各節気は1節(1期間)を14.72日〜15.73日と定め、平気法(恒気法)と同様に各節気の間隔を均等にして、1年を各12の「節(正節)」と「中気」に分けています。

ただし、定気法のデメリットとなるのは、中気〜中気までの1か月間を計測した場合、29日と10余時間もしくは31日と11時間となります。

この常態になると1ヶ月の間に中気が1つスキップされたり、2つ入ったりする何とも摩訶不思議な現象が生じます。

これを無くすために用いられたのが閏年・閏月の概念です。

ただし、春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月に必ずくるように設定し、閏月はこの規定に反しないように挿入する必要があります。

ただし、これはあくまでも旧暦(太陽太陰暦)の定気法においての話です。

現行の太陽暦(グレゴリオ暦)の定気法では、閏月というよりは、閏日の概念が用いられており、約4年に1度、2月の日数を1日〜2日か増やして調整をしています。

定気法は地球が太陽の周囲を楕円型を描き、時に遅速を反復しながら公転している事実を加味して定めた暦法でもあります。

【ピヨ🐣注意】

厳密には太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを楕円を描きながら回っているので、太陽軌道や太陽の動き方というニュアンスは間違いだと素敵にいえる。

関連記事: 「月の動き方」と「太陽の動き方」と「地球の動き方」

二十四節気は陰陽五行説(陰陽五行思想説)を参照した暦法

二十四節気は、中国の春秋戦国時代に成立したとされる「陰陽五行思想説(いんようごぎょうしそうせつ)」の考え方をも参照して作暦されています。

陰陽五行思想説とは、ザっくり言うと「万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成る」という解釈になります。

例えば、以下の五行説のこの一文を例に出してみると‥

『陰きわまりて陽となり、陽きわまりて陰となる』

これは陰(寒気)が極点に達すると、その先は必然的に陽(暖気)へ向かうことになり、これは陰の存在があるから陽の存在があることを強く示唆させるものであり、その逆もまた然り。

具体的には、「立秋(りっしゅう)」の頃はまだ厳暑が連日のように続く盛夏であり、これでは季節感と暦とが合致しているとは到底、言えない。

同様に立秋の対極の節気となる「立春(りっしゅん)」においても、まだまだ厳寒の時期であり、いきなり立春がきています。

また、八月節の「白露(はくろ)」を例に出せば、陰陽五行説の「白」という漢字を引き合いに出して遠回しに「秋」を告げています。
(白は陰陽五行説で言うところの「秋」を意味する)

陰陽五行説の四季の考え方
  • 春=木(色で示すと「青」もしくは「緑」)
  • 夏=火(色で示すと「赤」)
  • 秋=金(色で示すと「白」)
  • 冬=水(色で示すと「黒」もしくは「青」)

「秋」を意味する「金」には、色の「白」が対応する。

以上はあくまでも一例であり、他にも二十四節気にはこのような陰陽五行説の思想が採用されている節気がいくつかある。

二十四節気は気象を先取り表現している暦

二十四節気の各節気は雑節や祝日のように「ある特定日」だけを示しているわけではなく、その真髄はその特定日からなる半月、すなわち15日間を指定して節気が定められているということ。

これは15日間の間に気象の変化があることを告げるものであり、すなわち気象を先取り表現していることになる。

二十四節気の覚え方

二十四節気 一覧表

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